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私が教師を辞めた3つの理由【女子校の先生になったら読むnote】

 私立高校(女子校)勤続10年のkanari_Pです。
今日はテーマを大きく逸らしまして、私が教師を辞めた理由についてお話しをさせていただきます。よろしくお願いいたします。

 細々したものを除けば、私が退職を決意した理由は以下の3点です。

  1. 孤立無援・孤軍奮闘が極まったから。

  2. 生徒指導部が「常識と良識」を指導方針にしたから。

  3. 時代に逆行しようとしていたから。

①孤立無援・孤軍奮闘が極まったから。

 担任は一騎当千と言いますか、一国一城の主と言いますか、孤高の存在と言いますか、いずれにしても「1人で考え込んでしまう」性格をもっているように思います。1人で40人近い生徒の進路指導・人権指導・生活指導などさまざまな指導を行うわけですが、現代教師はもはや宿命と言えるのかもしれません。
 時代としても、「困ったことがあったらすぐ相談してね」といった声掛けが、「コトが大きくなる前に、なんでも相談してね」と、「困る前の相談」が大切になってきていることを考えても、担任の心理的な負担の大きさがうかがえましょう。

 私の在籍しておりました学校では、今まで分担・協力してきた指導を、かわいいものからむずかしいものまで、担任が一括して行うようになりました。
 例えば進路指導などは、担任が率先して行う方がよいでしょう。進路指導部の先生よりも、担任の先生の方が生徒の話を聞く時間が多いのは当然でしょうから、これは適任と思います。自分のクラスで人権問題が起きた時なども、担任が率先して情報収集にあたるのも、これまたしかりと思います。

 しかし、いわゆる頭髪指導・アクセサリー指導・遅刻指導・制服指導など、指導にパワーがいるものについては、担任だけでは難しいものがあろうと思います。というのも、以下のようなケースがあった際、担任だけでは解決ができません。

  • 禁止している染髪をしてきたために黒染めを指示すると、「他クラスのこの子はそのままでいいと言われたのに、なぜ私だけしないといけないのですか。」との声があった。

  • スカートの長さが指定されている場所より短かったためにその旨指導すると、「校長先生はいいっておっしゃっていました、なんで先生はそんなに厳しいんですか?」と保護者からクレームの電話があった。

 全体で守らせると決めたものについては担任にその管理をさせるのではなく、分掌として責任をもって、全体での統一指導をしなければ、個々の事案に対応仕切れません。そして、担任判断による緩みが生じてしまうと、全体として「ルールは守らなくても大丈夫」という空気を作ってしまいます。「言ったらやらなければならない」というのは、ルールを守らせる上での基本です。その基本が全体として崩れてしまっていたため、担任が右へ左へと走り回らなければならなくなってしまっていました。

 現代社会における校則のあり方が見直されている今、このままの体制で1人戦い続けるのは難しいと判断するに至りました。

②生徒指導部が「常識と良識」を指導方針にしたから。

 「ブラック校則」なる言葉が生まれて久しくなりました。ただ、ブラック=ふさわしくない、という意味付けとなり、人権問題にもなろうかということで、最近は「問題校則」と言う有識者の方もいらっしゃるそうです。
 「校則」を制定する理由は、「本校の生徒は、このようであってほしい」という、「学校が思い描く、生徒の理想像」を示したいからです。ですから、先生と生徒・保護者が協力をして、校則の「見直し」作業をするのは大変結構なことですが、生徒が校則の「制定」作業をするのは間違いです。校則は、あくまで校長が責任をもって制定し、「このような生徒になってください」というメッセージとともに、全体に周知しなければなりません。そしてそれが守られず、しかも継続している場合は、校長の責任で各種指導・処分がなされるべきです。

 したがって、どのような細目であっても油断せず、守らせるのであれば抜け目のないようしっかりと吟味する必要があります。ひとたび停学や出席停止などが出されれば、それは一生ついてくることになります。退学処分などにしてしまえば、あとから無かったことにするわけにはいきません。校則とは、実はそれだけ重いものなのです。

 私の在籍しておりました学校では、校則の制定、並びに指導の基準が「常識と良識に照らし合わせて」というものになりました。例えば制服のリボンがゆるみ、第一第二とボタンが開いている生徒には、「常識的に考えてみて」と、「生徒に考えさせる指導をしましょう」ということでした。なかなか高尚な方法であり、やりがいもまたあるものですが、やはり前提として無理があります。

 常識は、人によって差があるものです。どのような場所で育ち、誰にどのような声掛けをしてもらったかによって変わります。その常識がみんなでバラバラだから、ルールにしておきましょうということなのですが、これも世の動きということなのでしょうか。いずれにしても、私自身にそこまで常識を問えるほどの人格は備わっていないと感じていました。

③時代に逆行しようとしていたから。

 私は小学生の頃から日本の歴史が好きでした。また、日本の歴史のおもしろい話をたくさんの人に聞いてほしい、伝えていきたいと思っていた人間でした。中学校よりも高等学校の方が、より細かい話をすることができる。ならば、高等学校の先生になろう、と思って生きてきました。今では日本史の先生らしく、「この国を命懸けで守ってきた人たちがいたのだ」なんて大きな話もするようになっています。

 しかし授業をしながら、「これは今、求められていることではないのかもしれない」と思うようになりました。時代はアクティブラーニングであり、教師が教えるのではなく、生徒が自ら学ぶようにしなければいけなくなってきました。
 とはいっても、残念ながら生徒の価値観はそこにはありません。生徒の反応はさまざまですが、考えさせるような方向にもっていっても、

  • 「先生、それ共通テストに出ますか?」

  • 「(みんなが考えている中)え、コレ何の時間?」

  • 「で、答えは何ですか?」

という反応になってしまいます。答えがないものを考えさせようものなら、「この授業に意味を感じません」と、授業アンケートに書かれてしまいます。その都度、「なぜこれを考えようとしているのか」を、丁寧に説明するようにしています。

 私の在籍しておりました学校には、時代は「教える」から「考えさせる」に移りつつあることに気付いていないのか、それとも別の信念があるのか、いつまでも「教える」ことの方が大事とする先生が多く存在していました。中には

  • 「こんなこともある」と、教科書に載ってないようなことをしゃべるのが楽しくて教師になったのに、「考えさせる」というのは物足りない。

  • 「教え込み、覚え込ませる」ことの何が悪いのかわからない。

  • 理想ばっかり言ってないで、しっかり覚えさせてほしい。

というご意見までいただきました。
 定期テストをなくしていきましょうという声もあるこの時代にあって、「何かを教える」のみでは物足りない時代が来ているように思います。「教える」のは大前提にあって、その上で「得た力を使って考えさせる」にシフトしていくことが、現代の教師に求められていると考えています。


 この10年間で、現場も大きく変わってまいりました。生徒層もそうですし、教師陣もそうですし、世の中もまたそうです。学校社会は、この場では正解と言えそうなことも、5年後には間違いになり、その5年後にはまた正解になるような、あるいはこの学校では正解でも、他校では間違いであるような、そんな難しい世界と言えましょう。これから教師になろうとされている先生方。またこれからも教師としてがんばっていこうとされている先生方に、改めて敬意を表しますとともに、自身の経験をしっかりと還元していけるよう、舞台を変えて頑張ってまいりたいと思います。これからも、よろしくお願いいたします。

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