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【ワーホリ国際恋愛体験談】 ⑦ もしも、のはなし バイロンベイの男 (後編)

☆前回までのあらすじ☆
29歳、初ワーホリでオーストラリアに。旅の途中に立ち寄ったバイロンベイという美しく小さな町で、素晴らしい絵を描く画家と出会い…

☆用語解説☆
・ワーホリ: ワーキングホリデービザ(若者の異文化交流を目的とした就労可能なビザ)、またはその保持者。
・バッパー: バックパッカーズホステルの略。安宿。
・バイロンベイ: オーストラリア東海岸、ゴールドコーストの南にある美しく静かな町。

※この記事はほぼノンフィクションです。誰かに迷惑が掛からないようちょっとだけフィクションを混ぜてます。

***
(本編ここから)
日が沈みきった頃、画材を車に積み終えた画家と待ち合わせた。

私たちは大音量のジャズが流れるたくさんの人で賑わったパブに入った。
このパブの客はほとんどが旅行客で、地元の人はあまり来ないのだとか。
それでも念のため、彼は明るすぎない少し人目につかないようなテーブル席を選んだ。

「女の子と二人で飲んでるとこ、知り合いに見つかったりしたらやっぱり、良くないしね。」

彼の視線はキョロキョロと辺りを彷徨い落ち着かない。

奥さんは相当怖い人のようだ。
これは本当にすぐに切り上げた方が良いな。

あまりお酒に詳しくない私のために彼が頼んでくれたシャンパンは、甘過ぎずやや辛口で私好みの味だった。
美味しかったので名前を聞いたけど忘れてしまった。

乾杯をして、たまに遠慮がちに私を見ながらまずは改めて彼の自己紹介が始まった。

彼はロンなんとかというちょっと長くて覚えにくい名前で、だからみんなからはロンと呼ばれているのだそう。
ウェールズ出身の36歳。ウェールズの人とは初めて出会った。

「ウェールズってどこだかわかる?」
と聞かれたので、

「イングランドの中?」
と失礼なことを言ってしまった。

「みんなそう言うんだ!
ウェールズは確かにイングランドの隣だけど、別の国なんだよ。
言葉だって違うんだから。」
hahaと笑ってロンは無知な私にウェールズのことを少し教えてくれた。

きっとこれまでも私のようにものを知らない人々に同じような説明をしてきたんだろう。

絵を描きながら世界中を旅していたら、このオーストラリアで今の奥さんに出会ったという。
奥さんはオージー。

奥さんは専業主婦で、ときどき彼の絵を売る手伝いをしたりするけど、食事は作らないし食器も洗わない。
だからたまには飲みに行きたいんだと言った。

だから私と飲んでるんだと、奥さんのことは気にしないでと、そう言いたいのかなと思いながら話を聞いていた。
その言い訳はきっと、女の子と一緒に飲んでいる自分の罪悪感を和らげるためなんだろう。

私も簡単に自己紹介。
今はまだ旅の途中で、これから西海岸のパースを目指して、出来れば北のダーウィンに向かい、真ん中の巨大な一枚岩ウルルも見に行きたいんだという話をした。

もともと旅人だった彼だから、私たちは旅話で盛り上がった。
一緒に旅したり、彼の絵に囲まれて暮らせる彼の奥さんに対して、笑顔の裏でこっそり嫉妬していた。

ふと会話が途切れたので、シャンパンをまた一口飲みグラスの中を覗き込んだ。
ライトに照らされ煌めくゴールドのシャンパンの中、小さな泡が忙しそうに上に上にのぼっていく。
私はその泡の行方ををじっと眺めていた。

遠慮がちだった彼の視線がまっすぐこちらに向けられているのを感じた。
おかしな雰囲気を作ってはいけないと、それに気づかないフリをして泡から視線を外せずにいた。

シャンパングラスはお酒の弱い私がほろ酔いになるには十分で、楽しい時間を過ごすには小さすぎた。

帰りはバッパーまで車で送ってくれるという申し出を受けた。

日本と違ってオーストラリアは飲酒運転の規定が緩い。
シャンパングラス一杯分なら運転しても問題は無いんだそうだ。
良いか悪いかは別として当時はそういうルールだった。

パブを出てひと気のない公園の駐車場で、風に当たり少し酔いを醒まそうということになった。
車の中には彼の画材といくつかの作品があり、公園の小さな街灯の下でそれらの作品を見せてもらった。

