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noteの記事を有料にするか無料にするか考えて気づいたこと

noteの他のブログとは違う面白さは、記事を有料にできることだと思う。しかも、みんな結構有料noteを買っている。そこが面白い。儲けるほどの収入にならなくても有料にもかかわらず購読してくれる人が1人でもいたら嬉しいだろうし、有料だからこそやり続けられることや、限定公開だからこそ書けることもあると思う。そういう意味では、やっぱり興味がある。

でも、金額を考えるとお金の価値がぐらぐらと揺らぐ。たとえば、月500円の有料購読にした場合、500円というのは、わたしの電子書籍の長編小説よりも高い。ヴァニラ文庫うふの作品は324円。電子じゃなくて文庫本の作品ですら637円である。魂削って心血注いだ作品にブログの記事が勝てるわけはないと思うのは書き手の勝手な思いで、たぶん、小説は読まないけどブログは読むという人もいてくれると思う(小説のジャンルが特殊だし)。それ自体はとてもとてもありがたく嬉しいことのはずなのだけど、それが金額で示されてしまうと、メンタル的にちょっとナーバスになりそうな気がする。
さらに、2000字くらいのブログを毎日更新したとして、1カ月で6万字。ライターの仕事として書いたときに手に入るお金と同じだけの読者数は何人だ…なんて考えたら、また、お金の価値がぐらぐらする。

ここでわたしは「ものの値段は需要と供給で決まっていて、作り手の労力や思い入れと関係ない」という現実にがんじがらめになっている自分を再確認する。これが再確認できたのは、noteを通じて、自分が値段をつけて売る側になってみようと考えたからこそで、そういう意味でもnoteの有料制度はとても面白い。値段とはなんぞや。お金とはなんぞや。自分の価値とはなんぞや。
でも、「ものの値段は需要と供給で決まっていて、作り手の労力や思い入れと関係ない」というのは大きな流通の大原則の話であって、売り手のことを知ったり、作り手の労力や思い入れを知ると、値段以上の価値を感じて、買いたくなることもある。それは需要と供給だけで決められた値段の買い物よりも、買った人をちょっとだけ幸せにする気がする。

大げさなことを言うと、需要と供給だけで値段が決められる世界に、背いて我が道を行く革命者、それが有料noteなのだと思った。普通に考えたら文庫本が600円くらいで買える時代に、個人のブログにお金を出して買う人がいるってすごいことだと思う。お金を出す人は、誰でもいいわけじゃなくて、その人だからお金を出しているのだと思う。「作り手の労力や思い入れ」という大きな流通では無視されてきたものを大切にしたくてお金を出しているのだと思う。値段を決める人も、買う人も、<需要と供給>をあまり考えない。ただ自分が欲しいかどうか。文章のフリーマーケットみたい。

わたしもnoteを使って、需要と供給だけで価値が決められる世の中に抗いたい。でもその方法は、有料noteを発信することではない。既に需要と供給で価値が決められてしまっている自分の作品に、無料noteを読んでもらうことで付加価値をつけたいと思う。平たく言えば、小説なんて読まないし必要性も感じてなかったけど、この人の書いたものなら興味があるからちょっと読んでみようかな、と思ってもらえるようなブログ。作品の宣伝とはちょっと違う。ただただ、自分の生き様を書いていく。でも、本当のことは全部作品に書いてある。本当のことを読みたくなった人が、小説も読んでみたいと思ってもらいたい。読んでくれた人は次の作品を楽しみにしてもらえるように。

と、ここまで書き終えて気づいたけれど、ブログを書く1番の目的は自分のためかもしれない。宣伝や仕事の文章ばかりで、こういう自分の想いをつづる文章をしばらく書いてなかった。書くと、自分の足がちゃんと地面に着地する感じがする。読んでくれる人がいるだけで幸せだ。あんまり役に立つものは書けないけれど、長い文章を書きたいときは、アメブロじゃなくてこちらに書こうと思いました。まとまらないけど終わります。

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