{ 第1話 , 前回: 第46話 }

その日、春樹はひとりで電気工事の仕事をした。ヒトヒラ先生は「いたって健康」と太鼓判たいこばんを押おしてくれたものの、あの状態のロウを仕事につれていく気には、到底とうていなれなかった。ロウに訊ききたいこともあったけれど（ケモノの戦士になるとはいったいどういう意味だという疑問が、さっきから台風さながら春樹の中で渦巻うずまいている）、そのことを胸にしまい、春樹はロウを部屋に残して出かけた。ロウをひとりにしておくのは心配だが、さりとて看病の必要があるわけでもなく、食くい扶持ぶちを稼かせぐためにも春樹は働かなければならなかった。

半ば予想していたとおり、仕事に集中できなかった。この日は、老夫婦の暮らしているアパートで、火事で黒焦くろこげになった配電盤はいでんばんを交換こうかんするだけに終わった。普段ふだんの春樹なら、この五倍量の仕事を嬉々ききとして終わらせていたことだろう。

配電盤はいでんばんから出火した原因は、以前の業者の手抜てぬき工事によるもので、火事になる前に消火できたのは、不幸中の幸いといったところか。例の悪夢ではないけれど、この街でいつか大火事が起こって、みんな黒焦くろこげになってしまうのではという不安が、このごろ頭をよぎるようになった。本当なら、ホコリの積もった電気ケーブルを掃除そうじしたり、アパートの他の部屋の扉とびらを叩たたいて住民たちに注意喚起かんきをしたり、電気系統の定期点検を促うながすポスターを街中に張り出したりしたいところだけど、今日はとてもそんな気になれない。

午後も早い段階で仕事を切り上げた春樹は、ヒトヒラ医院を訪れた。まだ診療しんりょう時間中で、院内にはたくさんの患者かんじゃたちが自分の番を待っていた。春樹は、待合室の隅すみっこに立って、先生がすべての患者かんじゃの診察しんさつを終えるのを待っていた。

患者かんじゃがはけるまで、二時間くらいかかった。その間ずっと待つはめになったけど、そんなことは全く気にならなかった。考え事をしていたせいで、あっという間に時間が経ったからだ。春樹の頭の中は、この街の電気の配線のようにこんがらがっていた。辛つらい事実を突つきつけられた朝食のあの時からずっと混乱しているのだ。

「シュオの夢を見た者は、ケモノの戦士になるだって？　ケモノの戦士は、僕ぼくが『動物面のテロリスト』と呼んでいたヤツらのことじゃないか。僕ぼくをこの黒い塔とうまで誘拐ゆうかいしてきたうえに、処刑しょけいしようとした張本人たちだ。まさかロウがヤツらの仲間になってしまうのか？」

イサミという探窟*屋からヒトヒラ先生の名刺めいしを渡わたされてから一ヶ月、やっと先生に会えたというのに、まさかこんな事態になってしまうとは。ヒトヒラ先生には、もっと色々なことを聞かなくちゃならない。どうしてイサミさんは、「ヒトヒラ先生を頼たよれ」と僕ぼくに伝えたのか？　イサミさんとヒトヒラ先生は知り合いなのか？　先生は、僕ぼくが塔とうを脱出だっしゅつする手助けをしてくれるのか……？　

わけのわからないことばかりだった。先生が朝食の席で話を打ち切ったのは、むしろ良いことだったのかもしれない。時間をおいて、ロウ抜ぬきで先生と話したほうが、遠慮えんりょせずたくさんの質問をできると思ったからだ。たとえば、シュオではない春樹が、どうして悪夢を見ていたのか？　あるいは、どうして春樹がケモノの戦士になっていないのか？　そして、どうして春樹はあの夢を見なくなってしまったのか……？　

疑問の答えがすべてわかると期待していなかったし、よしんば何もわからなくたってかまわない。むしろ、どうでもいいことにさえ思える。春樹の頭をかき回しているのは、「苦しむロウを置いてはいけないのに、一刻も早く、黒い塔とうから脱出だっしゅつしたい」という切実な本音だったからだ。

「春樹君、待たせたね」

春樹は顔をあげた。目の前には、診療しんりょうを終えたばかりで少し汗あせばんでいるヒトヒラ先生が立っていた。気がつけば夕刻で、待合室からは患者かんじゃがひとりもいなくなっていた。

