わたしは、わたしを信用しない

脳科学者の池谷裕二さんが「快感には2種類があります。何かの目的を達成した快感と、もうひとつは試験など厭なことが終わった快感です。」と、この記事でおっしゃっていた。要は達成感と解放感。これは実感としてよくわかる。しかも、快感具合は解放感の方が強いのだそうだ。うん、これもよくわかる。ということは、締切を無事に終えて提出したあとは、達成感と解放感のダブルでトリップしている状態なわけだ。そりゃ、ハイテンションでアホにもなるよね。

締切とは関係なしに、わたしが毎月経験している解放感トリップがある。PMS解放トリップである。生理前に体調や精神状態が悪化する症状を生理前症候群(PMS)というのだけれども、わたしはもう20代半ばくらいからずっとこの症状に悩まされ続けてきた。主に精神症状。鬱状態になる。ネガティブな気持ちになり、ひどいときは何の理由もなく涙がはらはら流れることもある。
PMSという症状があることを知らなかったときは、このうつうつとした最悪な気分には何らかの原因があると思いこんでいた。脳というものはそういうときにつじつまを合わせないと気が済まないので、ありもしない理由を捏造するのです。たとえば、わたしは本当はいろんな人から嫌われているんじゃないか、とか。他の人が聞いたら、何を馬鹿なことを言ってるの?…と思うようなことを本気で思い込んでグチグチ悩んだりする。しかも、わたしの場合は、それをウェブ日記に書き散らしていた。しかも、生理が来た途端、ハイテンションになってポジティブになってやる気に満ちあふれ、今まで悩んでいたことなど吹き飛んで活動的になっている。ジキルとハイドみたい。本人には自覚はないのだから、さぞかしみんな、ぽかんとしたりしていただろう。物書きだから許されていたのかもしれない。
そのころはデビューもしていなかったし、社会人としてちゃんとしなくてはという気持ちもなかったので、ただただそのまま書いていた。
それが、よかった。
ある日、元気な時期に、なんであんなことに悩んでいたのだろうと疑問に思い、そういえばこんなこと前にもあったなあ、と思って日記を見直したら、前にも同じようなことを書いている。しばらくあとに、また書いてある。これ、もしかして周期性がないか…? と気づき、付き合わせてみると、それが全部生理前なのである。

どう考えても生理周期と精神状態に関連がある。はて、そんな症状って、あるんだろうかと調べていくとPMSという言葉にたどりついた。今でこそ、結構メジャーになって女性誌でも取り上げられているけれど、当時はそこまで知られていない言葉だった。でも、よく女子がイライラしていると「生理?」って聞く趣味の悪い冗談が存在していたし、「女は子宮でものを考える」という言葉もまあ、ぎりぎり耳にしたことがある時代だった。そんなわけあるか!と、そういう言葉の存在に憤っていたことのあるわたしは、自分の思考が子宮に結構支配されていたことに唖然とした。ショックだった。でもそれが事実なのである。れっきとした観察結果だ。

そういう症状があるということを自覚すると、前よりは対策ができるようになった。嵐が来るのはとめられなくても、来る日がわかれば被害を最小限にとどめられるしあきらめもつく。この絶望的な気持ちはPMSのせいで、別に誰かから嫌われているわけじゃない…あと2日もくれば解放されるから、今日は動けなくても焦らずに我慢しよう…よけいなことも言うまい…と自分に言い聞かせる。そうして嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ(でも、小説が生まれるのはたいていこのときなので、わたしにとってはなくてはならない期間でもある)。

自分の感覚や思考を100%信用できるわけじゃない、と考えるようになったのは、この経験が関係している。女性に限った話ではなく、男性にもきっと生理的な要求のせいで思考がいつもと違ってしまうことはたくさんあると思う。きっと、お互い様だ(だから世の中が、女性 vs 男性みたいにならないでほしい)。男女共通で、何か強い欲望が働いているときや、体の調子悪い時や、ひどいストレス状態にいるときは、正常な健全な判断ができないことがある。酔っ払っているときも思考は体に支配されている。人間は自分が考えているより動物的だ。だけど、それを受け入れてコントロールできるのは人間だけだ。

わたしを100%信用できない。だから、わたしが出力したものだけでなく、外部データを取り入れ、総合的に判断しなくてはいけない。でも、だからといってわたしを無視するわけじゃなくて、もちろんわたしの内から出てきた感覚は一番大事にする。大事にしつつも、それが体の状態に大きく影響されるということや、本当に望むことを、まだうまく自覚できなくて、ごまかされたりごまかりたりしてしまうほど自分の心が未熟であることも知っていなくてはいけない。鵜呑みにしてはいけない。

わたしはいつも揺らいでいる。それなのに、人はわたしを認識する。わたしにかかわる人たちはみんな、その揺らぎを編集して、ひとつの像を作る。その像はみんな違う。ある人と一緒にいるとき、わたしがとても魅力的に見えるときがある。その人といると、自分がなにか素敵なもののように見える。だけど、逆もある。その人といると自分がつまらないもののように見える。最近は、どちらが本当のわたしか、なんて問うのはやめた。人生は短いし、わたしには、わたしを自由にする権利があるし、意志もある。心地よいほうへ行けばいいだけだ、などと思っている。

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