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「はらりはらり、と」 2

わたしは世界で一番汚れている女の子。重たい黒髪はべたついているし、肌はがさついている。唇の皮膚なんてひらひら浮いていて小学生みたいだし。あと恥ずかしいけど、全身はとてつもなく毛深い。身体の年齢は高校生くらいなのかもしれないけれど、まとっている空気は幼いこどものようだ。

そんなことばかり考えて、わたしはいつも俯いている。父の車の窓から見る風景は、灰色にしか見えない。紺色の制服の袖は、うちで飼っているミニチュアダックスフンドにきゃんきゃん鳴かれて朝起こされて、かじられたから糸がほつれている。高校3年生の5月、わたしは絶望的だった。どん底に溺れてしまいたいが、そんな自由を泳ぎきる勇気もない。

工業地帯の真ん中にある学校が、わたしの通う高校だ。父の車は校門から少し離れたところで止まる。父はわたしを下ろすと、会社へと急ぐ。いつもごめんね、お父さん。わたしはとぼとぼと学校に向かって歩き出す。隣には英文科を誇る大学が立っている。しかし偏差値は全国でも相当低い数値であると、進路相談室にある偏差値表で見た。もう顔も忘れたクラスメイトは「隣の大学の男子だけとは付き合わない!」なんて言って、色付きリップを唇に押し付けていたっけ。わたしの通う高校も、進学校とはいうものの、数年に一度地方の国立大学の合格者を出すくらいの、高くないレベルのところ。わたしは通う、なんて言ったけど、実際教室に足を踏み入れたのは、入学した頃、4月の数回だけである。

校門を抜けると白くて美しい肌のような校舎が現れる。ここから、わたしの身体は緊張感に包まれる。手には汗が滲み、スカートの下にも汗が伝う。ますますわたしは女子であることに懐疑心を持つ。情けなくて泣き出したい。教室の立ち並ぶ棟には決して立ち入らない。もうみんなわたしのことなんて忘れている。もう少し行くと、少し古めいた歴史のある建物が現れる。扉は古めかしいが、取手だけは新しく修理されていてちぐはぐだ。取手を汗ばむ手で握り、ゆっくりと力を入れる。今のわたしの精一杯の勇気。

扉を開けると埃っぽくて薄暗い空間が広がる。少し階段を登ると、ようやく窓が見つかる。光がぼんやりと入ってくる。この窓からの光には、なぜかちょっとした希望のようなものを感じて、心地よい。心地よさに助けられながら階段を登る。ここに来るのは一週間ぶりかな。上がりきった階段には、もうひとつの扉がある。この扉には相当年季の入ったドアノブが付いている。わたしの今の精一杯の勇気は、また扉を、開けるのだ。

ドアノブに手をかける。すると、向こう側に誰かの力を感じる。思わず、ノブから手を離す。止まっていた汗が、また流れ始める。今日はこのまま帰ろうか、うん、そうしよう。わたしは引き返そうとする。でも足が動かない。え、わたし、どうして?眩しい蛍光灯の光がさして、現れる長身の影。

わたしはもう気を失いそうだった。その腕を、力強い異性の力で掴まれる。精一杯の意識で顔をあげると、知らない顔を見る。彫りの深い目鼻立ち。癖のあるウエーブの髪。派手な色調のチェックのネルシャツ。学校にほとんど行けていないわたしにもわかる。うちの学校にはこれまでいなかったタイプの先生だ。ノムラ先生はわたしを見て言った。「ヨシザキアカリさん。待ってたんだ、君を」。わたしはわたしの本日の限界を超えていた。この時のことは、よく覚えていない。きっと頷いたと思う。

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