◇

「今日は、火葬かそう屋のローブを着ていないんだね」
　春樹を診療しんりょう室に案内すると、ヒトヒラ先生は言った。
「そのことを注意し忘れていたから、君があの格好で来るんじゃないか心配だったんだ」

春樹は、診療しんりょう室の丸い椅子いすを勧すすめられたので、そこに座った。

「あのローブを着ていると、どうしてか、みんな僕ぼくのことを避さけます。まるで僕ぼくがそこにいないかのように振ふる舞まうんです。正直、その方がありがたいんですが……」

「だとしても、あのローブは着ないほうがいい」

「どうしてですか？」
　春樹は尋たずねた。

「彼かれらは、死者のもとを訪れ、荼毘だびに付す」
　ヒトヒラ先生は答えた。
「つまり、死んだ者たちの体を回収し、火葬かそうして灰に帰すことを生業としている。その都合上、様々な特権を与あたえられているんだ。例えば火葬かそう屋には、黒い塔とうのすべての階を自由に移動できる。逆に、その特権のために身分に偽装ぎそうすることは重罪とされる。ばれたら、殺されたって文句は言えないんだよ」

「特権ですか……僕ぼくは、火葬かそう屋が住民たちから嫌きらわれているように見えました」

「ちがう！　畏おそれ、敬われているんだ」

先生が、急に興奮した口ぶりになったので春樹は驚おどろいた。そんな春樹の様子にきづき、先生はハッとなって口に手をあてた。

「すまない、急に声をあげて……」
　先生は言った。
「取とり繕つくろってもしかたないことだな。君の言うとおりだろう。『畏おそれ敬われ』なんてのは、『忌いみ嫌きらわれる』の裏返しでしかない。彼かれらは死の象徴しょうちょうであり、住民たちからすれば、恐怖きょうふそのものだ」

「あのローブを僕ぼくにくれた火葬かそう屋は、とても卑屈ひくつでした。彼かれがそうなったのもわかる気がします」

「まったくだ。必要とされている仕事だからこそ、彼かれらが存在するというのに。それを忌いみ嫌きらうなど、愚おろかな話だ……おっと、すまない、本題はそこじゃなかったね。火葬かそう屋の話はやめて、ロウの話をしよう」

ヒトヒラ先生が診療しんりょう室の机の前に座ると、病気でもないのに、春樹はこれから治療ちりょうを受けるかのようだった。

机にはたくさん書類が乗っていて、さらに扇風機せんぷうきも回っていた。そばの棚たなには薬の入った大きな瓶びんが並び、向かいの壁かべにはカーテンをひいた大きな窓があった。黒い塔とうという過密な都市において、大きな窓はとても珍めずらしく、贅沢ぜいたくなものだった。ヒトヒラ先生の診察しんさつ室は明るく、清潔で、カーテンを開ければ、明るいひだまりの庭が広がっているような気さえした。もちろん窓が大きかろうが、小さかろうが、陽光の差す可能性などどこにもない。眼下に広がっているのは、雑踏ざっとうと、ビニール袋ぶくろと、ひび割れた配管のせいでできた水たまりとが、そこかしこに転がっているクソみたいな街並みだということは、わかりきっている。

席につくと、ヒトヒラ先生は髪かみ留めを外した。きつくまとまっていた髪かみが、頭の後ろでパラパラと広がった。それからメガネを外して机の上に置くと、先生が急に別人になったかのようで、春樹はちょっぴりドギマギした。待合室にいた時、女性の患者かんじゃがやけに多いことに気づいてはいたけれど、その理由がいまわかったような気がした。

「さて、春樹君、薬を渡わたす前にもう少しだけお話をしようか……」
　ヒトヒラ先生は言った。
「『シュオの夢』について、君はかなり気にかけているようだ。それに、夢のことを知っているようでもあった」

「僕ぼくも同じ夢を見ていました」

春樹は、家族と家政婦の鈴子すずこさん、それと主治医以外に夢のことを打ち明けるのは初めてだった。ヒトヒラ先生は、眉根まゆねをよせたまましばらく春樹を見入っていた。僕ぼくの瞳ひとみの色を念のため確認しているのだろうと、春樹はすぐに感づいた。

「君は、その……人間だ」
　ヒトヒラ先生は言った。
「我々シュオとは別の生き物だ。シュオの夢を見るなどありえない。なにか思おもい違ちがいをしているんじゃないかな？」

