見出し画像

電子書店が消えれば購入した電書も消えるし、電子遊技場が消えればわたしも消える(でも、紙の本と生身は残る)

図書館から予約取り消しのメールが届いた。予約していた本が届いたのに、取りにいくのを忘れたまま、1週間が経ってしまっていた。取り消されたのは、谷川俊太郎の絵本「ぼく」

「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」

から始まる絵本だ。雑誌『pen』谷川俊太郎特集を読んで知って、すぐ予約したのに、予約取り消しのメールが来なければ、予約したことも、谷川俊太郎をもっと読みたいと思ったことも忘れていた。10日前のことなのに。

家から遠くの図書館から運ばれてきて、家の近くの図書館に置かれて、待ちくたびれて、またもとに戻っていってしまった本のことを思うと、自己嫌悪の気持ちでいっぱいになる。たくさんの人が協力してくれたのに、私の不注意のせいで出会い損なった。本を予約したら、出会える日を楽しみに待って、その日が決まったら、すぐにでも、ちょっと姿勢を正して、お迎えに行けるような、そんな生活をしたい、と思った。で、借りて読んだあとに、一緒に暮らしたいと思ったら、ちゃんと家の本棚にお迎えする。

最初から買えよってね…。いや、そうなんだけど、いつもこれがジレンマで、作家や出版社のことを考えたら本は買った方がいいけれど、合わない本は家に置きたくなくて、困ってしまう。古本に売ったら最初の動機の意味がなくなるし、古紙回収に出すのはもっと考えられない。本を「ゴミ」として捨てるなんて、できない(けど、実際は多くの本がわたしたち消費者の見えないところで捨てられ溶かされているのだけど)。

本という物体への思い入れが強すぎて、本が「人」みたいに思えてしまう。捨てられないし、合わない本とは一緒に暮らせない。買ってみて合わなかったらどうしよう、と思う。だから、電子書籍なら気楽に買える。そこにあるのは「情報」だけだから。積み重なっても気にならないし、簡単に削除することもできる。

物体としての本を考えると、古本屋はアンティークショップだ。掘り出し物を見つけるのが楽しい。でも、情報として考えると、著者や出版社に利益が還元されないことが申し訳なくなってしまう。図書館とか古本とかも著者や出版社に利益が還元されるシステムができたら、もっとどんどん本を買えるし売れるのに。たくさん出会って、合わなければ手放して。

誰かと3次元の現実世界で生身で会って交流することと、ネット上だけで触れ合うこととは、どう違うのかを考えたくてnoteを書き始めたのだけど、本の話と何だか似ていると思った。

電子書籍のプラットフォームがなくなれば、そこで購入したコンテンツが消滅してしまうように、ツイッター改め「X」が、もし、いつか、使えなくなったとき、わたしがつながっているつもりになっていた、たくさんの人の意識から、わたしの存在は削除される。

でも、それを想像すると、とても清々しく軽やかな気持ちになった。わたしのほんの一部のデータがそこに参加しているだけなのにもかかわらず、わたしをすっかりとりこにして、わたしを支配している仮想現実世界から、ようやく自由になれる気がするからだ。

生身で得られる情報量は、画面越しに得られる情報量をはるかに凌駕する。生身の世界で、わたしは脚を使い、筋肉を動かし、頭を動かしながら、物を見、聞き、全方向からの刺激を受け続ける。わたしの行為が世界に思わぬ影響を与え得る。それなのに、わたしは画面という檻に自ら進んで監禁されている。画面越しに見る貧しい世界にとらわれている。

じゃあ、ネットよりももっと情報量が少ない、小説や文章はどうなのだろうか。静止した文字だけの世界。わたしは小説家だから、小説はいいものだと擁護したい。ネットやオンラインの交流と、どう違うのか、ここで主張したい。

良い小説や良い文章には、生身で得られる情報量がぎゅっと圧縮されて詰まっていると思う。書き手が、世界を解釈し、作り直し、結晶化させているからだ。

一方、ネットやオンラインコミュニケーションは、生身の世界の状態に限りなく近い。未加工データだ。しかも窓から覗くように、その一部分しか見せられない。生身の世界の解像度を落とした、劣化版だ。

軽々しくデータ化することで、わたしたちは大量の人と交流することができるけれど、誰かの気まぐれであっさりと変容する世界以外で、つながりを作らなくてはいけないと思う。気に入った本は紙で買って本棚に並べておくように。

そうして、心にも本棚のようなものがあるとしたら、誰かの、本棚に置かれるような小説を、書きたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?