短編小説「金魚」

「あなたと一緒にすくった金魚が、いつの間にかこんなに大きくなりました」と書いた手紙を破り捨てながら、自分の未練がましさにうんざりした。一緒に送ろうと撮った金魚の写真は壁に貼った。金魚に罪はない。
そもそもそんな手紙を送ったところでどうなるって言うんだ?金魚の写真を見て憲吾君がわたしのところに戻ってきてくれるとでもいうのか。「へぇ」と声を漏らし、手紙も写真もその辺に放り投げるだけだろう。封筒の封さえ切らないかもしれない。あいつはそういう奴だ。きっともう、わたしの事も忘れてしまっている。そう思うと無性にムカついて寂しくて、また手紙を送ろうか考えてしまう。それで少しでもわたしの事を思い出させたい、思い出すだろう、思い出してほしい。うんざりする。自分に。
金魚は二人で行った夏祭りの縁日ですくった。いや、正確に言うとすくえなかった残念賞でもらった。
その日、わたしはわざわざ浴衣を引っ張り出して着てしまったわけだけれど、そこはやっぱりウキウキしていたわけで、それは否定できないし否定することもない。その時、わたしは憲吾君のことが好きだったわけだし、二人は付き合っていたわけだし、そんな二人が夏祭りに行くとなればウキウキしない方がおかしい。
憲吾君は寝間着として使っているTシャツに短パン、ビーサンであらわれた。わたしは内心ガッカリしたけど、それはわたしの勝手な期待があったからで、別に浴衣で行く宣言していたわけでもないし、じゃあ憲吾君がどんな格好で来たら納得したのかというとこれと言って明確な答えはない。それでも落胆は落胆で、憲吾君にもウキウキしながら来てもらいたくて、それがどうにもその服装からは読み取れず、たとえ寝間着のTシャツであろうとそうしたウキウキ感があればよかったのだけれど、それが無いからの落胆で、それでもどうにかそれを押しとどめ、平静を装った。思えばこうしたすれ違いこそが破局を用意していたわけだし、そんなすれ違いを我慢したり、なかったことにしながら関係を続けたとしても、それが果たして幸せだっただろうか、と強がる今のわたし。
それでも気を取り直し、縁日を回った。楽しかった。そのころのわたしはマリオで言ったらスターを取ったみたいなもので向かうところ敵なし、クリボーやノコノコを蹴散らしながら駆け抜けて行けたわけで、スターは憲吾君で、憲吾君と一緒ならどこへ行っても、何をしてても楽しかった。
ファミレスでただ延々とおしゃべりしてるだけでも、井之頭公園散歩するだけでも。バカみたいだけど、バカみたいで、たぶんバカだったのだ。
金魚すくいをやりたいと言ったのはたぶんわたしだ。消去法。憲吾君がそんなことを言うわけがない。きっと、「どうせすぐ死んじゃうよ」とかネガティブなことを言ったに違いない。あいつはそういう奴だ。なんにしてもそんな感じで「ディズニー行こうよ」「えー、混んでるじゃん」「海行きたい」「俺、肌弱いんだよね。日焼けしたくない」「どっか旅行行きたい」「えー、疲れるだけじゃん」みたいな感じで、結局、ファミレスか憲吾君ちでDVD観るだけで、それもこちらの恋のヴォルテージが高い時ならいざ知らず、そうしたことが続くとそれも摩耗していってしまったというわけだ。
金魚すくいの店番をしていた金髪ヤンキー君から手渡されたポイは三つあったはずなんだけど、それはあっという間になくなり、わたしの手にしたお椀の中は水が揺らめくだけ。こういう時にどんな顔すればいいのか、わたしはとても苦手だ。実際のところとしてはすごく悔しくて地団駄踏みたいんだけど、なんかそんなに真剣に金魚すくいに取り組んでたのかよ、みたいに見られるのは恥ずかしく、と言っても「失敗しちゃった、てへ」みたいなことも恥ずかしくてできないのが私。不器用ですから。
「残念賞っす」と、袋に入れられたのは飛び切り小さくて、今にも死にそうな感じの金魚だった。
わたしはその金魚の入った袋を目の高さまで持ち上げる。ヤンキー君が空気を入れてくれたそれは風船みたいにパンパンで、小さな金魚は不思議そうな顔をしながらそこに浮かんでいた。もしかしたら、それは金魚の初めて世界を目にした瞬間だったからなのかもしれない。たぶん人工の池かなんかで生まれ、水槽ともいえないような桶の中で育ったのだろう。時折ひれを動かして、体勢を変える。あたりを見回しているみたいだ。金魚の袋越しの世界はぼやけて見えて、露店のけばけばしい色や、提灯の明かりが幻想的に見えた。憲吾君がじっとわたしを見ていた。
