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毎日小説を読んだら変化したこと

2024年になってから、毎日小説を読んでいる。小説家なんだから当たり前じゃないかって思うかもしれないけれど、恥ずかしながら、今までは全然できていなかった。ライター仕事の資料として読む本に追われて、小説から遠ざかっていた。

まとまった時間ができたときに落ち着いて読もう、と思うのをやめて、細切れでもいいから、読んだところを忘れてもいいから、少しでもいいから読む、ということを始めたら毎日読めるようになった。スマホアプリで漫画を読む時間とか、SNSをボーっと眺める時間とか、ネット動画を見る時間とか、意味もなくニュースを眺める時間とか、そういう時間の代わりに、デスクに置いておいた小説をひょいっと読む。読む本は1冊ずつ。今までは結構並行してあれこれ読んでいたけれど、1冊ずつなのも続くコツかもしれない。

1月は4冊。2月は今、3冊目を読み始めた。

小説を読んで何の得があるのか、という質問に答えることができない。小説より映像の方がいい、という人を引き留めることもできない。でも、小説を読むことは他の体験とは何か違う感覚があって、それがわたしにとって何か良い作用をもたらしているという気はしている。

分かることは、小説を読むと小説を書きたくなることだ。アイデアが湧いてくることもある。ドラマとか映画やアニメも好きでむさぼるように見るけれど、それとは何かが違う。

映像作品や漫画はよっぽど退屈じゃないかぎり、途中で考え事をしたりはしない。ただただ夢中で見てしまう。でも、本を読んでいると途中で自分の考えが浮かんでくる。書かれていることに呼応するように、パッと何かを思いついてしまう。だから小説を読んでいると、小説を書きたくなるのだと思う。

なんでだろ。映像と違って文字だけでだから、脳の容量が空いているんだろうか。

最近、考える時間というのはとても貴重で豊かな時間だ、と思うようになった。情報をざぶざぶ頭から与えられているような日々で、その情報から逃れて、雨宿りして、静かに、ひとりで、自分の中にあるものを点検し組み合わせ育てていく時間。そういう雨宿りの場所が、小説なのかもしれないと思う。

小説を読まないと、自分の中を流れる時間がどんどんスピードを増していく気がする。世間に追い立てられるように、足並みをそろえて、どんどん駆け足になっていく。だけど、小説を読むとリセットされる。毎日読むと、毎日リセットされる。あれ、別に走らなくてよくない?って気持ちになる。

昨日は、ブックライティングの初稿をひとまず完成させた。意識を機械にアップロードする研究をしている科学者と、意識や心の哲学を研究している哲学者の対談本。アップロード世界ではデジタルコピーを作ることもできるし、姿を変えることもできるし、世界の設定を変えることもできる。何でも可能で自由だからこそ、どうあるべきかを考える必要がある…なんて話を書いたのだけども。

(興味がある人はぜひ、3月に開催される意識研究会の無料のオンラインシンポジウムを覗いてみてください。のちのち出る本がいっそう楽しめると思います。詳細こちら。)

ふと、今日、意識をアップロードしなくても、小説って同じようなことをしているんじゃないかなあと思った。アップロード世界で自分と同じデジタルコピーを作ることと、小説を書くことはとても良く似ている。書き終わるまでは一体化しているけれど、書き終えた後は、かつて自分であったけれど今は自分ではないものになる。書き終えた作品は、自律的に、いろいろな人と関係を結んでいく。わたしはその作品が誰かにどう影響したかを人づてに聞くことはできるけれど、その作品とわたしは別の個体になっている。小説を書き終えるたびに、わたしは分身を作り出しているのだと思った。

だから書き終えるときに、とても寂しく、すっきりした気持ちになる。わたしを切り離すのだ。もちろんわたしの中から切り離された部分が消えたりはしないけれど、それは時間とともに薄れていく。小説の方にはくっきりといつまでも残り続ける。デビュー作のあのひりつく感じは、わたしの中にはもうほとんど残っていない。でも読むと蘇る。

アップロード世界と同様に、小説も世界の設定を好きに変えることができる。ただし好き勝手に変えすぎると、小説は崩壊する。意識のない無生物になる。

言葉は究極のテクノロジーだ。質量も体積もない。だけど、世界を築くことができ、それを他の人と共有することができる。

わたしは毎日小説を読み、かつて誰かの一部であったものの中に入り、その意識を味わっている。わたしではない意識は、わたしを相対化し、わたしを思考させる。

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