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【藝術日記2023】11/17 アーティスト 飯山太陽 インタビュー

昨今、「障がい者アート」をテーマとした事業が盛んに行なわれるようになっている。我らが松本市も、「対話アート」という障害者や生きづらさといったテーマのアート展示を市内各所で開催中だ。そしてこれからも、「障がい者アート」、いや、「障がい者」と向き合う機会はどんどん増えていくだろう。そこで、私にも、障がいを持ちながらも実際にアーティスト として活動している友人がいるので、これを機にインタビューを行なってみた。これからの時代、決して目をそらすわけにはいかない障がい者の事情、その生きづらさを背負いながら、自分自身、そして社会に対してどう考えながら活動しているのか、直接話を聞ける貴重な機会をみなさんにも共有していきたいと思う。


今回、お話を伺ったのは、現在栃木県内を中心に活動しているアーティストの飯山太陽氏 だ。彼は普段は B 型施設で働きながら、毎日コツコツと創作活動にいそしんでいる。SNS 上における活動も精力的に行ない、ギターやピアノの演奏、ボカロ楽曲の制作なども行なっ ている。さらに、何度もグループ展やアートイベントに参加し、自身の個展は今までに 5 回 行なっている。

飯山太陽氏とその作品


私と飯山くんは、小学校以来の付き合いであり、ともに遊んだり、お互いにつくった作品 を見せ合ったりなど、非常に仲が良く、クリエイティブな関係だ。しかし友達という近い距離感からか、あまり彼を「障がい者」と認識し扱ったことはほとんどない。そんな彼をいきな り「障がい者アーティスト」としてインタビューを行なうことに対して、飯山くんは抵抗があるのではないかと思っていたが、この話を持ち出してすぐに快くインタビューを了承してくれた。むしろどんどん聞いて、発信してほしいとまで言ってくれた。友人の篤い好意に 感謝し、お互いに準備を進めながら、当日のインタビューに臨んだ。

普段から LINE でよくやりとりはするものの、こうして話すのはオンライン上とはいえ久しぶりである。さらに真面目な質問を含むインタビューを行なうものだから、若干緊張している。ゆるくやっていこうと言ったものの、お互いややかしこまった雰囲気の中、まずは飯山くんを知らない方に向けて、簡単な自己紹介から入ってもらった。
「飯山太陽といいます。普段は B 型施設の食堂で働きながら、絵画を中心にアーティスト活動をしています。展覧会などのイベントでは、特に大型の作品や立体作品をつくることもあります。SNS では Instagram や Twitter を中心に、自身の活動を発信していて、また『近未来的ノスタルジア』という別名義で音楽活動も行なっています。」
飯山くんは非常に多彩で、幅広い作品を手がけている。絵画作品においては、色鉛筆や アクリル絵の具を好んで使っており、時には一畳や二畳サイズの大きな作品を描くことも ありながら、いずれも緻密な描き込みや繊細な色使いが特徴的だ。なにより最大の魅力は 彼独自の世界観である。生き物や無機物、世界の神々から身近な物まで、古今東西様々なモチーフが、所狭しと画面いっぱいに描かれている。溢れんばかりのカオスでオリジナルな世界観に、観たものは心を奪われるだろう。主に展覧会場では立体作品や空間展示を行なうこともあり、彼の表現により深く触れることができる素敵な演出となっている。一方で、別名義での楽曲制作活動や、ギターやピアノの演奏もできて、イベント会場などでお 披露目することもある。マルチな創作活動を行なう、これからが楽しみなアーティストである。