夏祭りの翌日、二人で金魚鉢を買いに行った。憲吾君はその買い物に否定的で、「どうせすぐ死んじゃって無駄になると思うなあ」とか言ってたけど、わたしの方としてはもう意地だ。丸い形の「ザ・金魚鉢」って感じの可愛いのを買った。口の部分がひらひらしたやつだ。帰ってそれに水を張り、それまでお鍋に水を入れてそこに泳がしていた金魚を移すと、金魚はやっと生きた心地がした、みたいな顔をした。きっとそのまま煮魚にされるんじゃないかと不安だったに違いない。金魚は新しい自分の住処を恐る恐る点検するみたいにちょっとずつ泳いだ。少し進み、止まり方向を変える。それを繰り返す。口をパクパクさせていて、まるで独り言を言いながら、自分を納得させながら点検をしているようだった。金魚鉢と一緒に買ってきた餌を上から落としてやると、金魚は水面に浮かんだそれに近寄ってきて、少し考えてからパクリと食べた。なんだかわたしは金魚に愛おしさを覚えた。これの命はわたしが握っているんだ。
「ねえ、賭けをしようよ」と憲吾君が言った。「一週間」
「何が?」
「金魚が生きてるの」
わたしはムッとして黙り込んだ。憲吾君はそういうことに気が付かない。それも頭にくる。
とは言っても、わたしも金魚が長生きするとは思えなかった。それはあまりに弱々しくて、儚げだった。
で、どうせすぐ死んでしまうだろうと思っていた金魚が長生きをして、今では金魚鉢が手狭といった具合。いつまでも続くだろうと信じていた恋が、呆気なく終わった。

「あんたまだ言ってんの?」と渚は言った。ビールを飲み、煙草をふかす。煙が居酒屋の薄ぼんやりした灯りの中に漂う。開店したばかりだから、店内はまだ静かだ。わたしと渚しかいない。
誤解を恐れずに言えば、わたしは渚が好きだ。さばさばしたとこも、自分の意見をはっきり言えるとこも、短い髪型が似合うとこも、どれもわたしには無いもので、わたしは渚に憧れる。渚、という名前もいい。渚の事はみんな渚と下の名前で呼ぶ。。
「えー、やだよ。なんかヤンキーぽくない?」と渚本人は言うけれど。
渚の名付け親は渚の父親で、そのお父さんは根っからのサーファーで、一度写真を見たことがあるけど、真っ黒に日焼けしてて、ただでさえ白い歯が際立って光っていた。確か銀行に勤めていたけど早期退職し、今は九十九里でサーファーたちが集まるカフェレストランを経営している。生き方からして男前だ。
「蜜柑だっていい名前じゃん」と渚は言う。「そっちの方が羨ましいんだけど」
「やだよ」と私は返す。「って言うか苗字だし、蜜柑って」
これがたとえば、代々続くミカン農家です、とかだったらしっくりくるのだけれど、うちの親はサラリーマンと専業主婦で、単なる珍名さんなわけで、苗字が珍しいと下の名前は全く覚えてもらえず、さらに言えばわたしの下の名前は平凡なものだから、うっかりすると自分でも忘れそうになるし、きっと渚も覚えていないと思う。思えば憲吾君もわたしを下の名前で呼んだことがない。
「憲吾、憲吾って、あいつ顔だけじゃん」と渚。
「いや、胴体もあるから」とわたし。
「そういうことじゃないから」と渚。
確かに憲吾君は顔だけだ。かく言うわたしも憲吾君の顔が好きだった。綺麗な額、通った鼻、重たそうな睫毛、くっきり二重、赤くてふっくらした唇、それらの統合としての憲吾君。付き合い始めのころ、わたしはよくその顔に見とれてぼんやりして、憲吾君の話が全然耳に入ってこなかった。
「どうしたの?」と憲吾君。
「いや、別に」見とれてたとは言えない。
わたしにとって、憲吾君とは憲吾君の話やその思想信条などではなく、顔だった。憲吾君に思想信条なんてものがあるとして。いや、おそらく憲吾君にはそんなものは無かった。わたしにも無いからそれでよかったし、むしろその方が良かった。そんな話がしたいわけではないし、そんな話が聞きたいわけではない。そこに憲吾君の顔があればそれでいいのだから。
「いい加減忘れなよ」
「うるさいな」とわたしは返す。わたしは煙草は吸わないし、サワーしか飲めない。さばさばしてなくて粘着質だし、言いたいことをはっきり言えずに飲み込んでしまう。こんな自分にうんざりな割に、そんな自分が可愛くて仕方がなくて、めそめそしてる自分が愛おしい。
「どのくらい?」
「一年」
「まあまあ」と煙草を灰皿に押し付け消す。「で、どのくらい経った?」
「二ヶ月」
「じゅうぶん」

