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小説家であり続けるために、何を書くか考える

このタイトルに嫌な気持ちになる人は多いと思う。わたしもつい数日前までそうだった。小説を書く人は、内から湧き出る切実な自分の書きたいことがあって、それを書くべきだと思っていた。

自分には書きたいことはないと言い切るベストセラー作家は案外たくさんいて、小説に対する真面目な態度ではない気がして、こっそり嫌だなと思っていた。わたしが嫌だと思おうが、そうでなかろうが、本が売れている。すなわちたくさんの人に求められているわけだから、そんな業界丸ごと、嫌だな思っていた。

だからこそ、内から湧き出る切実な書きたいことや、人とは違う生い立ちや、強烈な個性や、独自の視点や感性が自分にはないことが、常にコンプレックスだった。いま、ブンゲイファイトクラブという短編作品を競うイベントが開催されていて、わたしは予選落ちしたのだけど、通過した作品たちの、才が、感性が、独自性が、百花繚乱に咲き誇っているのを見ていると、わたしは自分のつまらなさを冷静に測ることができた。技術はある。ストーリーも及第点はとる。楽しんでくれる人もいる。だけど、それだけだ。わたしが憧れる、唯一無二の、切実さの滲み出る、その人にしか書けない小説は、わたしには書けないと思った。今のところは。

『諦める力』為末大・著(プレジデント社)を再読している。陸上競技の花形は100m走だけど、為末さんは、途中、100m走を諦め、400mハードルに競技を変えてそこに集中した。陸上競技で勝つことが目的だから自分が勝ちやすい競技を選ぶ、合理的な選択で、それで結果を出した。諦めることは悪いことではなく、諦めることで別のものを選べるから、目的を叶える前向きな手段になり得るというのが、この本のメインメッセージである。

わたしの目的は何だろうと考えたら「小説家になること」という言葉が浮かんだ。軽薄な気がしてがっかりした。小説家という憧れの職業になりたいし、小説を書いて生きていきたい。別に自分の中の何かを表現したくて、その手段がたまたま小説だったというわけではない。切実なものがあるふりをして自分を騙していたけれど、そうではない。目を見開いて、他の人たちの作品を読んでみたら、それを認めざるを得なかった。

ふと思い出したのが、ライターになってから研究者にした数々のインタビューだ。研究者には「研究したいことがあってそれを研究している人」だけでなく、「研究者として生き残るために戦略的に研究テーマを選んだ人」がいる。研究者として生き残るのは大変だ。10年、20年やっていくわけだから、何を研究するかで運命は決まる。会社を立ち上げる起業とまったく同じだ。技術の進歩と何が今新しいか、何を解明すべきか、分野の可能性はどう開けるか、競争相手は多いか少ないか、小規模でも世界に勝てるのか、そして自分には何ができるかを考えて、選ぶ。そうすれば生き残れる可能性は高くなる。

そんな発想、わたしは大学院生の時にまったく持ったことがなかったので、とても感銘を受けた。確かにその通りだ、と思った。好きなことや興味を追及しました、というだけで研究を続けられた人もいるだろう。でもそれはたまたま時代にはまったか、運良くポストを手に入れられたか、すごい才能の持ち主だったかだと思う。

小説家だって、同じように、小説家を続けるために何を書くかを決めてもいいのではないか、という考えがひらめいた。実際、そうやって活躍している人は山ほどいる。そうじゃない方が理想だし憧れるけど、わたしにはそうじゃない方で勝ち抜く能力も資質もない。

わたしは一生、小説家であり続けたい。そのために何を書くかを考えてみよう。そう腹を括ると身震いがした。とても怖い。かつてのわたしが、そんなのは邪道だ、嫌だと思っていたみたいに、今度は自分がそう思われるから。でも本を読むとすぐ影響されがちなわたしは、為末さんみたいに、本当は金メダルをとりたかった100m競技を諦めて、別の競技で金メダルを取りにいこうと思った。

別の競技。

たとえば、ビジネス書や科学書を小説で書くこと。ライター業界で小説を書く。ここならまだわたしでも勝てるかもしれない。需要はあるし、ライターが小説を書いていることはあっても、小説家が参入しているケースは少ないからだ。それは小説家の王道ではないし、文芸界からは見向きもされないだろうけれど、そこで、わたしが小説だと信じるものを書く戦いをしたらどうだろうか。

多くの人に読まれたいという野心がある。その心は突き詰めていくと、わたしを知ってほしいというよりは、小説の面白さを伝えたいという思いに辿り着く。この世には小説というものがあって、読んでみたら、他のエンタメでは味わえない経験ができて、結構楽しいし、時には自分を救ってくれることもあるんですよ、ということを布教したい。

その目的は、小説業界以外で小説を書く方が達成できるかもしれない。小説好きな人は放っておいてもどんどん小説を読むし、彼らを喜ばせる小説を書く人たちは、わたし以外にたくさんいる。でも小説がこの世からなくなってもまったく困らない人たちもいて、その人たちが、自ら小説王国に遊びにきてくれることは、まずない。これまでは国語で触れていたかもしれない。だけど高校国語は、実用的な文章を学ぶ論理国語と文学作品を学ぶ文学国語の選択性になった。

だから小説王国の外で小説に触れる機会を作る役目も必要なんじゃないかと思う。

あとはわたしのプライドの問題だけだなと思う。そんなのは小説家じゃないと、わたしの憧れる小説の王道を行く人たちに思われながら、自分は小説家だと信じる戦いを続けられるかどうか。そんなのは小説じゃないと思うのは、前例がなく、伝統にのっとってないからだ。たとえば、ケータイ小説が出てきたときも、ライトノベルが出てきたときも、投稿サイト出身の小説が出てきた時も、わたしはひどく抵抗感があった。でもそれらは確実に小説を楽しむ人たちを増やしたと思う。文芸誌にはできないことをやってきたと思う。

文芸誌に自分の小説が掲載されたかったし、一般文芸の棚に置かれる本を出したかったし、芥川賞とか直木賞とかもとりたかったし、文壇というものがあるのか知らないがそういうものの仲間入りをしたかったし、文学賞の審査員とかして憧れの作家たちと肩を並べて議論を交わしてみたかった。

それらは諦めて、諦める力を発揮して、別の方向に、力を注いでみようと思った。小説を書いて生き続けるために、そして多くの人に小説の面白さを広めるために。

どうするのか。
今わたしが得ているもの、勝ち取ったものを、足場にして、走り始めようと思う。ライター仕事を減らして、文学賞に応募しなきゃと思っていたけれど、そうじゃなくて、ライター仕事もどんどんやって可能性を広げて、小説の腕もしっかり磨いて(刺激を受ける場があればどんどん参加して)、ライター仕事の中で小説を使える機会があったら積極的にアピールしていこう。

小説好きの住む世界とそうじゃない世界を行き来して、いつか小説好きの住む世界に、ぞろぞろと新しい観光客を連れてくるよ。移住する人も出てくるといいな。

実現するかな。共著で9月に出した本がその第一歩になるんだと思う。健康のことをわかりやすく小説で書いた本で、読んだ人から、読みやすくて面白かったと嬉しい感想をもらった。

どんなものか見てやろうじゃんとか、思ってくれたらぜひ読んでみてください。こんなのは小説じゃないよ、とか、もっとこうしたらとか、うちの本を小説化してよとか、忌憚なき反響お待ちしています。

16%の人しか知らない 幸せになる、健康資産』加藤明・寒竹泉美 共著(ダイヤモンド社)

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