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反面教師と「感情」の取り扱い方について


「いつでも誰にでもフラットな人だ」と言われやすい。

言われると嬉しい、なぜならばそう努力しているので


感情に左右されて自分のパフォーマンスが落ちるのが悔しいとか、感情的な姿を人に見られるのが恥ずかしいなどと思っている節がある。(とは言え感情的な人を否定しない、自分はそうではないというだけで)

何事にも動じない、論理的でクールな人間に憧れているから、演出している部分も大いにある。

もちろん、いらっとしたり悲しかったり感情的になることだってあるし、どちらかというと小さな日々の暮らしや人の行動に感動したり喜びを感じて心揺さぶられることはしょっちゅうあるので(映画でよく泣くなど)、感情的でないわけではない。

今気づいたけど、喜びや感動などのポジティブな感情に関しては素直に表現している気がするけれど、怒りや悲しみなどの負の方向に感情が揺さぶられるのを回避しようとする癖があるのかもしれない。

感情的になるということは冷静に判断できなくなると、自分の中では同義で、それは自分にとってデメリットも大きい。

そこをあくまでも「事実を確認して本質を探そう」というところに頭を働かせようとするのが私だ。


今日、人と話していて「なんでそんなふうに考えるようになったのか?」と聞かれて、ふと両親のことを思い出した。


小さい頃、父親は「怖い存在」だった。

家長であり一番偉い人。

子供のしつけに厳しく、母にも厳しく、子供の自分には納得がいかない点で怒られることも多くて、父親には逆らえないと思っていた。

とは言え、嫌いとかではなく家族は仲良しだし年々父も丸くなっていき今ではすっかり大人しいおじいちゃんみたいだけれど、今思うとその頃は「父親とは厳格であるべきだ」というのを演出していたのかもな、とも思う。


小さな事でよく怒ったりイライラしていた父親、母より立場が上であるという印象を植え付けた父親によって、私はいつも「自分が結婚する人とは上下関係を作りたくない」と思っていたし、「理不尽なことで怒ったり機嫌を悪くする人とは接したくない」と思っていた。

そこから「自分は気分の浮き沈みや立場の違いで物事を捉えたくない、誰にでもどんな時も冷静でいたい」と思うようになった、気がする。

反面教師だ。

(それでも父のことは、そういう方法で家族を守ってきたという責任感に対して尊敬をしているけれど)


学生時代も、社会人になってからも、すぐ怒る人、イライラしている人とあまり接したくないなと思っていて、それゆえ、「自分はそうならないでおこう」「いつもご機嫌でいよう」という心理が働くようになったのだと思う。


人と話していると自分のことまでわかってくるのが面白いね。

感情を失っているわけではない、あくまでも「ご機嫌でいたい」だけなんだ。



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