適度に酔っぱらって部屋に帰ったわたしは、とりあえず静寂があまりにも寂しいのでテレビをつけた。一人暮らしを始めてからの習慣。服を着替え、シャワー浴びなきゃなあ、とは思いつつ、面倒でそのままソファに転がり、そうすると目の前にくる金魚を見る。わたしの恋よりも長生きした金魚は大きくなって、金魚鉢が窮屈そうだ。
「ただいま」わたしは金魚に話しかけた。金魚くらいしか話し相手はいない。わたしの部屋の中で命あるものはわたしと金魚だけだ。誰でも育てられるといわれたサボテンは枯れて死んだ。
憲吾君とまだ付き合っていたころには、わたしはほぼ毎晩といっていいほど憲吾君に電話をしていた。重いと言えば重いだろうし、実際それを渚に話したらドン引きされたし、「そういうのが原因だったね」とは言われたけど。それでもわたしはわたしのその日あったことを憲吾君に話したかったし、憲吾君のその日あったことを聞きたかった。憲吾君のこと全部知りたいとか言うとドン引きパート2だろうけど。
もちろん、そんなことは不可能なことはわかっていた。憲吾君には憲吾君の生活があり、四六時中一緒にいるなんてことできるはずがない。そもそも憲吾君にはそれまでの憲吾君の人生があって、それは話を聞く限りさほど波乱万丈とも言えないものだったとしても、わたしの知りえない憲吾君がいる。むしろその方が多くて、それなら付き合っている期間の憲吾君についてはできる限り知りたい、共有したいと、わたしは思っていた。
「めんどくさいやつ」と渚。
「うるさいなああ」とわたし。
「飲みすぎだよ」渚は頬杖をつき溜息を吐く。そう言うわりにはニヤニヤしている。
「いや、全然酔ってないよ。全然酔ってない。酔ってるから言うわけじゃないけどさあ」
「いや、完全に酔ってるじゃん。泥酔じゃん」
「なんかさあ、片方だけになっちゃった手袋みたいな気分」
「はあ?」
「たまに道に落ちてたりするじゃん、手袋、そんな感じ」と、わたしはあらかた片付けのすんだテーブルに倒れこんだ。店員さんが濡れた布巾で拭いてくれたばかりだから、頬に触れるそれの表面は水気がまだ乾いていなくて気持ち悪い。
「別にあいつしかこの世の中にいないわけじゃないじゃん」渚は煙草に火をつけた。そして溜息のように煙を吐く。わかってる。もうこの話題にはうんざりだろう。そもそもこの話、渚に何回したっけ?
「わかってるよ。それはわかってる。そういうことじゃないんだよ」
「じゃあ、なに?」
わたしが悲しかったのは、わたしと憲吾君の思い出の担い手がわたしだけになってしまうことだ。この世の中でわたしと憲吾君しか知らないこと。それを知っているのはわたしと憲吾君だけだから、「そういやあんなこともあったね」と話せるのは憲吾君だけなのだ。わたしの中の孤独な思い出、片方だけの手袋、最後のドードー、最後のネアンデルタール人、一人しか使い手のいない言葉。それは放たれ、どこへ行くの?
どこへも行けない。

憲吾君と別れてから金魚に名前を付けた。金吾。未練たらたらの名前だ。我ながらぞっとする。それでも、それには名前が必要だった。名前を付けることで、それがそれまでの日々と切り離せるから。もちろん、ミシン目がついててピリッと簡単に切り離せるわけじゃない。憲吾君のいた毎日から、それこそかさぶたを剥がすみたいな覚悟を持たなきゃならなかった。それは憲吾君の知らない思い出の一つ目になるはずだ。
憲吾君の知らないわたしが増えていく。わたしの知らない憲吾君が増えていく。
わたしは目の前の金魚鉢に浮かぶ金吾に語り掛ける。わたしが金吾に話すのは、その日あった出来事ではない。日々はただ過ぎていく。憲吾君のいない日々。それはナンバリングでもしないと見分けのつかなくなるような、「日常」で、そこには憲吾君はいないわけだけど、それが「日常」になってしまっていて、うっかりナンバリングでもしてしまえば、それは憲吾君のいない日々を数えることになってしまうので、ただ過ぎ去るものを過ぎ去るものとして好きにさせているのが実情。もちろんそれは積み重なっていって、いつかわたしの頭の上へと崩れてくるのだろうけど、それはまだ遠い先の事だと信じたい。
わたしは金吾に話す。憲吾君との間にあったことを。まるで憲吾君と話すみたいに。「こんなことあったよね」みたいな感じで。
「ねえ、覚えてる?」とわたし。金吾は聞いているんだか聞いていないんだかわからない様子で、軽く尾びれを動かしている。
「まだ付き合う前さ、二人で夜の街を徘徊したことあったじゃん」
