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季語の分類をかんがへる「大試験と入学試験」

 2024年2月4日放送の『NHK俳句』は、兼題が春の季語「入学試験」だった。冒頭、選者の夏井いつき先生が「入学試験は大試験の傍題」と説明したので仰天した。「大試験」は期末テストなどを小試験としたとき、学年の終わりの試験または卒業試験のことだから、いずれも在学中の試験である。対して「入学試験」のときはまだ在学していないわけで、「大試験」とは根本的に性質が異なるのだ。これらをまとめて扱うのは「卒業」の傍題に「入学」があるようなものではないか。実際、筆者の持っている三冊の歳時記では、いずれも「大試験」と「入学試験」は別の季語として立項されている。
 ところが句友からの指摘で、傍題としている歳時記があった。春夏秋冬新年を一冊にした合本ではない、歴とした角川書店の春の分冊で、1996年発行の『第三版 俳句歳時記 春の部』である。

 他の分野で考えてみると、生物では分類が変わることは珍しくない。例えばレッサーパンダの分類は歴史上、長らく論争の対象で、リンネの時代(17世紀)からアライグマ科→クマ科→イタチ上科じょうかレッサーパンダ科と変遷している。動物食の鳥でハヤブサはワシやタカの仲間とされていたが、ハヤブサ科として分かたれた。冬の味覚、タラバガニはカニではなくてヤドカリの仲間だ。昔は形態(見た目)や生態だけで分類していたので、似たような環境で進化することで遠縁の生き物の見た目が似てきてしまう、いわゆる収斂進化しゅうれんしんかという概念がなかったが、遺伝子解析ができるようになると真実が見えてきたのである(ただ、形態や生態で分類するのも、それはそれで間違いではないと思う)。
 動物の季語は生活の季語と違って新しく生まれることはほとんどないので、よく言えば伝統を尊重し、過去の名句を例句として載せ続ける。野鳥が好きな句友が「ばん」と異なる鳥である「大鷭おおばん」を傍題にすることに納得していないが、これからも歳時記はがんとして動かないだろう。

 「入学試験」は、同じ角川書店の歳時記でも、先ほど例に挙げた1996年発行の第三版に対し、23年後にあたる2019年発行の第五版では別立てになっているので、ひょっとすると時代的な問題なのだろうか。最近のNHK俳句で「落第」という季語が使われたとき、二十歳の中西アルノさんが落第を受験で不合格になるという意味として捉えていた。必ずしも間違いとは言えないが、普通は「落第」は卒業や進級ができないことという意味である。季語としてもそうだ。アルノさんが知らなかったのは彼女の知識不足ではなく(むしろ年齢からすると知識が豊富そうに見える)、2024年において「落第」がほとんど死語だからなのだと思う。同様に、現代では大試験に落ちて進級できないということが希有なものになっているのだ。また、差別的な言葉が排除されていくという側面もあるだろう。
 ひるがえって、死語の「落第」を傍題としてようする「大試験」という言葉自体も死語であり、現代では大試験の季語としての位置づけの根拠も力を弱めている。元々、伝統行事とは違って歴史も浅く、季語としての保存価値が高くないからだ。少なくとも江戸時代にはなかった季語であろう。
 かくて「大試験」と同時期に誕生した季語「入学試験」は「大試験」のくびきを逃れ、独立することになったのではないだろうか。20年後には「卒業試験」も「大試験」から独立しているような予感がする。そうなれば、40年後には、季語「大試験」自体は歳時記にもはや立項されていないかもしれない。

 とは言え「入学試験」の方も危うい。少子化の影響により、大学は早く学生を確保したいがために推薦枠を増やす傾向にあるので、入学試験の一部は春から冬へとずれ込んでいる。高校にしても、中高一貫となることで高校入試の数自体を減らしているのが現状だ。
 つくづく季語は生き物なのである。

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