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{ 45: 一日楽医院 }

{ 第1話 , 前回: 第44話 }

階下のフロアへ移動するのは、「黒いとう」からの脱出だっしゅつを試みる春樹にとって悲願の第一歩だった。でも、その感慨かんがいにふけっている時間はどこにもなかった。

ドンドンドンドン! どんどん! 春樹は、深夜にもかまわず「一日楽医院」のとびらを力いっぱいたたいた。

「二十一階の街」の病院も、二十二階と同じように大通りに面していた。病院の正面に大きな看板がかかげてあったので、大階段を降りて間もなくここを見つけることができた。春樹はそんな奇跡きせきに感謝しながら、一日楽医院のとびらこわすつもりで、引き続きたたきつづけた。なのに、ヒトヒラ先生が出てくる気配はかけらも感じられなかった。

「助けて下さい! ぼくの友だちが病気なんです」

ドンドンとなぐるたびに、「もしかしたら先生はここにいないのでは……」という不安が増していった。ロウの話だと、ヒトヒラ先生は病院に寝泊ねとまりしているはずだった。大騒おおさわぎしている春樹に気づかず先生は寝入ねいっているだけなのか、それともここ以外の場所にいるのか、それを確かめる方法はない。

「どうしよう……」

先生と会わないまま帰るわけにいかなかった。こうなったら手段を選んでいられない。入り口をこわしてでも、院内に先生がいるのか確かめなくては……あとでどんな目におうとかまわなかった。春樹は、コンクリートブロックを近所から拾ってくると(黒いとうは、どこに行ってもビルの建築現場とその解体現場があり、この手の道具をそろえるのに不便はない)、ガラスのとびらの前に立って、両手でそのブロックをかかげた。

そのときヒトヒラ医院のとびらが開いた。

中から出てきたのは、かみが長く、背の高い男だった。男は、かかげられたコンクリート・ブロックと春樹の姿とを交互こうごに見て、唖然あぜんとした。

いっぽうで春樹もそれ以上動けないで、相手を見ていた。想像したよりもずっと若い男で、おどろいてしまった。二十代半ばから、せいぜい三十代前半といったところか。うすい色の長いかみを後ろに束ね、顔には大きなマスクをしていた。ただ、春樹が男に対して何も言えないでいるのは、かれが血のついたエプロンをしているからだった。ひとむかし前の春樹だったら、卒倒そっとうしていたことだろう。

春樹の背後でゴトッという音が鳴った。とびら破壊はかいするためにかかげていたコンクリートブロックが地面に落ちた音だった。

火葬かそう屋を呼んだおぼえはない」
 男は冷たく言った。
「あなたたちにわたすべき死体はここにないぞ」

春樹は、あわててローブをぎ去った。

「あ、あの……ヒトヒラ先生で……ですか?」

やっとしぼり出した春樹の声は、こわばっていた。

「そうだ、私がヒトヒラだ。今さら自己紹介しょうかいをする必要はないはず……だが……ん?」
 男はあからさまにおどろいた様子で、とうの住民特有のその赤い目を見開いた。
「まさか人間の子か! どうして火葬かそう屋の格好などしている?」

「こ、これにはワケがあって……」

「すまないな、今は手術中なんだ」
 ヒトヒラ先生は言った。
「急ぎでないなら、出直してくれないか?」

夜中に医者をたずねて、急ぎの用じゃないわけがない。でも手術中だと言われると、どうしていいのかわからなかった。

「返事をしてくれるとありがたいんだがな」
 春樹が何も言えないでいると、ヒトヒラ先生が言った。

ぼくは、二十二階の街から来ました」
 春樹は言った。
「友人が病気なんです。ベッドでうなされて、あせもたくさん出て……」

「今すぐ私が行かなければ、死んでしまう状況じょうきょうなのか?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「なら出直すんだ」
 ヒトヒラ先生は言った。
「二十二階であれば、ちょうど明日が開業日だ。朝になったら、患者かんじゃを連れてきてくれればいい。ここのところ夜おそくまで作業をしていて、私にも休みが必要だ。さもなければ、明日の診察しんさつに差し支える。君も早く帰りなさい」

そういうと、男は院内に入った。

「無理をいって申し訳ありません」
 春樹は、あわてて食い下がった。
「でも、ロウがあなたを呼んでいるんです」

「ロウ? 電気工のロウのことかな?」

「はい」
 春樹はうなずいた。
「ロウが、その……なんて言ったらいいのか……夢を見ていて……すごくうなされているんです。尋常じんじょうじゃないくらいに……」

こんなことを話していいのか、春樹にはわからなかった。夢でうなされたくらいで医者を呼びつけるな……そんなふうに怒鳴どなられたって仕方のないことだった。でも、とびらを閉めようとしていたヒトヒラ先生の手がふいに止まった。

「夢……いったいどんな夢だ?」

先生が食い気味で乗り出してきたので、むしろ春樹の方が面食らってしまった。それでも、そのままとびらを閉ざされるよりはるかにマシなので、春樹は気を持ち直して答えた。

「火で焼かれる夢です」

しばらく先生はだまっていた。どうして先生が急にかんがみ始めたのか春樹にはわからず、ことの成り行きを待つ他なかった。

「名前を聞いていなかったね?」
 やがてヒトヒラ先生は口を開いた。

「春樹です」
 春樹は言った。
「シャン春樹といいます」

「春樹君、悪夢にうなされるのは病気じゃないよ」
 ヒトヒラ先生は言った。
「でも緊急きんきゅう事態ではあるようだ……行こう」

「ほんとうですか?」
 春樹は思わずねそうになった。
「でも今は手術をしているんじゃ……」

「ちょうど手術を終えて、片付けをしているところだったんだ」
 先生は、春樹のためにとびらし開けて言った。
「急いで往診おうしんの準備をするから、君は中に入って待っていてくれ」

「ありがとうございます。でも、ここで待っています」

「中に入っていてほしいんだ。夜中ともなると、街中でも物騒ぶっそうな事件が起こるからね。それに、火葬かそう屋がいるのを見られると、あらぬ疑いがかけられるんだ。ヒトヒラ医院で、だれかが死んだんじゃないかってね」

ヒトヒラ先生は微笑ほほえみながら言った。


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