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倒錯的な現代社会

はじめに

信濃さん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
この「はじめに」を書いているのが、2024年1月2日、20時ちょうどです。
この前から僕はこの文章を準備していて、もう少し直そうかなとぼんやり考えていたのですが、どうしても年明けから不幸が続いている気がして、信濃さんには本当に悪いのですが、どうにも文章を大きく編集したり、新たな部分を加えたりするやる気が起きませんでした。

自分の予定を考えても、とりあえずざっと書き終えて公開してしまったほうが良いだろうと判断しました。
またお会いして、精神分析のことについて話しましょう。というわけで本題です。

どうして精神分析なんて必要なんだろう

精神分析の真髄は素人だからよく分からない。でも、精神分析に触れ始めた人がまず考えてみてはと提案したいことは一つある。それは固着の問題だ。
このことは僕らが読んだフィンクの『ラカン派精神分析入門』にも書いてある。噛み砕いて僕なりに書いてみたい。
みんな、人はかくあるべしを日々考える。かくあるべしというのは、要するに枠だ。枠のことをみんな、右だとか左だとか、うんぬんする。しかし枠であることは変わらない。なんだっていいのだ。枠を作るとなんらか利益があるし、面白いので皆そうしてみる。それはそれでいい。
しかし枠を作ってしまうと、枠から漏れ出る物が出てくる。それをすくって取ろうとしない人がいる。枠から漏れ出てくることをもって怒り出す人がいる。「なんで枠からはみ出ているんだ!!」

だけど、現実は幅広なので枠からはみ出ることなんてしょっちゅうだ。いちいち怒ったり感情的になるのは僕もしょっちゅうなので気持ちはわかるけど、客観的に人がそうしているのを見ているとこりゃ大変そうだなと思う。大概にしておくのが良いのだろうと思う。
ここで問題なのは枠に固着しているところだろう。枠があって、枠からはみ出てくるものがある。で、重要なのは枠なのだろうか。枠の素材が木で、その木目の茶色と焦げ茶がいかにも・・・。
いやいや。そうじゃないでしょう。そんな細かいところを見ていても・・・まあ見ていてもいいんだけどさ。もっと離れてみてみると、枠の中には、はみ出る前の動物、犬が描いてあるではないか。
そう、でしょう?別に犬じゃなくてもいい。枠の中には何か主題になるものが描かれているはずだ。なぜそちらに目を移さないのかと思う。

固着を手放すことを提案してくれる

精神分析はそういうことも問うのだと思う。我々に全体への目の移し方を教えてくれる。ある部分に固着するのではなく、全体を見てはどうか。
どうして部分を見たくて仕方がなくなってしまっているのかについて、とある理論、それは科学ではないかもしれないけれど、一つの物語としてはかなり筋が通っている理論を通じて、固着を手放すように促してくれる。

冷静な分析と意外な答え

あとは冷静な分析を教えてくれるところも注目点だろうと思う。
別に分析の仕方はそれぞれだし、流派が違えば全然やり方は違うのだろうし、異なっていても理性的に物事を分析する点ではどんな心理に対する分析も冷静だろうけれども、ラカン派もご多分に漏れず、といったところだ。
ラカン派はフロイトの流れをくんでいるから、性的な言葉で心理を語ったりもする。湿っぽくて動物的な感触もある。(こういうのを「力動的」とかって言うって聞いたことがある。)
だから・・・なんというか、普段考えていないことまで、ハッとさせられることを指摘したりする。(実際には患者に考えさせ続ける言葉を、分析家は言い続けるらしいけど、まあそれって結局は患者が考えた結果として「ハッとさせられる」ことだし。)
意外な答えが見つかるから、固着を手放せるってわけだ。