どれもこれも、やっぱり素敵だった。
ため息がでた。

なんでこんな色使いを思いつくんだろうと、不思議で仕方がない。
作品を食い入るように見る私を、彼は嬉しそうに眺めていた。

「君は可愛いなぁ」
まるで独り言のようにポツリと彼が言った。

ビックリして顔を上げると、彼が真面目な顔をしてこちらを見ていたのでまたビックリした。
てっきり茶化したような顔をしているかと思っていたのに。

照れてもふざけてもいないロンの顔を直視できなくて、彼の絵にまた視線を落として小さく「ありがとう」と返す私。

「もっと顔をよく見せて」
と言うので、視線を外したまま恥ずかしさとどうしたら良いのか分からない微妙な表情の顔を上げる。

「こっち見て」
と言うので、迷いながら彼を見る。

「とても美しいね。」

熱を帯びた彼のまっすぐな目から逃げたくなった。

人がいるパブでは遠慮がちに見てくるだけだったくせに。
なんだよ、もう。
急に真面目な顔しないでよ。

圧倒的な彼の才能を見せつけた後にそんなことを言うのは、ズルイ。
私は完全に彼の絵の大ファンになっていた。

あまりに恥ずかしくて、くしゃっと鼻の頭にしわを寄せて見せた。

「ダメですよ、そんなこと言っちゃ。」
と私が叱り、

「ダメだね、こんなこと言っちゃ。」
と彼が言って、ハハッとお互い顔を見合わせて笑った。

私は笑ったまま視線を外して、
彼はまだ私を見ていて、
私は知らないフリをして、
こそっとまた彼を覗き見る。

お互い笑みは消えて、視線が絡み合う。

間に受けちゃいけない。真剣になっちゃいけない。
自分に言い聞かせた。

「君が明日ここを去るなんて言わなければ、僕もこんなに慌てることはなかったんだけど。」

真面目な顔になった彼は続ける。

「誤解しないでほしい。普段ならこんなこと絶対にしないんだ。
会ったその日に飲みに誘ったり、女の子に対してこんな風に言うのだって。

だけど今以外に僕には時間が無いから。」

静寂。

限られた【今】が気持ちを急かす。

私は何と答えたら良いものか図りかねていた。
普段はしないと言われても私にはそれを知るすべはない。

そもそもこれは恋なのか。

単に彼の才能に惹かれているだけなんじゃないのか。
ただ、彼が私を魅了して止まない素晴らしい才能の持ち主であること、
私はそんな彼に興味を持ってもらえて嬉しくてたまらないこと、
そして彼の視線が痛いだけ。

それだけじゃないのか。

「キスしたい。」

熱っぽい彼の目がゆっくり近づいてくる。

私は迷った。
どうしよう。
でもだって、今日会ったばっかりなのに!

彼と過ごしたほんの数時間は本当に楽しかった。
彼の絵はどれも素晴らしくて、私の心を鷲づかみにした。

圧倒的な才能に一目惚れだった。
こんなの初めてだった。

彼自身もとてもチャーミングで、私は確かに彼自身にも惹かれ始めていた。

私と彼には今しか時間がない。
これがきっと、最初で最後の出会い。

「ダメっ…」

迷って、分からなくて、私は逃げた。
横を向き俯いた私の息とすぐ近くまで来ていた彼の息が静かに混ざる。

結婚している人相手に、やっぱりそんなのはダメだと自分に言い聞かせた。
その後の責任なんて持てない。

しばらくロンはそのままで、やがて深呼吸して「ごめん」と言った。
そして、「ダメだよね、やっぱり。奥さんいるしね。」と笑った。

バッパーまで送ってもらう間、気まずい沈黙が流れた。
もうすぐ着くというところで、ロンは前を見て運転しながら尋ねてきた。

「もしも結婚してなかったら、僕のこと考えてくれた?」

もしもの質問なんて、意味がない。
結婚しているんだから意味がない。

「会ったばかりだから分かりません。」
笑って答えた。

もしもの話で満足するなら夢だけみていればいい。
口には出さない方がお互いのためだ。

もしもの話なんて、存在しないんだから。

「だよね」
彼がハハッと笑ったときには目的地に着いてしまった。

サヨナラの挨拶を交わして、彼の車を見送った。
現実にする度胸がないなら夢で満足するしかない。

彼は結局、私には指一本触れてこなかった。
鮮やかな彼の絵を思い出し、彼のまっすぐな目と照れた表情を思い出し、私はこの後随分後悔した。

バスをキャンセルしなかったのも、彼のキスを拒んだのも、どう考えても正解だった。
それでも私は、後悔した。

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