「一年間、毎晩おなじ夢を見ていました」
　春樹は続けた。
「夢の中の僕ぼくは、僕ぼくではありませんでした。ロウのように女の子というわけではありませんが、それでも別の誰だれかです。ボロボロの服を来た農民に囲まれて、家族とともに火をつけられました。農民たちは、僕ぼくのことをアカメと呼んでいました」

「そうだな……」
　春樹の話を聞くヒトヒラ先生は、困ったような顔つきだった。
「君をうそつき呼ばわりしたくないのだけど……やはり信じられないというのが正直なところだ。前例のない話だ……少なくとも私は初めて聞いた」

「でも、本当なんです」
　春樹は言った。

しばらく考かんがえ込こんでからヒトヒラ先生は続けた。

「うん……ひとまずはその話を信じるよ。否定したところで、話は進まないからね。君は、もうその夢を見ていないようだけど、体に変化はないかい？　たとえばなんだけど、体が異様にゴツくなった、とか……」

「いえ、何も……」
　ご覧の通りの体格ですとばかりに、春樹は両腕うでを広げてみせた。
「むしろ最近になって痩やせたくらいです」

「そうか……やはり、なんというか……ちがう現象のような気がする。しかし君の夢の内容は、あの悪夢そのもので……うぅむ……わからないな」

「僕ぼくが、『ケモノの戦士』になっていないのが不思議なんですね」

「もちろん、人間の君がなるはずもない。それはわかっているのだが……君は……どうしてここに来たんだい？」

「え？　それは、ロウの薬を……」

「そうじゃなくて」
　ヒトヒラ先生は言った。
「どうして君は黒い塔とうにいるんだ、という意味だ。やはり、その夢と関係があるのかな？」

「まさか！」
　春樹はすぐさまに答えた。
「誘拐ゆうかいされたんです！　自分から黒い塔とうに来たわけじゃない」

「誘拐ゆうかい？　いったいなぜ？」

「それは……」

春樹は口ごもった。果たして、今日知り合ったばかりの先生に自分の秘密を打ち明けてよいのかわからなかった。どんなに親切でも、本当の意味で僕ぼくの味方になってくれるのかなんて、やっぱり未知数なのだ。

「最近、犬面のニショウが人間の子どもを探していると聞いた。君のことかな？」

春樹は、額から汗あせが浮うかぶのを感じた。いちばん勘かん付かれちゃいけないところに、勘かん付かれてしまった。やむを得ないとはいえ、やっぱり人間の僕ぼくが、ここの住民に正体を打ち明けちゃいけなかったんだ。

「安心しなさい」
　先生は、努めて穏おだやかな調子で続けた。
「君のことを戦士たちに知らせたりしないよ。彼かれらに逆らうことなんてしないほうがいいんだけど、そのせいで子どもが殺されるようなことがあったら、私も目覚めが悪いからね」

「僕ぼくは、動物面のテロリ……じゃなくて、戦士たちに誘拐ゆうかいされて黒い塔とうに来ました」
　春樹は観念して言った。
「僕ぼくの血にヤツらを倒たおす力があるからです」

今度は、ヒトヒラ先生が動揺どうようする番だった。先生が眉根まゆねをよせて春樹を見たおかげで、その額はしわくちゃの紙のようだった。先生は、明らかに驚愕きょうがくしていた。

「春樹君……君は、不死身の戦士の殺し方を知っているのか？　いや……知っているからこそ、『血』という言葉が君の口から出てきたのだろう」

「先生も知っているのですか？　ヤツらを倒たおす方法を？」

「あぁ……私は、この塔とうで医療いりょう免許めんきょを授かっている立場上、彼かれらと交流がある。早い話が、彼かれらの主治医なのだ」

「不死身の生き物に医者が必要なんですか？」

「死なないからといって医者が不要なわけじゃない。むしろ、死ねないからこそ、医療いりょうが切実に必要な場合もある。だが、そのことを私の口から語ることはできない。秘密にしておかなければならないことが多いからだ。血に関することは、とくにそうだ……正直なところ、君とこの話をしているだけで、命の危険さえ感じているくらいだ。戦士たちは、塔とうの住民に手を上げることは基本的にないが、口の軽い者と裏切り者には容赦ようしゃしない。だが、春樹君、それでも私は君と話をしたいと思う。じつに興味深い……もっと君の話を聞かせてほしい」

ヒトヒラ先生は、春樹の目の前に自分の顔を差し出さんとばかりに、体を乗り出してきた。