夏の終わり、空気に秋の気配が漂い始めていて、ちょうどいい感じだった。草むらからは虫の鳴き声がする。好きな男の子と夜の散歩をするのに最適の気候、なにかそれを一言で指す単語があればいいのにと思うくらい気持ちのいい夜。
わたしと憲吾君は歩いていて見つけたバス停でちょうど来たバスに乗った。お互い初めて乗るバスだ。どこに行くのかわからない。行き先なんかもあえて見なかった。
「どこ行くんだろう?」
「ドキドキするね」
一番後ろの席に座り、車窓に見える気になったものについて一言二言かわす。ほとんどは二人とも黙って、夜の帳の降りつつある街を眺めていた。子どもを自転車に載せるお母さん、電話するサラリーマン、笑いあう女子高生。それはわたしの知らない場所の、知らない人たちの日常。ふたりとも、ぼんやりそれを見ていた。それだけでも別に良かった。言葉を交わす必要すらなかった。ただ、憲吾君がそこにいるという事実だけで、私は幸福だった。バスが右左折するとき、体が揺れて憲吾君と触れ合う。それだけでも、わたしは幸せだった。大きな駅のバス停に着き、人がぞろぞろと降りていく。それぞれにそれぞれの家があり、それぞれの待っている人がいたりいなかったりするのだろうけど、その時のわたしにはすべての人は「その他大勢」で、主演わたしと憲吾君の世界にいた。もしもその降りて行った中の誰かひとりが急に刺殺されてもそんなことは本筋に関係ないので書かれない、って気分だった。ほとんどの乗客が降りて、バスはまた走り出す。繁華街を抜け、坂を下る。ちかちかと騒々しかった景色は次第に落ち着きを見せ始める。
車内に人影がまばらになり、気付くとわたしたちだけになった。その次停まったバス停で、わたしたちは降りた。空のバスが光だけを満載して走り去る。繁華街の放つ光が夜空を照らしているのを少し離れて見るそこは、暗く静かだった。
「どこ?ここ?」
「行こう」そう言って、憲吾君は歩き出した。
「道、知ってるの?」わたしはそのあとを追いながら尋ねる。
憲吾君は首を横に振る。「ううん」そして微笑む。わたしはうっかり好きだと叫びそうにすらなった。
「迷子になっちゃう」わたしは言った。
「いいじゃん、迷子」そして、憲吾君は手を差し出した。わたしたちは迷子になった。

「で、もんじゃ屋さんに入ったんだよ。お腹すいて、テキトーに。そしたらさ、なんかどこかの会社の宴会なのか大騒ぎしてて、しかも個室とかじゃないからそれがすごくうるさくて、わたしと憲吾君が何か話そうとしても全然聞こえなくて、ってあったよね」わたしたちは苦笑いしながら黙々ともんじゃ焼きを食べた。
金吾は何も答えない。なにしろ金吾はそこにいなかったからそのことを知らないし、そもそも金吾は金魚だからもしも知っていたとしても何も答えられない。
わたしはため息をつく。
「ちがうよ」という声。わたしはハッとし、金吾を見る。金吾がこっちをまっすぐ見つめている。口がパクパクしている。「違う。もんじゃ焼きじゃない。お好み焼きだよ」
「え?なんで?なに?」
すると、金吾が急に大きくなって、それは金魚鉢の曲面のレンズみたいな効果なのかと一瞬思った。だけど、金吾は実際に大きくなっていて、それは金魚鉢のガラスにその体が押し付けられるのでわかった。そうして金魚鉢いっぱいになったかと思うと金魚鉢の口から水が吹きあがった。私は思わず頭を守ってその場に伏せた。吹き上がった水が辺りにびちゃびちゃと音を立てて、もちろんわたしにも水は降りかかりずぶ濡れになり、ああこれ部屋掃除するのが大変だな、なんて妙に冷静な自分がいたんだけど、冷静だからこそ何が起こっているのだかわからなくて混乱して、何か爆発するようなものがあったかどうか考えた。そんなものが金魚鉢の中にあるわけがなく、恐る恐る顔を上げると、そこに人が立っていた。わたしは死ぬほど驚いて、悲鳴どころか声も出ず、逃げることなんて不可能で身動きすらできず、ただ茫然と見上げていることしかできなかった。こんな状況なので、その人の頭が魚であってもさほど驚かなかった。驚けなかった。その人の顔は魚だった。金魚だ。金吾だ。人間の体に、金吾の顔がついている。魚人間だ。体の方はTシャツに短パン、憲吾君がよく着ていたやつ。憲吾君っぽい体つきな気がする。
「憲吾君?」とおずおずと尋ね、もしかしたら魚の頭は被り物か何かなのかもしれないと思ってじっと見つめたけれど、それは作り物とは思えない本物感に溢れていた。吐き気を催しそうになるくらいに本物だった。
「違うよ」魚人間は言った「金吾」
