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note見て浮かぶ言葉に秋の夜

 noteを見て、自分でも書いているけど、興味ある世界しか見ていなかった。ふとのぞいたnoteで、新しいことを知る。「俳句」を創作している人たちがこんなにいるなんて、考えてもみなかった。そういう「俳句」の世界に、ちょっと土足で踏み込むようで恐縮だが、秋っぽい句に参加する。(「あきっぽいく」の変換は「飽きっぽい句」が最初に出た!?)

午前4時 有明の月に 浮かぶ町

 中秋の名月、月見の夜に、月を見るだけでなく、周りの風景も見ただろうか。満月の月明かりは意外と明るい。月明かりに景色が照らされる。昔の人は、街灯もない時代に、夜は月明かりで生活していた。
 早朝の夜の世界も同じ。昔の貴族は、妻問婚といって、男性が女性の家に通うのが結婚だった。明け方には、人に見つからないように女の家から帰る。だから明け方の情景を詠んだ歌が多い。明け方の月は有明の月(ありあけのつき)という。有明の月は秋の季語になる。誰もいない早朝。月明かりに照らされる町の風景は、現実とはどこか違ってどこか幻想的に見える。


新しき命はぐくむ枯れ尾花


 すらっとした姿で月見に飾った後のススキは、綿のようにぶくぶくになり、枯れ尾花(かれおばな)と呼ばれる姿となる。けれどそれは種を大きく育てるための姿だ。膨らんだ綿の中に種がある。妊婦さんのお腹が大きくなるのと同じだ。と書けば、「ススキとちゃうわ」と怒られるのだろうか。LGBTQをなんと心得るか、と男女のことを理解していないと怒られるのだろうか。人間の思惑とは関係なく、サケや魚は、卵を産むと命がつきる。命を産むことは命がけなのだ。ススキも命がけで種を作る。
 枯れ尾花は冬の季語。でも、生き生きとしたススキの穂の間に、ぶくぶくとした枯れ尾花の姿が見られ、両者が共存するのは秋の情景。


白い彼岸花おしべくっきり残して枯れて


 真っ赤に燃える日本の彼岸花は種ができない三倍体だ。めしべは種を作ることなく枯れていく。種で命をつなぐことができない(そのかわり球根で増える)。花の後の枯れた赤い彼岸花の姿は、種を作れないめしべと、種に命を与えることができないおしべと、ちぎれた花びらが枯れて残っていて、なぜか痛々しい姿に見える。
 白い花のシロバナヒガンバナの場合も赤いヒガンバナと基本的には一緒なのだが、花びらを落とした後もおしべがくっきり残って見える。散ってすぐの、花びらのかけらを残しているときは、赤よりも白い色の方が生きている感じがする(これは個人の見解です)。赤からできた変異体の方が丈夫に見える(これも個人の見解です)。燃える赤よりも、何も飾りを持たない白い色に力強さを感じてしまう。


 他人の作品にケチをつけるのは簡単だけど(江戸川柳の紹介をしています)、いざ自分が作ってみると創作は難しいなあ。



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