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横浜

パソコンを整理していたら、以前書いた手記「横浜」が出てきました。

一応マガジン「ジオヒス☆エッセイ」の仲間入りをさせるために、こちらにもアップしておきます。


「横浜」  


1、まえがき

さわやかな海風とともに、温かい日差しと淡い潮の香りが一瞬通り過ぎる。この「横浜」という言葉の音と雰囲気は、そんな瞬間を運んでくる。
川崎市の住宅街で育った私にとって、横浜は隣接の都会であり「青春」だった。
そういえば人生で初めて買った薄紫色のアイシャドウは、横浜の地下街で見つけた。高校一年の冬は大人になったつもりで、ちょっぴり背伸びをしてみたんだ。なんせ、帰りの電車の中では「私、アイシャドウ買ったんですよ。」と、乗客たちに向かって心の中で叫んでいたのだから。
こんな細やかな思い出は「横浜」の空気と共に、胸をキュンとさせる。


2、横浜の想い出

横浜の港に行くと、こんなことも想い出す。
高校1年生の時、友人と授業をサボって制服のまま一日中、行き交う船を眺めていた。その時、何を考えていたかは覚えていない。
ただ授業をサボったという優越感と、サボってしまったという罪悪感が交差する、そのあいまいさを楽しんでいたような気がする。
そしてもう一つは、二十歳(はたち)過ぎてからだった。
友達が転勤でこの地を離れる時に、夜中、車を走らせ横浜の港に行った。立ち入り禁止の鎖がかけられた大きな船に乗り込んで、この海のはるか向こうにある国々を想いながら、友達3人でああでもない、こうでもないと朝方まで語り合ったことだ。
誰もいない船の上で、見つかることはないという安心感と、見つかったらどうしようという不安感が交差する中で、若さに全てを任せた。あの時はお互いの虚像の可能性に、希望を抱いていたんだと思う。

そんな生活圏であった「横浜」は、あの時の私を知っている。
だからここに来ると、この地との対話が始まる。
「あんなこともあったね。若かったね。」ってね。


3、横浜の地形と地層

こういう私を温かく見守り、育ててくれた横浜。
そんな横浜の姿である地形や地層って、いったいどうなっているのだろう。
古代、地球の海水面は、気候変動などにより数メートル高かった。その縄文海進時(約6000年前)は、この関東の奥まで海が侵入していたという。
そして徳川家康が江戸に入った1590年には海面が下がり、海岸線は既に沖の方にあったが、関東は平野ではなく湿地だった。
例えば、海面が5メートル高いと関東平野はこういう状態らしい。

この地図から見ると、横浜は、完全に海の下である。
あの時の私の生活圏は、すべて海の底だったということだ。

まるであの時の想い出が、浦島太郎の「竜宮城」のように思えてきた。
もしかして「青春」とは、竜宮城での甘くて酸っぱい「幻」なのかも知れない。

その後この青春の舞台になる海底を、生きた大地の技によって「埋め立て作業」が始まる。

その内容は地層でわかる。
それはこの地層が、大きく分けて二つあるからだ。
ひとつは海による灰色の地層で「上総(かずさ)層群」と呼ばれ、横浜から千葉県までの関東平野に広がる地下5000~6000mまでの地層だ。
この「上総(かずさ)層群」は、25万年前から50万年前まで海だった関東平野に雨が降り、その水の作用によって運ばれた泥や砂が積もった地層だ。
古くて堅いこの地層は、横浜の土台となって守ってくれている。


もうひとつは、赤茶色の地層である。それは65万年前から何度か繰り返されてきた箱根火山の噴火と、若い火山である富士山の1707年「宝永噴火」などで、火山灰が積もってできたものだ。
この赤茶色は火山灰の中にある鉄分が錆びた色で、横浜一帯はこの火山灰層が10メートル以上も積もっていることが多いという。これが「関東ローム層」である。

また横浜には「~谷」や「~丘」という地名が多いのを見てもわかるように、丘陵の都市といわれている。
もともと同じような高さだった所が雨によって削られ、この凹凸ができた。

こうしてみるとこの地形も、まるで華やかしい青春の「舞台」に相応しいではないか。

また地球のプレート移動である、地震の作用もある。
横浜開港(1859年)の前後で起きた「安政東海地震(1854年)」「安政江戸地震(1855年)」「横浜地震(1880年)」や、1923年には死者14万人も出した「関東大震災」が起きている。
これら巨大地震によって、隆起する場所や水平方向に数メートル動いたところもある。海の底の地層が大地や丘陵に位置しているところを見ても、地震の影響がわかる。
今も大地は、生きて呼吸している。地形を通して、そんな地球を感じる。


4、横浜の歴史 寒村から機能地域へ
 
この生きた大地が経験してきたことは、この土地の歴史として刻まれている。
江戸時代までの横浜は、波が打ち寄せる砂浜と、塩焼きの煙がたなびく塩田と、沖合に現れる海水浴場があった。
そんな寒村が幕末から現代までの160年間で、都市へと発展した最も決定的な要因は、横浜の開港である。
この寒村が世界を結ぶ貿易港となり、日本の首都東京を支えたことによる。


その他1923年の関東大震災含む、度重なる天災も大きな要因だ。隣接の東京と同じ運命をたどりながら、すべて破壊され倒壊焼失しても、都市計画による復興の力によって区画整理されていった。
その後の大戦・接収・戦後復興も東京と共に、日本の高度経済成長の舞台となっていく。
こうして世界における日本の首都「東京」と共に、「横浜」は成長した。

始まりは1853年、浦賀にペリー率いる海軍東インド艦隊黒船4隻の来航からだ。翌年、日米和親条約を締結により、1859年安政の開国による開港5港の一つとなった。
幕末繁栄が失われた当時の江戸は、都市の70%を占める旧武家地の荒廃がはなはだしく「夜中は別けて往来少し、また強盗多し」といわれるほどだった。
その後この江戸が武都から首都へ、天下の総城下町江戸から近代国家の首都東京に成るためには、西洋技術の導入の下、陸では鉄道による「横浜」との連結と、海では船舶を通して世界と繋がっていく必要があった。
よって海路において「横浜」は、世界と日本の東京の結ぶ「結節点」の役割を果たす貿易港となったのだ。
そして陸路においては、1869年横浜-東京を結んだ蒸気機関車を開通して、東京を首都としての機能させるようにした。
すなわち、明治維新による近代化日本の首都「東京」は、世界と繋がる結節点である貿易港「横浜」があってこそということなのだ。

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