「えっ?」とわたしが声を漏らし、次の言葉を吐き出そうとした瞬間、魚人間の口がガバッと開いた。それは魚人間の大きさからは考えられないくらいの大きさで、わたしを頭から一口で飲み込むくらいだった。抵抗する間もなく飲み込まれ、落ちていく。
真っ暗な水の中を落ちて行っていた。
「一口サイズって、誰の一口?」と小さな女の子の声がする。「ねえ、誰の?」わたしの声だ。小さなころ、初めて料理を母と一緒に作った時だ。まさか自分が誰かの一口サイズだなんて思いもしなかった。
それにしても、とわたしは思った。ずいぶんと長く沈むものだ。それこそピノキオが飲み込まれたクジラみたいに大きなものでないと、これほど長く落ちていけないはずだ、と思った瞬間にお尻に固い感触。
「イタタタタ」と口から出て、自分の手に何か握られていることに気付いた。傘だ。ビニール傘。いや、ビニール傘だったもの。それはすでに壊れていて傘としての用途を果たさない。次の瞬間、ものすごい風が吹いて来て、傘だったものはバタバタと暴れ、まるでそれは昇天を望んでいるのだけれどわたしがそれを阻んでいるかのよう。水滴が顔中を打つ。耳元で風が轟々鳴る。
「大丈夫?」と手が差し出される。それで、わたしは自分が尻もちをついて地面に座り込んでいることに気付く。「ありがとう」と言って手を掴む。そして、わたしはまた気付く。憲吾君の手だ。初めて手を繋いだとき、わたしはそれのあまりの華奢さに驚いた。その前に付き合っていた人は、高校時代に野球をやっていた人で、手が凄くゴツゴツしていた。ゴツゴツしていて、小さなころにつないだお父さんの手みたいだった。野球部のキャプテン、生徒会長、成績もよかったし、顔だって綺麗だった。真っ黒に日焼けしていたけれど。憲吾君はその正反対にいる存在だった。色白で、華奢で、趣味は映画鑑賞と読書、異常なほどの漫画の知識、女の子みたいな手。
その女の子みたいな手と初めて手を繋いだときの違和感が懐かしい。突然冷たい水に放り込まれたような感覚。段差で躓く感じ。そして、それに慣れていく感触。次第にそれに慣れていき、そこの居心地が良くなる。憲吾君がわたしの居場所になる。
「憲吾君」とわたしの口から洩れる。
「違うよ」と手の持ち主は答える。その顔に目を向けると、それは魚の顔をしていた。
「金吾」
「うん」と金吾は頷いた。そして手に力を込め、わたしを引き起こしてくれた。
「ありがとう」わたしは金吾に言う。
「うん」と金吾は言う。
立ち上がったわたしは周囲を見渡した。と言ってもすさまじい風と雨で視界は不良、遠くを見通すことはできず、どこにいるのかは定かではない。まるで台風だ。わたしたちは橋の上に立っている。車はまったく走っていない。不要不急の外出は避けるべき天気なのだから当然だ。前日の天気予報でそう言っていた。
「明日、台風来るみたいだけど」とわたしは電話の向こう側にいる憲吾君に言った。それは言外に予定を中止すべきなのではないかというメッセージだった。
「じゃあ、たぶん空いてるね」という憲吾君の答え。口調は楽し気で、本心からそう言っている。なんてトンチンカンなんだろうと思うけど、そこもなんだか好きだった。憲吾君のことが好きな時には。
それは何年かに一度、横浜で催される芸術祭だった。わたしは芸術になんてまったく興味がなかったから、そんなものが存在するということすら知らなかったのだけれど、そのだいぶ前から憲吾君はそれに行きたいと言っていて、二人の予定を合わせたその日に台風が来た。
まさかの雨天決行、とはいえ待ち合わせた新宿駅ではまだ雨も風もそれほどでもなかった。もしかしたら、これならいけるかも、というのは淡い期待、もちろんそれは嵐の前の静けさで、横浜駅に近づくにつれて雨脚は強まり、電車の車窓に雨粒が叩きつけられるようになってきた。わたしたちが電車を降りる頃には完全なる台風。
美術館の中は憲吾君の予想通りガラガラだった。それはそうだ、暴風雨のなか美術館に行こうというのはよほどのやつで、そのよほどのやつがわたしの隣に立つ憲吾君であり、事情を知らない人が見ればわたしもまたよほどのやつだったわけだ。でもまあ考えてみると、そこでわたしたちを目撃できるのは嵐の中美術館に足を運ぶよほどの奴なわけで、これはもうお互いさまとしか言いようがない。
「でさ」と金吾が言った。吹きつける雨の水滴が顔の上を滑っていく。「ミカン、カフェで急に生理になったよね」