このように多彩な飯山くんだが、そもそもこうしたアーティスト活動を行なうようになったきっかけというのはあるのだろうか。
「自分は幼い頃から絵が好きで、現在の活動は、そうした小さい頃描いていた落書きの 延長みたいなものです。絵画を中心としたアートを制作しながらも、実は美術の専門的な技法などを特に学んだわけではありません。自由に楽しく活動しています。」
飯山くんが描く線や色、独特な世界観やキャラクターは、専門的な美術の知識とは別の、飯山くん自身のセンスから生み出されてきたものであった。飯山くんはさらに続ける。
「自分は障がいを持っているので、小中高と、特別支援の学級に通っていました。そういった、自分を含めイレギュラーな人たちと交流していくなか、無理してできないことを頑張ろうとするよりも、自分の興味のあることを延ばしていく方が大切だと教えられました。特に自分たちには、よく『正解』というのをわざわざ与えられがちなのですが、与えられる『正解』に必ずしも従う必要はないのだな、と学びながら成長してきました。」
飯山くんは学習障がいを生まれながらに持っている。彼にはお兄さんとお姉さんがそれぞれ一人ずついるのだが、他の兄弟に比べて、知能の発達の仕方が違うと感じたご両親が病院に検査をさせに向かったところ、小学4年生の時に学習障がいがある、と診断された。私を含め、普通学級の子と交流しながらも、特別支援学級に通い、イレギュラーであるということにたくさん悩んだこともあっただろう。しかし、得意だった絵を先生や周囲にほめられることが多く、好きなものを伸ばしていくことに決め、今まで活動を続けているようだ。こうした正解にこだわらないという考え方が、障がい者として前向きに生きることと、飯山くんの活動スタイルに合っていたのだろう。


障がいの話題が出たところで、飯山くん自身は「障がい者アート」について、そしてそれに対する自分の作品についてどう考えているのか聞いてみた。
「自分は、いつも自分が『障がい者アーティスト』や作品が『障がい者アート』として 扱われることに疑問を持っています。そもそも障がいってなんだろうって考えてみると、 世界には肉体的にも精神的にも、様々なタイプの障がいが存在します。でも、そういったものって、切り詰めていくと結局、それぞれの人の特徴や個性ということになりませんか?一種の『生きづらさ』を抱えているものを特に『障がい』と呼んでいるだけです。」
以前、別の障がい者アーティストの方で、自分の作品は「アート」ではなく「障がい者アート」になってしまう、と自身の活動の扱われ方について悩みを打ち明けていた話を聞いたことがあるが、飯山くんも同じような疑問を抱えていたようだ。
「アール・ブリュットやバリアフリーなどの『障がい者』という単語が付かない言葉もあ るものの、なぜわざわざアートに『障がい者』という単語をつけるのかわかりません。アートは誰でも自由に参加するものであり、それらの表現を『障がい者』とそれ以外、と区分される意味があるのでしょうか。本当は『障がい者アート』なんてものはない、と自分 は考えています。」
障がいも一種の個性であること、そしてアートは誰でも参加できる表現である、という信念が飯山くんにはあるようだ。このような観点からみると、「障がい者アート」という存在に納得がいかないのもうなずける。
その上で、なぜ「障がい者アート」というものが存在するのか、その理由についての見解が述べられた。
「自分が知っている障がい者の方で、体がほとんど動かせず、手しか動かせないという  人がいます。この人は毎日数回、その動かせる手でティッシュを握りしめる、という行為を繰り返します。それは本当にただの握りつぶされたティッシュなのですが、そのティッ シュがほとんど手しか動かせない人が生み出したもの、という情報を加えたら、どう思うでしょうか。健常者が握りつぶしたティッシュとは感じるものが違うと思います。その人は作品のつもりでティッシュを握りつぶしているかどうかはわかりませんが、間違いなくそのティッシュは彼の表現です。こうした表現がアートとして参加するための場として、 『障がい者アート』というのがあり、『障がい者アート』がなくならない理由なのだろうなと思っています。」
「障がい者アート」は普段は日が当たらないようなこうした表現が注目される貴重な機会にもなっている。誰でも参加できるべきであるアートだからこそ、「障がい者アート」が存在しているのだが、その「障がい者」というくくりが不偏であるはずのアートの定義をゆがめているという矛盾が飯山くんを悩ませているようだ。

