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『東京物語』小津安二郎監督作品 感想 2024/4/29

おじいさんとおばあさんが穏やかで、ひたすら可愛かった。 都会と田舎という、僕が祖母と話すときにもよく出てくる対比がモチーフとなっていた。 人にはそれぞれ生活がある。生活という現実の重みは、愛という抽象的なものを超えてしまうことがある。その様を描いていた。 未亡人の義理の娘さんが、おじいさんとおばあさんと接する姿は、愛であるように見える。 それは娘さんが、亡くした夫を抱えながら(時に忘れてしまうときもあるが)今も生きているからかもしれない。 その現実とは別の抽象的な関

    • ドラマ『不適切にもほどがある』感想 2024/4/13

      素敵なドラマだった。 ファミリーロマンスと言われればそれまでなのかもしれないが、時空を超えてわが子を思う、そしてわが子のわが子を想う気持ちと、それが未来への希望に繋がっていく演出は、僕が最も心動かされるものであった。 阪神・淡路大震災で亡くなった人たちの家族、その子どもや孫たちが、今もその記憶とともに生きていることを思い出させてくれる。 昭和の時代が終わり、平成を経て、令和の今にいたる。 本来、過去の先に未来があって、この世界は地続きである。 独立したものとして現在

      • 映画『PERFECT DAYS』 感想 2024/3/25

        美しい映像であった。 東京という都市空間を舞台に一人の男が清貧に生きる。彼の起床から始まる映像はさながら「丁寧な暮らし」をするYouTuberのモーニングルーティンのようだ。(私は絶望ライン工を想起した) 彼の仕事はトイレ掃除であり、それは一般的に社会的ステータスが低いとされる職業である。しかし、この映画でのトイレ清掃員は朝に事務所へ出勤する必要もなく、上司に監視されることも管理されることもない。徹底的に自由な職業として描かれている。 その自由度は彼が自営業者であると

        • 通路側に座る人。

          電車に乗ると思うことがある。 正確には、クロスシートの電車に乗ると思うことがある。高速バスや新幹線、飛行機のように座席が並んだ電車だ。 全員が前を向いている車両の中心を一本の通路が貫く。 必然的に窓側の座席に座るためには通路側の座席の前を通る必要がある。 だから、通常このような車両は窓側から埋まっていき、それから通路側が埋まっていく。 しかし、稀に窓側が空いているにも関わらず、通路側に座る者がいる。 もちろん、彼らはすぐ降りるつもりで、降りやすいように通路側に座っ

        『東京物語』小津安二郎監督作品 感想 2024/4/29

          一人称について

          私、俺、僕、うち、拙者、某、小生など一人称の種類が豊富であることが、日本語の特徴として挙げられることがしばしばある。 それぞれに微妙なニュアンスの違いがあり、日本語の言語表現の豊かさを体現しているというのだ。 しかし、私は一人の日本語話者としてそうは思わない。むしろ、反発したいとさえ感じている。 まず、上に挙げた一人称の中で、20代前半である筆者が日常的に使用して変な人だと思われないのは、私、俺、僕くらいだろう。それ以外を使うなら個性的なキャラクターで生きていく覚悟がい

          一人称について

          コミュ障とか幸せとか

          コミュ障。中高生の頃に散々悩まされた言葉だ。 私は当時、初対面やオフィシャルな会話、大人は得意であった。 しかし、同級生との雑談、とくに大人数での会話に不自由を感じていた。 どこか、会話の中に入り込めない自分がいるのだ。 友達がいないと感じていた。孤独感があった。私が通ったのは共学であったが、異性の友人は一人もできることなく卒業した。 なにか甘酸っぱいもの、青春のようなものは経験することなく大学に進学した 中高一貫校だったので、高校デビューの機会はなく、大学デビュー

          コミュ障とか幸せとか

          主観と客観 みぎとひがし

          僕が「みぎ」を身に着けたのはいつだっただろう。 小学校に入ってからだったような気がする。 母に「お箸を持つ方の手が『みぎ』だよ」と教えられた。 しかし、その説明は私にはピンとこなかった。お箸を持つ方の手はお箸を持ってみないと分からなかったのだ。 「みぎ」は概念だ。 形のない、捕らえどころのない何かだ。 誰も、「ほら、これが『みぎ』だよ」と指差すことはできない。 愛とか勇気とか、形のない何かはたくさんあるけれど、私がはじめて習得したそれは「みぎ」である。 「みぎ

          主観と客観 みぎとひがし

          了解しました失礼論に対する反駁

          「了解」は新明解国語辞典によると、「事の内容や事情が分かる」ことである。 このことから、「了解」は「分かる」という動詞の同意表現であることが分かる―了解される―だろう。 したがって、少なくとも「了解しました」は「分かりました」とは同じ地位が与えられて然るべきだ。 そもそも、「了解」とは「諒解」の諒を了で代替したものである。 よって失礼論者が提唱する、了には「終わらせる」という意味があるから、目上の人には使えないなどという言説は、全く的外れなものである。 大辞林による

          了解しました失礼論に対する反駁

          怠惰との決別

          自分は優れた人間だ。 そう思っていたことはないだろうか。 表面的には否定しながらも、心の深いところでそう思っているエリート諸君は多いのではないだろうか。 恥ずかしながら、私は大学受験に失敗するまでそう信じていた。中学、高校の成績は芳しくなかったにも関わらず、大学受験が近づいて本腰を入れて勉強すれば、トップレベルになれると思っていたのだ。 その根拠には中学受験での成功体験があった。 今思えば大したことではないのだが、私は地元では難関と呼ばれる中高一貫校に合格した。 私の

          怠惰との決別

          東京湾フェリーのすすめ

          太陽が沈んでいく。毎日くり返される現象に、こんなにも心動かされるのはなぜだろうか。 ここは東京湾、船の上だ。 江の島、海ほたる、箱根、熱海、伊豆。大学一年の夏休みに運転免許を取ってからというもの、暇さえあれば友人とドライブに出かけてきた。それから二年余りが経ち、車で日帰りできてしっくりくる目的地がなくなってきた。 このマンネリ化した週末ドライブの一服の清涼剤となるのが、40分の短い航海だ。 東京湾フェリーは、神奈川県横須賀市の久里浜港と千葉県富津市の金谷港を結んでいる

          東京湾フェリーのすすめ