「なんで?」とわたしは言った。風が耳元で轟々鳴っていたのに、それが鳴りやんだように感じるくらい驚いたし、恥ずかしかった。「なんでそれしってるの?」
魚人間金吾がニヤリと笑った気がしたけれど、魚に表情なんて無い。そして、口をパクパクしているのだけれど、そこから声が出ているのか、それともただパクパクしているだけなのか、風が強まり、雨粒が顔に打ち付ける状況の中判断するのは不可能だ。金吾は相変わらず口をパクパクし、ますます風も雨も強まり、かろうじて開いた目が見たのは「人間性回復のチャンス」と書かれた看板。耳元で風が鳴り、雨粒が弾ける。足が水につかっていることに気づく。水かさはどんどん増していく。金吾が遠くを見た。その方角から、風が吹いてきたと思ったら、水が押し寄せる。わたしも金吾も、それに飲み込まれた。おそらく洗濯機の中に放り込まれたらこうなるだろうというぐらいもみくちゃにされ、上も下もわからず、そもそも自分が生きているのか死んでいるのかすらもわからなくなりそうになった時、手の感触を思い出した。つないだ手。憲吾君の手だ。わたしはそれをしがみつくみたいに強く握る。もちろん、恐怖はある。それはそうだ。水に押しやられ。もみくちゃにされているのだから。でも、それ以上に、その感触を手放すのが怖い。居心地がいいのかと言えば、決してそんなことは無いのだけれど、それでもどうにかしがみつこうとしてしまう。空が見える。雲がものすごい速度で流されていく。なんとなく、死んじゃってもいいかな、と思った。
「ミカン!」
誰かがわたしを呼んでいる。とても近くで呼んでいるのだけれど、すごく遠くから呼びかけられているようにしか感じない。お母さんが朝起こさせようとしてる声みたいだ。
「ミカン!」
「渚?」
「ミカン!」
「渚!」
渚だ。「人間性回復のチャンス」の看板の上に、渚がいる。わたしはそこに渚がいることに驚いた。水かさは街を完全に水没させるほどで、看板の上まで手を伸ばせば届くほどだ。流されるわたしは看板にしがみついた。渚が身を乗り出し、わたしに向けて手を差し出す。
「ミカン!」
「渚!」わたしも手を伸ばす。「なんでここにいるの?」
「なんでって」渚はさらに身を乗り出し手を伸ばす。「あんたが呼んだからじゃん!」
指先が触れそうになり、そこで流れが強まってわたしは体勢を崩し一瞬流されそうになる。もう一度腕に力を込め、どうにか渚の方に手を伸ばそうとする。指先が触れ、それは電気が走るみたいに勇気をくれる。ぐっ、とその手を握る。渚の手。渚もわたしの手を強く握る。もしかしたら、渚と手を繋ぐのは初めてかもしれない。それは熱くて力強い。頼もしくて優しい。
渚がわたしを引き上げようとする。わたしの手を両手で握り、全身に力を込める。持ち上がらない。
「無理だ。二人引き上げるなんて無理!」渚が叫ぶ。「そいつの手を放して!」
そう言われて、わたしは渚に握られている方じゃない手が金吾とつながっていることに気付く。金吾の手、憲吾君の手。放せる?放せない。
「早く放して!」渚が叫ぶ。「手が滑る。落ちちゃうよ!」
「放せないよ!」わたしは叫ぶ。憲吾君の手「放せない!放せないよ!」

そこでわたしは目を覚ました。ソファに横になったまま、眠ってしまっていたのだ。頭が痛い。口の中が渇いている。胃の奥で吐き気が渦巻いている。目の前の金魚鉢には金吾。魚人間の金吾ではなく、金魚の金吾だ。
夢の中の出来事が、金吾に対する妙な親近感を生み出していた。それまで以上に、金吾が愛おしいような気がした。口をパクパクして、ひれを動かしている。わたしは金魚鉢の傍らに置いたえさをひとつまみ金魚鉢の中に落とした。金吾は水面のそれに吸い寄せられるみたいに近づいて来て、パクリとそれを食べた。指先でトントンと金魚鉢を軽く叩く。金吾は呼ばれたと思ったみたいにこちらを向く。わたしと金吾の目が合う。目が離せない。まるで金縛りにあったみたいに。金吾がこちらを見ている。その金吾の体が、徐々にではあるけど大きくなっている気がする。気のせいかと思って目をこすった。ぎゅっと強く瞬きをした。もう一度金吾を見る。それは少しずつ空気の入れられている風船のように大きくなっている。間違いない。大きくなっている。
金吾が大きくなっていくものだから、金魚鉢の中の水がその口からあふれてこぼれた。わたしは何が何だかわからず、その場であたふたするだけで、その間にも金吾は確実に大きくなっていっていて、もうすでに金魚鉢に収まりきらなくなり、身をよじり、そこから抜け出し金魚鉢からあふれた水でびしょびしょになった床に落ちた。そしてそこでビチビチと飛び跳ねる。わたしは慌ててそれを両手で抱えようとしたけれど、大きくなった金吾の力は強く、なかなか捕まえることができなかった。捕まえた、と思っても、すぐに逃げられてしまう。
