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『手のひらの 唇の脇の 手の甲の』(10/11)

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前のお話

 ずいぶん長く眠ったように感じたが、早朝に目が覚めた。
「おはよ」
 完全な寝起きではない声色の京佳さんが、口の中だけであくびをする。
「外はもう明るい。早いけど、僕はもう行かなくちゃ」
 口で言ってはみたが、昨日見た自分の部屋の光景を思うと、動く気力が湧いてこない。水が引いてからそろそろ丸一日になる。時間とともに、汚らしい床が干からびていく様子まで想像できる。
 ぐしゃぐしゃになった部屋の光景の中で、ぶらさがって濡れていないスーツが存在していることを思い出す。僕は、まだ朝だというのに週末の終わりを想起していた。

 鬱々とした気分に、京佳さんを引きずり込むわけにはいかなかったので、率先して帰り支度をした。
「ちょっと、狭山さん待ってよー」なんて、化粧に時間をかけるミコに言われた記憶がある。そういう時は大抵、寝起きでセックスをした後だった。「眠い」だの「だるい」だの言いながら、ベッドの上でごろごろした後のミコは、決まってシャワーを浴びてから時間をかけて化粧をした。
 僕はその時間が、この上なく退屈だった。
「いいよ。私もう行けるから」
「別に焦らなくて良いのに」
「んーん。本当に終わり」
 僕は、無事だった数少ない私服の一つに着替え、京佳さんに先に部屋を出るように促す。僕の横を通り過ぎる京佳さんからは、シャンプーの匂いなどしなかった。 
「忘れもの、ない?」
「ん。大丈夫」
 スーツではない服を着てホテルを出るのは、果たしていつぶりだろうかと思い返してみたが、僕の新しい記憶にはなかった。 


 買えるだけの掃除道具と、ビニール袋を用意した。京佳さんがゴム手袋も買った方がいいと言うので、僕は素直に従った。
「遊悟くん、これは?」
「それも、被災ゴミ」
「あ。グローブ、大丈夫だったね」
「それは、あとで車に放り投げとこう」
 浸水した部屋を、下から順に片付けようと思ったが、どうにも手順が分からなかった。部屋を見渡せば、茶色くあとの残った壁があるが、正確に同じ位置に線が残っているのは、壁と家具の足くらいだった。
 裏表紙だけ水を吸いきっていない本が床に落ちていたり、難を逃れたかに見えた薄茶色の写真は、触るとぽろぽろと指先からこぼれ落ち、やがて小さくなる。
 小さなものを掴んで、一つ一つ仕分けするには限界があった。そんなペースで作業を続けると、リビングの足元を整理するだけで日が暮れるどころか、何日も要してしまう。僕は捨てるべきものだけではなく、必要かもしれないものも大雑把に捨てる判断をした。

「一旦休憩しよう、昼が来る」
「遊悟くん、手はちゃんと洗ってね」
「分かってる。さすがにこれじゃあ、おにぎりも食べられない」
 水道は復旧している。朝、部屋に入ったときはどこから手をつけようか迷ったが、キッチンと水回りは京佳さんが最初に片付けに取りかかった。使える程度に要領よく拭き掃除まで終え、いつの間にか僕の作業に加わった。

「遊悟くん、おにぎりの具、なにがいい?」
「僕はなんでもいい。京佳さんが好きなの選びなよ」
「んー。じゃあ、一つは先に選ぶから、あとは好きな順番で食べて」
 中身の具よりも、ご飯の中に混じる塩味を強く感じた。僕は疲れているらしい。無言で咀嚼していると、上の階の足音や、隣の部屋で家具が動かされる音が耳につく。

 一方で、身近な振動音は僕の耳に入っていなかったらしい。
「遊悟くん、携帯鳴ってるよ」
「ん?」
 キッチンの上に放っていた携帯が震えている。口の中のおにぎりをお茶で流し込んでから、携帯を手に玄関まで移動する。
「はい、もしもし」
「あ、狭山さん――ですか?」
 日曜の昼だというのに、忙しい人もいるものだ。

 要件だけ確認して、キッチンに戻る。
「僕は選ばなきゃならないかもしれない。二週間くらいで、この部屋を退去するか改修を待つか」
「この部屋?」
「そう。各部屋の浸水状況を電話で確認してるらしいんだけど、個別対応はどうも無理っぽいって。だから、アパートごと修理を一括してやるかもしれないらしい。改修の間、退去しないなら別の部屋を貸すし、退去するなら恐らく違約金もなく、敷金もきっちり返却になる可能性が高いって」
 保証を利用するのも悪くないが、水を吸いきってうねったフローリングや、薄茶色に濁った壁を見渡す限り、この部屋で継続して住むのは無理筋に思える。片付けが進んだって改修されたって、僕はこの光景を見ているし、消耗しているのだ。
「どうするの?」
「まだ分からないな。片付けもこんなだし」
「ん。私もやるから」
「いいよ。そんなに無理しなくても。京佳さんは暗くなる前に帰るといい」
「なんで?」
「なんでって、夜だし、明日は月曜だからだよ。僕も仕事に行くし、京佳さんも仕事がある」
 おにぎりのビニールを集めた袋を丸めながら、京佳さんが言う。