ラカン派精神分析における倒錯

精神分析の必要性について考えてみたところで、今回の読んだ箇所に入る。
課題本はブルース・フィンク『ラカン派精神分析入門』。
今回読んだところの中でも倒錯が気になったので、倒錯から考える。(第九章)
倒錯では父の意志にかかわる何かが象徴化される。この象徴化において父が肯定される。
父が肯定されるというのはどういうことか?象徴化ってどういうことだろうか?
一旦象徴化については置いておこう。
法、ルールを制定するなにものか、かくあるべしを教える存在が父だ。そうした存在が倒錯という病理においては肯定される、という。

曖昧に肯定される父性

こうした肯定が倒錯にあっても行われるのだが、完璧に行われるわけではないという。どういうことか。
父は肯定されるのだが、その実際の現れとしては否認として現れる。え?肯定じゃなかったの?
そう。父は「肯定」される。ルールが執行され、ある状態を否定することで「肯定」されるのだ。
当たり前といえば当たり前で、あるルールでもって否定は行われる。「こうじゃなくて、こうでしょ?あなたは間違っている!」というわけだ。とすると、まるで否認とはルールの番人のようになる。父性機能の見せかけとも表現できそうだ。

享楽の固着

ここで少し倒錯の特徴を、ラカン派精神分析の精神に対する他分類(神経症)や親子関係からもう少し挙げて話を進めてみたい。(神経症についてよく分からなくても大丈夫。倒錯者がどのような心理になるのかを単に押さえてほしい。)
1つ目は神経症と比べて、倒錯は享楽を手放そうとしないという点。思い出しやすいようにこの点は「享楽の固着」と名付けておこう。
享楽とは、非常にわかりやすく言えば快楽だ。実際のラカン派による説明とはかなり異なっているのだが、この文章の中では快楽として受け止めていただければ十分だ。
神経症は享楽を諦める。代わりに評価や認知、賞賛など、他者からの価値を求める。一方で倒錯は享楽を諦めない。ずっと享楽を求め続けてしまう。

男性性に密着する倒錯

2つ目は倒錯が男性性と強く結びついているという点。
昨今のジェンダー理解では人それぞれで性の嗜好は異なっているものとされることが多いが、生殖できるのは男性と女性の組み合わせでしかないし、いわゆる夫婦の形はマジョリティだと言える。こうしたあり方からあくまでも類型的に考えて、倒錯は男性に多いとラカン派は考えているようだ。なぜか。(いや以下だけではなく、フロイトから精神分析自体を引き継いでいるっていう論点はもちろんあるんだろうけど、話をわかりやすくするために省略。)
その理由は主に2つ考えられる。一つは母親が息子を欲望するからである。この点においては後でまとめる。もう一つは現代の父親が比較的弱い立場に置かれているからだ。
この父親が弱い立場に置かれることは別段ジェンダーの議論を批判するものではない。現状について表現しているまでだし、精神の動きは社会の動きに抗うことができないことを示しているとも言えるだろう。
しかしそうした父性機能の弱まりを見て、人びとは別の形の法を求めてしまう。どうあるべきか?について疑問を持たざるを得ない。
とすると、どうだろうか。倒錯は否認でもって法(ルール)を定めようとするのだった。倒錯は否認によって「父性機能を立てようとする試み…であるとみなしたい」(p.252)とラカン派は主張する。
(※なお以降の節で「息子」と表記していくが、これはいわゆるヘテロセクシャル男性にだけ起こるとラカン派が主張しているわけではないことは書き添えておきたい。用語は意味的に扱われているらしく、例えばシチュエーションによっても、父親が母親的な行動を取る、あるいはその逆、つまり例えば怒る=ルールをしつける母親。そしてそうした母親から子供を守る父親といったことが発生することはよく考えれば十分有り得ることがわかるだろう。そのように役割が逆転していれば、娘=父親関係で以下のことが発生しうるとも考えられよう。)