どうにか胸に抱えるような形で捕まえたものの、そうして抱えてみると金吾が膨らんでいるのが分かった。どうしたらいいのかわからず、とりあえずお風呂場に行ってそこに金吾を入れ、蛇口をひねって水を出す。バスタブに水が溜まっていき、金吾は一息ついているように見えた。そして、その間にも大きくなっている。もしかしたら、と淡い期待を抱くわたし。どこかでこの大きくなるのが止まるかもしれない。だって、金魚の大きさなんて高が知れているし、よしんば金吾が金魚でなくて、鯉だとして、いや、他のもっと大きな魚だったとして、それでも大きくなるのには限りがあるだろうし、ましてクジラみたいにはならないだろう、という期待。しかしながら、それは楽観的観測の域を出ないもので、現実として金吾は大きくなり続けていて、というかこんな風に大きくなるなんて普通は考えられないことなわけで、そうなるとこの先普通のことが起きると期待する方がおかしく、すでに金吾はバスタブの中で方向転換するのも少し窮屈そうになっている。
わたしは思わず渚に電話した。
「大変」とわたし。
「誰か死んだ?」と渚。
「金吾が大きくなってる」
「で、金吾って誰?」
「憲吾君とすくった金魚」
「すくってないんでしょ?残念賞でしょ?」
「いや、そこはいいから」
「あんたそんな名前つけてんの?」
「それはいいから」
「で、金魚が何?」
「大きくなってる」
「うん、それは聞いたよ」
「じゃなくて、大きくなってるの、今も」
「そりゃ生きてりゃそうでしょ」
「じゃなくて、大きくなり続けてるの、今も、この瞬間も」
電話の向こうで物音がした。渚が立ち上がったみたいだ。
「あんた、金魚に思い出話を聞かせたでしょ?」
「え?」
「思い出話。どうせ憲吾との思い出とか」
と、問い詰められると、なんだか急に自分のしたことがとても恥ずかしいことのように思えてきて、別れた恋人との思い出を酔っぱらって金魚に語り掛ける図は、ちょっと恥ずかしいし、図星なところも恥ずかしい。
「うん、まあ」
「まったく」渚はそう言い、電話は切れた。気分としては、繋がっていた手が突然離されたような感じだった。パッ、ボシャン。わたしは水に沈み、二度と浮かび上がることは無いでしょう。おしまい。
おしまいになるならそれでもいいのだけれど、そんなことを言っている間にもバスタブの中で金吾は着実に大きくなっていて、おしまいどころかトゥービーコンティニュー。わたしにできることは立ち尽くすことだけでした。おしまい。にはならない。もうおしまいにして!バッドエンドでもいいから!
そこに玄関のドアノブが回される音。憲吾君?そんなわけがない。憲吾君が助けてくれるはずがない。もちろん、それはわたしたちが分かれてしまったからだけれど、たとえ付き合っていたとしても、たぶん助けてくれないだろう。憲吾君は頼りにならない男で、ある時なんて憲吾君の部屋に出たゴキブリをわたしが退治しに行ったほどだ。
ドアが開く。
「ミカン!」
「渚!」わたしは自分が涙を流していることに気づいて自分が安堵していることに気づいた。
「あんたバカ?まったく、魚に思い出話を語っちゃいけないなんて、子どもでも知ってるよ」
「そんなこと、誰も教えてくれなかった」
「教わらなくても知ってるよ」そして腰に手を当て、バスタブを見下ろした。「さて」金吾が心なしか怯えているように見えた。
「どうするの?」金吾に見て取った怯えはもしかしたらわたしの怯えだったのかもしれない。
「川に放す」
「え?」
「思い出をおなか一杯食べちゃった魚は、川に放すしかない。そうしないと、大きくなり続けるよ」
「いやだよ」とわたしの口は反射的に言った。「いや」わたしは渚の前に立ちふさがる。
「ミカン」渚が天を仰ぐ。天と言ってもすぐ目と鼻の先にあるのはオレンジ色の照明に照らされたお風呂場の天井だけど。「あんた、またバカなこと言うでしょ?」
「いいよ!バカでも!いやなものはいや。金吾はわたしと憲吾君の思い出だもん。捨てらんないよ。もしかしたら、憲吾君、金魚見て思い出すかもしれないじゃん。わたしとの楽しかった時間の事思い出すかもしれないじゃん。もしかしたら、わたしのとこに戻ってきてくれるかもしれないじゃん」
