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<雑記>風向きが変わろうが、髪の毛はまだ生えている

 はい。こんにちは。春の風が吹いています。
 夏の風は嵐の中から、秋の風は僕のつむじに当たり、冬の風は無風状態と言っていいほどの軟弱さでした。

 それでも季節は廻り、また春の風が吹いています。
 水に溶けてしまった春の風は、薄い薄いラーメンの出汁のように僕の胃に吸収されていくのでしょう。煮干しなのか豚なのか、はたまた牛骨か。いずれにしても、僕の胃は出汁を吸収するために必死に動くのです。時計の針の音は思春期から大学生になるまでは嫌いだったけれど、働き始めたころには耳につかなくなっていて、今ではカチリカチリと鳴る音が丸みを帯びて聞こえるのです。

 僕が丸くなったからでしょうか。僕はいつから尖り始めて、いつから丸みを帯び始めたのでしょうか。いえ、僕自身の形が変わっているとは到底思えず、僕は鉛筆であるだけで、僕を尖らせたのは鉛筆削りであり、僕に丸みを与えたのは鉛筆を握るその手なのです。
「消しゴムが落ちたから拾っていいですか?」と、テストの時間に手を上げることは怖くないことで、消しゴム無しで数十分を過ごすことの方がよっぽど怖いことなのです。
 間違えた回答の上に、鉛筆でぐちゃぐちゃに線を引いたところで何も訂正されることはありません。

 時代に対して、僕は霞がかったような、ラーメン出汁とは別の薄味を感じています。そんな薄味の何かの元であるかのような、雪解け水の表面をすくったような澄んだ色でもない、羊から刈った羊毛の端切れの部分のような。

 時計台の下に座る僕に、鳥が言います。
「朝は四時三十七分から始まる。四時三十六分は夜だよ。朝は、三十七分から始まる」
「それなら、夜はいつから始まるの?」
「夜は六時二十六分から始まる。六時二十五分は夕方だよ。夜は、二十六分から始まる」
「それなら、君はその時計台から顔を出して、何を告げているのさ」
 僕は座ったまま、時計台の中から喋る鳥に問いました。すぐに返事はありません。ひとしきり考えているのでしょうか。その間に、カアと鳴いたような、チュンと鳴いたような、僕の知り得ない囀りのような鳴き声が時計台の中から聞こえた気がしました。
 鳥が喋ることができなくなったのかと、僕は更に問います。
「そろそろ二十五時だ。君は何を告げて鳴くんだい」
「鳥は、鳥は雲の隙間に胡椒を振りかけているだけだよ。雲に隙間が出来たら、間を埋めなくちゃ」
「空に向かってそんなに胡椒を撒いたら、ここらあたりの人間たちはくしゃみが止まらないよ。いい加減、そんな粗暴なことはよして、そこから降りる気はないの?」
 僕は鳥に問いかける資格がないのかもしれません。返事はすぐには返ってきませんでした。気を取り直すにも、僕の後ろには時計台があるばかりで、眼前には誰も歩いておらず、歩くためか車のためか判断がつかないコンクリートが広がっており、五感がうまく働きません。
 せめて近くに池でもあるといいのにな、と思っていたら、時計台の秒針が長針を、長針が短針を導いて、二十五時がやってきました。

 時計台の中央上部にある扉が開き、連動して現れた鳥を見ようと顔を上げると、陰が僕を覆いました。見上げた先には鳥の尾の端くれしか見えず、二十五時を告げるはずの鳥は、裏から見ると処刑台に載せられているように感じました。
「二十五時だよ。雲の隙間を埋めなくちゃ」
 そう言うと鳥はばさばさと羽を振り始め、僕の目には胡椒が振りかかりました。くしゃみより先に涙腺が刺激された僕は目をつむってしまい、鳥が雲の隙間を埋める瞬間を目撃することができませんでした。


 僕が絵本を閉じると、彼女は僕に聞きます。
「鳥さんはどこに胡椒を持っていたの?」
「どうだろうな。胡椒なんて最初から持っていなかったのかもしれない。だって、このあとくしゃみが出なければ、鳥さんが撒いたものが胡椒かどうか判断が付かないと思うな」
「でも、目に入ると痛いんでしょう? なら胡椒だと思うな、私は」
「君がそう思うなら胡椒なのかもしれない」
 二人で目をつむり、鳥と胡椒と雲の隙間について考えていたつもりでしたが、結論は行方不明のまま四時三十七分が来ました。その頃には僕も彼女も眠っていて、ランドセルの中では鉛筆たちが昼を待っているのです。

 こうしてずっと、二十五時と雲の隙間は胡椒によって埋められ続けているのです。鳥が身体のどこかに隠し持っている胡椒が切れたら、二十五時を告げるものがいなくなります。誰かが雲の隙間を埋めなければなりません。僕は彼女と寝るはずの寝床から這い出して、髪の毛を鷲掴みにします。頭皮から生えていたはずの僕の髪の毛は、ライターで焙られたようにほろほろと崩れ、指の隙間を埋めていきます。
 二十五時を告げる秒針を聞き分けたその瞬間に、僕は二階の窓から髪の毛を撒くのです。雲の隙間を埋めるため、髪の毛を毟っては握り潰して投げ、また逆の手で握っては握り潰して投げ続けるのです。

 四時三十七分が来て、僕の隣に彼女はいませんでした。
 彼女がいない事実に気づくのとほぼ同時に、僕は頭に手を伸ばしました。髪の毛はまだ残っているようです。握りしめてもほろほろと崩れることはありません。たんぱく質として形を成したまま、僕の頭皮にしっかりと根をはっていました。
 慌てても仕方がないのです。雲の隙間を埋めるために、僕は髪の毛を撒くのです。僕の髪の毛で雲の隙間を埋めることが可能な限りは。


 おしまい。またね。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。