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葉っぱの上の水滴は

雨が上がった後、どうなるのだろうか。

そんなの、葉っぱをつたって地面に落ちるんじゃない?
それか天気が良ければ乾いちゃうとか。

そうだと思う。
というか、これだけの数の水滴、正解は無限にありそう。
他の生物がありがたく飲み水にするかもしれないし、
土に落ちれば、当の植物が吸い上げて養分にするだろうし。

そんなことを、小学生の頃の学校帰りに考えていた。
雨の日、ただでさえ憂鬱だったから。
色んな想像をするのが楽しくて。

黄色の傘を肩に乗せて、たまにクルクル回しながら
色んなことに対して、「これって」の連続。

今思えば、良くそれだけ気になることがあったものだ。
私は生きることには相当無頓着だったけど、
考えたり想像したりすることには貪欲だった。

今でも、信号待ちの間に、傍らの草花を見て
「これは・・?」と考えることがある。

我ながらヒマ人だなと思うし、変なのと
笑えてくる時もあるけれども。

でも世の中の摂理から見れば、人間の一生なんて
この水滴みたいなものだろうと思う。

落ちようが何だろうがそれがどうしたというんだ。
その位の感覚。

でも、その水滴自体は誰かの役に立っている。
飲み水となり、吸い上げた後は養分となり。
蒸発しただけだったとしても、目を止める人がいれば
「ああ、きれいだな」という想いや、想像の素となったり、
認められずとも、また雲の中に返って次の雨の1滴となるだろうし。

ちっぽけな意義じゃないかと言われるかもしれないけど、
それでも無駄ってことはないと思う。

実際に存在したのは間違いないし、
その場にいたことも、どうなるかも偶然が重なってな気がするし。

一生関わりのない方が断然多い中、
同じ植物の葉っぱの上で一緒になった水滴は人間の様だ。
茎側と葉先では交わることもないだろうに
たまたますぐ近くで知り合いになったり、
かけがえのない存在になったり。

なんてことを水滴を見て考えたりする。
単に葉っぱの上の水滴が好きなだけ。
素直にきれいだなと思う。

大きさも形も様々だけど
皆水滴には違いがない。
一様にきれいだなと思うし、
この後どうなるのかな、と思う。

あゆちゃんの紫陽花の例えを思い出した。
「花の1つ1つは違うけど、どれも皆きれいだと
    思える社会になればいいと思う」

本当にそうだね。
なるにはどうしたらいいか、
何をすればいいのか、考えていこう。





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