ファルスを欲望する母親とそれに依存してゆく息子

さて、置いておいた母親が息子を欲望する点である。母親が息子を欲望することで倒錯が起こるのだった。これは上述した倒錯が享楽を求め続ける点、「享楽の固着」につながる。どういうことか。
母親が息子を愛するというあり方は一般的なのでわかりやすいだろう。さてそのような状況をラカン派はどのように分析するのか。ラカン派いわく「母親はファルスを欲望する」という。ファルス?
ファルスとはギリシア語由来で男性器の意味なのだが、この文章の中ではおよそ「男性的なイメージ」として理解してもらえれば問題ない。
(例えば「集団の中心人物」を太陽だと表現するのと同じように、単に比喩表現である。)
「男性的なイメージ」といっても別段現実の男ではない。母親は息子を現実的な男を愛するようには愛していない。
ではどのように母親は息子を欲望すると、息子は倒錯を起こすのか。「象徴化されておらず、代替不可能、置換不可能な対象としてのファルス」(p.254)として息子を母親が欲望することで、息子は倒錯を起こすという。

象徴のない子供は欠如が欠如する

で、象徴化というのはどういう意味なのだろうか。象徴化とは「象徴的関係」という言葉の意味を見てみるとわかる。
象徴的関係とは「人と《法》the Lawとの関係」(p.48)である。よって象徴化とはある対象が《法》、何らかのルールや権威になるということだ。

もう一度母親の息子への欲望についてへ戻る。象徴化されていない対象としてのファルスを母親は欲望するし、息子もそれに応えようとするようになる。象徴化されていない、ということをラカン派精神分析では「想像的な」という用語を使う。
象徴というのはルールだったが、想像というのはイメージだと理解していただければここでは事足りる。息子は母親のイメージとしての「かけがえのない男性イメージ」になろうとする。その「男性イメージ」は決して母親を傷つけることはない。母親に反省させることもないし、負の感情をいただかせることもない。しかしだからこそ、母親の「かけがえのない男性イメージ」に自分を添わせようと躍起になって、息子は「世間で『名をあげる』こと」(p.255)もできなくなる。この「躍起になる」部分が「享楽の固着」である。
息子は世間で成長するよりも母親のイメージに沿っていることが一番大切な事柄になる。未熟であっても構わない、となる。自分の未成熟さ、社会の中ではおぼつかない状況が見えなくなる。「欠如が欠如する」。

私たちの社会にもある「欠如の欠如」

良いではないか、母親が良しとするイメージになんとか応えようとしているのだぜ?と思う人もいるかもしれない。だが、どうだろうか。
大人の人間は皆、果たして自分の親の言うことを一言一句鵜呑みにしているだろうか。そんな大人はこの世界において明らかに少数派だ。
しかし、結構こうした論理は世の中にはびこったりしていないだろうか。別に親子関係に限らない。誰かの言うことを聞いていれば、先輩の言うことを聞いていれば、かつて書かれた文章の通りにしておけば、今まで作られて運用されてきたシステムと同じように動くソフトを作れば、すべて丸く収まるのだとしていないだろうか。つまり現行踏襲というあり方は日本社会にはびこっていないだろうか。
僕が現状で現代日本の都市社会で暮らしていて、この点に不備を感じる。つまりイメージだけが先行して、あるべき姿、ルールが無い。あるいはそうしたルールの共有が不足している。

なぜルールはルールとなるのか。それは社会的にイメージや言葉を共有しているからルールになる。
そして多くの人が、僕も含めてどうやったらルールを共有できるのかについて、どこかわかっているようでよく知らないのではないか。新たなルールを作ったり、ルールを提案されてそれを受け入れる余裕が無い。あるいはあるべき姿や哲学が乏しいので、その具体化であるルールについて考えたり提案されても、それが自分にとって良いルールなのかどうかを判断することができない。
いやむしろ「現行踏襲」というルールが共有されているとも言えるだろうが、そうなると、そもそもどういうルールが足りていないのかがよくわからない。なぜなら現行踏襲とは「過去のルールの完遂」を意味するのであって、「過去のルールの完遂」というルールという、ルールの無限ループが起こっているからだ。そして完璧な人間が存在しないように、完璧なルールもまた存在しない。不足したルールの完遂という不足したルールを徹底する、といったように、まさに「欠如の欠如」が起こっている。

今回は以上です。また。

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