「あのね、遊悟さん。もう少し暗くなってから言おうと思ってたんだけど。一区切り付くまで私のとこに来たらいいんじゃないかな」
 この二日間、どうしてこうまでも次々と、京佳さんから誘いの言葉が出てくるのか、僕には分からない。僕のアパートが床上浸水をしたという事実は確かにあるが、この事実のみが京佳さんの言動を変えているとは思えないのだ。
 あるいは、僕ではなくて、京佳さんの側に何かが起きたという事があるのかもしれないが、ただ水が引くのを待っていた僕には知る術が無い。
「正直、ホテルで寝起きするのも疲れるから、とてもありがたいとは思うよ。ただね、京佳さんにも迷惑が掛かるだろうし」
「私は、迷惑じゃないよ」
 大きなゴミ袋に昼食のビニール袋を放り込むと、京佳さんは休む間もなく、次の作業を始めようとビニール手袋を手に取る。
「夜までに考えてくれたらいいから。遊悟くんが来ても来なくても、私は大丈夫」と手袋を嵌める。言葉と同時に、京佳さんの手の甲にあったほくろが手袋に隠れて見えなくなった。
 僕もそれに続き、ビニール手袋を嵌めて作業に戻る。仕分けする必要があったのは全てが僕の部屋のモノで、僕と京佳さんは続けて会話をする必要があった。

 僕は、今夜の寝床の思考回路とは別に、「それは被災ゴミ」「もう捨てていいよ」「だめだな。多少のやつは捨てよう」と繰り返し京佳さんに伝えた。
 これじゃあまるで、僕がいとも簡単になんでもかんでも捨てる人に見えるじゃないか、と邪推した。それどころか、僕がこれまで抱いてきた女の子との関係のことまで、全てを把握されているのではないかという恐怖すら感じた。
 いや、おそらく、僕の思い過ごしであろうことは容易に予想できる。しかし、僕の指示に従いポンポンとビニール袋にモノを放り込んでいく京佳さんは、あまりにも淡々としている。
 それどころか、「これは?」と聞いてくるときの表情はまゆげが上がっているのだ。これは、好意を示す表情に現れるサインの一つだった。

 僕が行わなければならないのは、決断ではなく、部屋の掃除だった。そして、明日は出社するつもりだったので、スーツを確保し、無事だったシャツと靴下の数をかぞえた。
 とりわけ、靴下の方は数が少なかったので、何足か買っておく必要がある。
「ちょっと休憩しよう。僕はコンビニまで行ってくるよ。いくらか買っておかなくちゃならないモノがある」
「ん。気を付けてね」
「京佳さんは休んでていいよ。というか、休んでて欲しい。僕も一服してから帰るから」
 休憩時間が欲しかったわけではない。僕を説得する言葉が発生することから逃げたのでもない。
 僕には思考する時間が必要だった。
 そして、ただでさえ疲れている出張後から日曜にかけて、一晩眠りはしたがめまぐるしい景色の変化に僕は疲れきっていた。口も、手も動かしたくない。ならば、せめて頭だけは、少しの間でも、思考だけのために使いたかったのだ。

 コンビニの灰皿の前にしゃがみ込む。
 寝不足ではないはずなのに、ニコチンで頭がくらくらして気分が悪い。
「本気で好きにならせちゃ、だめなんですよ」という言葉をふいに思い出す。事実、僕は京佳さんと交際しているし、だめなはずがない。ただ、どうしてだろうか、京佳さんとの先の想像が僕にはできないのだ。
 いつのことだったか、ミコから聞いた言葉がある。
〈結婚するのなら、未来の光景が想像できる人とするといいらしいですよ〉と。短絡的には理解しているつもりだったが、おそらくこの想像というのは、もっと具体的な想像を指している。
 例えば、五十歳を過ぎた頃の僕らが、仕事終わりに帰宅した家で行う会話の内容だったり、休日にサービスエリアでソフトクリームを食べているかどうか、という想像だ。
 冷静に考えれば、想像がつかなくもない。
 そう。想像がつかなくもない、程度なのだ。
 煙草が半分を切ると、更に頭がくらくらしてどうしようも無くなった。未来について考える意味も価値もない。未来だけに価値が見いだせるのなら、それは幸せなことなのだろうが、僕はそうではない。
 現実に、ミコと離れるまでは、セックスがしたければ女を作ってセックスをしていた。罪悪感はなかった。そして、僕は何度同じ事をしても、罪悪感を感じないかもしれない。

 煙草を灰皿の中に落として、左手を見た。
 ミコに教えてもらった僕の手のひらのほくろは、色が薄くなっている。毎日気にして見ていたわけではないので、実際のところは定かではないが。こんなもの、いずれ消えてしまっても気づきはしないだろう、と僕は思った。

 それに、僕はほくろを握りしめるために指を伸ばさなかったばかりか、失敗を犯したのだから。
「遊悟くん、携帯忘れてたよ」と言う京佳さんから渡された端末の電源ボタンを押すと、着信通知が表示されていた。
「ごめん。僕にしては珍しいな」
「ん。電話鳴ってたよ。かけ直さなくていいの?」
「必要ないよ」
 やってしまったな、と思ったし、やってくれたな、と思った。着信はミコからだったのだ。




(つづく)

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