渚は一瞬固まり、大きく息をついた。もしかしたら、わたしは渚に呆れられ、嫌われたのかもしれないと思った。人と人の関係に絶対はない。どんなに仲のいい、親友だと思っていた人の心が離れてしまうことだってありうるのだ。だいたい、憲吾君とだって、ずっと恋人でいられると思ってた。別れなんて永遠に来ないと思ってた。
「ミカン」渚の声は深い水の底から響くみたいに暗く冷たかった。わたしは身震いした。
「なに?」
「憲吾は死んだんだ」渚は言った。
「は?なに言ってんの?渚。え?なに、それ?冗談でもやめなよ。全然面白くない」わたしはあとずさる。
「憲吾は死んだんだよ。ミカンと憲吾は別れたんじゃない。憲吾は死んだ。だから憲吾はいないんだ」そう言うと、渚は深く息を吐いた。金吾がバスタブに体をぶつけながら方向転換をしている。
「ミカン、ホントに覚えてないの?」
憲吾君は死んだ。
その夜、わたしが何度電話しても憲吾君は電話に出なかった。わたしは何十回目か分からない発信の後、ケータイを壁に投げつけ、寝ることにした。様々な想像が頭の中を駆け巡っていた。本当に頭に来ていたからなかなか寝付けなくて、何度も「あんな奴死ねばいい」とつぶやきながら眠りに落ちると、翌朝憲吾君が死んだという知らせを受けた。飲酒運転の車にはねられたらしい。その想像だけはしなかった想像。それが現実になった。そのあとの事は思い出せない。
「憲吾君、死んじゃったの?」わたしは言った。「わたしが死ねばいいと思ったから?」
「違うよ」渚は言った。「あんたが何を思おうが関係ない」
渚がわたしの様子を窺っているのが視界の隅に見えた。わたしは茫然としていた。
「もし、ミカンが思い出したくなくて忘れてるふりしてるんなら、それに付き合おうと思った」渚は小さな声でそう言った。「ホントに覚えてないなら、思い出させないようにそれに付き合おうと思った。それならそれでいいと思ったから。忘れられるなら、忘れていた方がいいこともあるんじゃないかって。ミカンが生きてると思い込んでるなら、それは生きてるのと同じなんじゃないかって」
金吾が聞き耳を立てている。私と憲吾君の思い出をおなか一杯食べた金吾。さっきよりもさらに大きくなっていた。わたしの両目から涙がこぼれる。信じられないくらいたくさんの涙が。とめどなく溢れて、そのまま世界を水浸しにすればいい。憲吾君のいない世界にどんな意味があるだろう。
「ミカン!」渚がわたしの両肩を掴み、そして揺さぶる。わたしの涙は簡単にバスルームをいっぱいにし、溢れ出していた。バスルームから溢れた涙が部屋を水浸しにし、ソファやテレビを押し流し、玄関から溢れ、廊下を流れていく。それは階段を滝のように流れ落ち、街を浸していく。窓から外を見れば、水没していく街が見られただろう。ずっと犬が吠えていたのだけど、その声も聞こえなくなった。きっと涙に沈んでしまったのだ。街には、子どもが生まれたばかりの家族が住んでいるかもしれない。年老いた親を介護している人がいるかもしれない。恋人に浮気をされた人がいるかもしれない。幸せな人、不幸な人、どちらでもない人、いろんな人がいるはずだ。それがみんなわたしの涙に沈んでいく。
気が付くと、わたしたちのいるバスルームも水かさが増えてきていて、それはバスタブの淵を越え、金吾がそこから出てきている。もうわたしよりも大きくて、バスルームから出るのにも体が引っ掛かり、尾びれをぶるんと力強く振る必要があったくらいで、そのひと振りで巻き起こった水流にわたしと渚はもみくちゃにされた。
「ミカン!」渚がわたしに向かって手を伸ばした。「泣くのをやめて!」
「止まんない、止まんないよ」
金吾があちこちぶつかりながら泳いでいた。きっと外に出るつもりなんだろう。
「待って!」わたしは叫んだ。「行かないで!おいてかないで!」
金吾は振り返りもしない。
すべてはわたしの涙に沈んでしまった。わたしはわたしの涙の大海原の真ん中に浮かんでいる。街は、いや、街どころではない。世界はわたしの涙に沈んでしまった。遠くに高層ビルが見えるけど、それもいつか沈んでしまうのかもしれない。朝日が昇る。わたしは自分の涙に浮かびながら、朝焼けで赤く染まる空の下、泳いでいく金魚を見送った。


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兼藤伊太郎

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