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ユートピア映画について

この文章では三つの最近の映画を取り上げて、その映画にユートピア的な世界が描かれていることを示す。最後に、なぜユートピア的な表現が出てきたのかを雑感として示す。

取り上げる映画は『瞳をとじて』『哀れなるものたち』『ボーはおそれている』の三つである。

『瞳をとじて』

『瞳をとじて』はスペインの映画監督ビクトル・エリセが31年ぶりに取った映画とのことだ。感想を以前書いた。

映画内映画の映画監督が自分の映画にまつわる失踪事件を、未解決事件として別のテレビ番組に売りに出す。映画監督は失踪事件が起こったからだったか、とにかくメガホンを取るのをやめてしまう。
監督をやめて執筆業にいそしもうと、海岸の砂浜上に区画を作って数人で集まって少数共同体を作っている。思い思いの暮らしがそこにある。恋人と二人で暮らす若者。女性は妊娠している。老いた漁民。そして元映画監督の同じく老いた主人公。
漁民と主人公は時々漁に出かけて小魚を取る。小さな畑で野菜も作る。トマトを若者らに分けて、テレビ会社に泊まりで出張する際にペットの犬の世話を頼んだりもする。そんなユートピアだ。

『哀れなるものたち』

『哀れなるものたち』はユートピア映画だろうか。少しわかりにくいが、私はユートピア映画として見て取ることもできるかと考えている。

どういうことか。
映画の中盤あたりだろうか。ギリシアに船旅へ向かった主人公ベラは、裕福な立場で普段生活していた中で、屋根もなく地べたで虚ろに過ごしている貧民を見て卒倒するようにむせび泣く。なんと「哀れなるものたち」なんだろうか、と言わんばかりに。
さて、ここにこの映画がユートピア映画であるゆえんがあるように思う。つまり、ベラが見てきた世界はユートピアだったからこそ、現実的な貧富の格差を見てむせび泣いてしまうのである。

もちろん、そうだったとしても単純にユートピア映画とは言いづらい。ベラには様々な格差や負担がかかる。しかしそこは赤ん坊の脳みそである。個人主義を徹底させ、あるべき女性の主体性を勇敢に探ってゆくベラを映し出す。

『ボーはおそれている』

これも映画の中盤か。様々な苦痛から逃れてきた主人公ボーは偶然、移動劇団に出会う。そこは観客も劇の一部として連れ込まれるタイプのかなり特殊な演劇を行っていた。演劇の内容に合わせて衣装を着替えさせられるボー。
物語に巻き込まれていくボー。妄想が溢れてきてしまい、もはや舞台で行われている内容とはかけ離れていく。恋人のいないボーにとって子供などいるはずもないのに、さもいるかのように映画の画面上に登場するボーの三人息子。
しかし妄想の中をドライブすることで自分を取り戻していく。自分が何をそもそもしたかったのかは、徹底的に妄想を演じ切らなければ分からなかった。そして妄想を演じきるためには、安心して信頼できる仲間がいる移動劇団の共同体、つまりユートピアが必要だった。
感想を書いてみたので詳しくはそちらを見てみてほしい。

ユートピア映画についての雑感

さて、なぜこのようなユートピア映画が作られなければならなかったのか、である。
私にもよくわからないので、ご存知のことやお考えのことあればコメントをお願い致します。

私が考えたのは、どれも社会問題の論点に結びついているな、ということぐらいだ。
『瞳をとじて』は高齢化において老いた人々の日々はどのように送られるべきなのかを物語の一部として描いた。
『哀れなるものたち』の時代はヴィクトリア朝で19世紀だが、その空想にまみれた物語は現代のあるべきジェンダー観を全面に押し出している。
『ボーはおそれている』は後期資本主義以降の企業が全面に押し出された世界観においてどのようにして自己を見出すのか、映画内でその見出しすら踏みにじることでその苦々しい不快感を映画の観客に示そうとしている。

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