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『手のひらの 唇の脇の 手の甲の』(9/11)

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前のお話

 翌日土曜日の朝方になって、僕は目的の駅まで運ばれた。座席で眠りはしたが、停車中の車内で小脇に仕事の鞄を抱えた状態では深く眠れなかった。あるいは姿勢だけの問題ではなかったのかもしれないが、とにかくほとんど寝た気がしなかったのだ。

 駅近くの立体駐車場に歩いて向かいながら、京佳さんと話した。
「無地に着いたよ。駅までは」
「遊悟くん、疲れたでしょう?」
「疲れた。けど、まだ家には帰れそうにない。避難指示は解除になってるけど、アパートに向かう途中の大きな橋が通行止めらしい」
「ん。坂田川でしょう? 私もニュースで見たけど、どうするの?」
「僕はまた待つよ。幸い、車は駐車場に置いてて無事だから」
「私も待ってればいい?」
 京佳さんが何かを待つ必要など無いだろう。僕はこれからアパートに帰るのだから。
「そうしてくれると助かる。少し眠りたいんだ」
 車のドアを開けると、くぐもった湿度のある空気が僕の顔にまとわりついてきた。くそ、と腹の中で悪態をつきながら、後部座席に出張用の膨らんだ鞄を放り投げる。
「遊悟くん、困ったら言ってね。私は待ってるから」
「んん。一旦眠ることにするだけだよ。それ以外に、僕は今何も出来そうに無い」 
 通話している自分の声が駐車場に響くのが気になり、乗り込むとすぐにドアを閉めた。
「おやすみなさい」の声を聞きながら、座席を倒した。助けてくれ、とは確かに思ったが、僕が実際に「助けてくれ」と口に出したところで、京佳さんにできることなどない。僕らは、自然の脅威が引いていくのを待つことしか出来ないのだから。


 昼まで眠るつもりだったが、起きたら十四時だった。窮屈さに腰が悲鳴をあげたので伸びをして大あくびをしたら、髪がきしんでいることに気づく。
 そういえば、風呂に入っていない。
 立体駐車場の隙間から見える雲の流れは相変わらず早かったが、どす黒い雨雲ではなく、灰色という言葉で表せるほどには薄くなっていた。
 携帯を開き、通行止め情報を確認しながら考えた。
 僕は風呂に入りたいのか、着替えたいのか、家に帰りたいのか――しかし、どうにも正しい手順が分からない。正しさなんてモノはないだろうと、効率のよさで考えてみたが、これも思いつかなかった。

 何かヒントがあるかと、また携帯を開く。誰からも連絡は入っていない。
 ミコからのメッセージ履歴は、遠くに流れていたはずだったが、しばらくぶりに日付が新しくなったので目についた。
"ほら。待っていればなんとかなる"
"僕は問題ない"
"余計な心配だったってことだ"
 返信が来ないことは確信していたが、ためらわず送信ボタンを押した。画面に描画されるメッセージは、ポンッ、ポンッ、と僕の指の動きに合わせて流れていったが、空砲みたいな――空打ちの射精のような虚しい音に聞こえた。
 しばらく経っても、僕のメッセージが読まれる様子はなく、また携帯を閉じた。
 そのまま目をつむる。
 眠れなかった。
 なぜか。
 僕はお腹がすいていたのだ。とても、とてもお腹がすいていた。何が理由で目覚めたのかと思い返せば、空腹だったはずだ。駅構内のコンビニが機能していることは朝確認していた。
「いらっしゃいませ」に返事をしようかと思うくらい人と会話をしていない気がした。しかし、「いらっしゃいませ」に対して返す言葉を僕は知らない。車内に戻ると菓子パンをコーヒーで流し込んで一気に食べた。
 僕はこれで、睡眠と食事を済ませたことになるが、性欲は沸いてこなかった。


 自然の脅威が引いていく様を、自分の目で確認しなくても、携帯が知らせてくれる。とても便利な道具だ。
「帰れるみたい」
「よかった。気をつけてね」
 半日ぶりに少しの会話をするためにも役に立つ。そんな大層な言い方をしなくてもいいかもしれないが、とにかく、役に立つ道具だな、と僕は思った。

 通話を繋いだまま、一人でアパートのドアを開ける。渦巻く湿度の高い空気はすぐに外気と混ざり、境目が分からなくなる。
 僕は空気などではなく、目に入った光景に対して、思わず声を発した。
「うわっ。これはだめだ」
「えっ?」
「だめだ、だめだめ。終わってる」
「どうしたの?」
「たぶん、膝の上くらいまで浸かってる」
「膝の上って? 地面から?」
「いや、床の上に立った状態の膝上だよ」
 電話の向こうの京佳さんは床に座ってでもいたのだろうか、僕の説明をすぐに理解したらしい。
「それって、かなり浸水してない?」
「してる。最悪だ。そして臭い」
 土足のまま上がると、砂なのか泥なのか、じゅるじゅるとした音が短い廊下に響いた。いや、砂や泥だけではない。汚泥だ。振り返ると、糸を引いてしまうんじゃないかと思うくらいに、ふつふつと尖った足跡がくっきりと残る。
 僕が足を付けた場所以外は、よく見ると波紋のような跡が汚泥に残っている。水が波打ちながら引いていったのだろう。不気味な跡からは、ぷかぷかと漂う、色の悪い液体しか想像できず、僕の気分は悪くなるばかりだった。
「貴重品とか、大事なモノとか、大丈夫なの?」
「さあ、どうかな。ちょっと待ってて」
 疑問など挟む余地はなかったのだが、トイレ、風呂、洗面、冷蔵庫、ソファー、ベッド――それぞれを自分の目で確認してから次の会話を行いたかった。モノを見る度に、いちいち何かの反応をしているところを京佳さんに聞かせても意味はない。