さらに続けて、飯山くんは「障がい者」であることの悩みについて語った。
「先ほども言ったとおり、自分は障がい者向けの施設で働いていますが、うちで売っている商品はいずれも価格が低いです。これはうちに限ったことではありませんが、障がい者がつくったものはあまり高い評価を得ることができません。顧客層も身内に障がい者がいる方がほとんどで、それ以外の方にあまり広がっていきません。なかには、『障がい者の方が頑張ってつくったものだし、買ってあげよう』というお客さんもいますが、我々は純粋にいいものをつくっていいものを売ろうとしているのに、このような扱いを受けてしまいます。障がい者のアート活動も似たようなもので、自分はまだマシな方です。自分の感覚では、障がい者のつくる作品は雑貨やグッズのように扱われている気がします。例えるなら、SNS で中学生が描いて安く売っているようなフリーアイコンのイラストみたいなイメージです。いまいち、創作物がアート作品としてみられない傾向があると感じていま す。」
社会の「障がい者」に対する扱いの問題について、当事者が感じているリアルな意見を頂いた。たしかに、通常の商品と、障がい者がつくった商品が同じ値段設定で、というよりも同じ棚に並べて売られている、という印象があまりない。アート云々の前に、障がい者が手がけたものというのは、社会的にも特別な扱いを受けているのは間違いない。「障がい者」というフィルターが、良くも悪くも「対等な立場ではないものと意識する」という作用を引き起こしているのだろうか。顧客層が障がい者を身内に持つ人に絞られている、というのも、障がい者に対するリテラシーが広まりづらい大きなポイントの 1 つだろう。
では、飯山くんは、現在行なわれている「対話アート」などの障がい者アートイベントや各種催しなどについてはどう思っているのだろうか。飯山くん自身は、アーティストとして活動する上で「障がい者」というくくりに対し疑問を持っているわけだが、障がい者の表現が注目される場や、社会からの障がい者に対する意識を改善する機会を設けることは重要であると認識してはいるはずだ。その点に関して、どう考えているのか聞いてみた。
「『障がい者』という言葉はあっていいと思います。自分も、アーティストとはまた別に、個人としての『障がい者』扱いされることに不満を抱いているわけではありません。 もちろん、偏見や差別を受けることはありますが、障がい者に対して理解のある身内もたくさんいるし、そういった周囲からのサポートを受けて生活しています。障がい者アートイベントも、どんどんやっていくべきだと考えています。とにかく知ってもらうことが大事なので。今、障がい者アートはブームになっています。関連する事業も増えて、今まで単純作業しかできないような障がい者も、アート活動に参加する機会がたくさんできたのは良いことです。障がい者もそうでない人も、お互いに良い影響を与えられればな、と思います。」
アーティストとしての障がい者扱いとはまた別に、日常で生活する上での障がい者に対する理解やサポートは必要だ。飯山くんの言うとおり、まずは認知してもらうことが重要であり、こうしたインプレッションの機会を積極的に設ければ、障がい者に対するリテラシーの普及や、生きづらさを抱えている人たちを社会が受け入れていく体制が整われてい くはずだ。ただ、あくまで「障がい者アート」はそういったことの手段の一つで、アートとは誰もが等しく参加できるフィールドであり、障がい者の権利やアーティスト活動のどちらにとっても、「障がい者」アートというのがなくなることが最終的な理想である、と飯山くんは語った。
まだまだ社会の障がい者に対しての理解が足りていない現状だが、一人の生きづらさを抱える「障がい者」として、また自分を楽しく表現する「アーティスト」として、飯山くんは 創作活動を続けている。これからさらに躍進を続けていくであろう彼を、障がい者に関わるものとして、アートに関わるものとして、そして一人の友人として、これからも応援し ていこうと強く思った。その後、彼が今まで行なってきた活動の詳しい内容や個展を開いた際の正直な実情などを細かく聞いたのだが、それらは次の機会に記そうと思う。インタビューに応じてくれた飯山くんにあらためて感謝したい。

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