 腰掛ける場所もなく、キッチンの流しに腰を預ける。
「無事なのは、ハンガーに掛けておいたスーツと、干しっぱなしの洗濯物くらいだな。私服は元々そんなに持っていないから問題ないし、貴重品はなんとかなる。家具は全部安物だから」
「ハンコは?」
「ハンコ? それは分からない。探してもいないよ」
 京佳さんにしては珍しく、意味不明な質問をしてきた。動転しているわけではないだろうが、冗談で言ったトーンでもなかった。
「とにかく、必要なものだけ取ったら僕はホテルに行くから」
「ホテル? なんで?」
「ベッドは上まで濡れてはいない。けど、この匂いの中じゃ眠れないよ。風呂にも入ってないし」
「あ、ごめんね。私、そんなことにも気づかなかったんだ」
「気づかないよ。当事者じゃなければ。いや、違うな。僕だって忘れてたんだ、昼過ぎに目覚めるまで、風呂に入るって行為を忘れてた」
「ん。でも、ごめんね」 
「別に、気にすることはないよ」
 汚泥の匂いが鼻の奥に付いてしまいそうで、一旦電話を繋いだまま外に出た。が、既に僕の鼻はおかしくなっており、夕方の匂いのするはずの外気は、つんと鼻の奥を刺してくるばかりで、季節を想起させるような感傷は一ミリも含んでいなかった。
「遊悟くんさ。私ね、馬鹿だったのかもしれない」
「何が?」
「あのね、遊悟くんのこと待ってようって思って、ずっと家にいたんだけどね。どうにも手持ち沙汰で、ニュースを見ても街の細かな様子は報じられてなくてね。流れてるのは大きな川の映像と、空中からの様子ばっかりでさ」
「んん。それは僕も知ってる。ニュースサイトで見る写真はとても個人的では無いものばかりだ。まあ、ある意味で当然なんだろうけど」
「そうなの。だからね、遊悟くんのアパートがどうなったか、遊悟くんがどうなったのか、私には分からなかったし、想像することもできなかったの」
 僕は携帯を耳に当てたまま、唯一自分の匂いの感じれる車内に戻る。

 お互いを深く知らない僕らが、お互いの想像をするのには限界がある。いや、僕も京佳さんも既に知っているはずだ。想像には限界がある、そして、限界のある想像の中で僕らは恐怖する。
 仕方のないことだが、僕らはその想像によって行動する。
「想像できないことも、知らないことも悪いことじゃないだろう。実際、分からないことは僕も分からないし、それこそ〈私の街は大丈夫だ〉って言ってたけど、京佳さんの家の前の道に、どれくらいの水が流れたか、僕は知らないんだから」
「でもね、私ね、さっきも言ったけど、本当に馬鹿なことをしてるんだよ。だってね、私ね、お昼から慌てて自分の荷物をまとめたの。それでね、遊悟さんのとこに行かなくちゃって、ずっと待ってたんだよ」
 運転席のヘッドレストにはもう飽きた。あるいは、新幹線の座席のヘッドレストも嫌いだ。僕が枕に頭を預けるのには、もう少し我慢が必要だった。
「僕の部屋で眠れるとしたら、硬いキッチンの上くらいだよ」
「うん。ごめんなさい」
「だから、謝らなくていいって。僕は気にしてないんだから」
「だけど……ううん、ごめんなさい。私は謝るときは謝りたいの」
「それなら、今そこでヘンテコなポーズでもしておいたらいいよ」
「ん、いいよ」
 京佳さんの即座の返事に、僕は何の言葉も返せなかった。いつもの京佳さんなら、少し吹き出して、「こんな時になに言ってんの」なんて返してくると想像していた。
 僕の想像は無駄らしい。
「私、待ってるから。ヘンテコなポーズするから。来てよ」
「何言ってるの?」
「遊悟くん、寝るとこ、ないでしょ?」
「ホテルに行けば良いから」
「お金、掛かるよ」
「知ってる。対価だから払えば良いだけだよ」
「じゃあ、私も今から行く」
「どこに?」
「ホテルに」
「いいけど、部屋あるかな?」
 京佳さんは僕の返事にうろたえることなく、ベッドの数は気にしないと言った。僕もツインだろうが、ダブルだろうが、シングルだろうが、ベッドのサイズと数は気にしない。
 両者の意思の一致により、僕らはホテルで眠ることにした。

 ダブルベッドの中で身を寄せてくる京佳さんは、静かな池に風が吹いて起こる、緩やかな波紋のようだった。
 平坦だったはずの京佳さんは、確かに波打っていたのだ。いや、これは僕が気づいていなかっただけで、京佳さんは京佳さんなりに、波風を立てて生きているからだろう。

 しかし、それでも尚、京佳さんのことを「波長が合う」と思うことはない。
 ただ、「波長が合う」だのという言葉は、多少僕の今までの理解とは違っていたのかもしれないことに気づいた。
 僕らはそれぞれが自由に動く波であって、ぴったりと同じ方へ同じように進んでいることなど、殆どないのだろう。ただ、偶然何かのタイミングで二つの波が重なり、波の合成が起こった瞬間の、少し高くなった波の様子を捉えて言った言葉なのかもしれない。

 もちろん、波の合成なんて一瞬のことで、僕らがその瞬間を、度々観測できるかどうかは分からないことだけれど。



つづく

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。