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バーチャル世界の半分が怒るVtuber論

 個人的メモとして。

 今までにない新しいプロダクトがリリースされたとき、それが一体何か決めるのは製作者ではありません。それを扱うお客さんです。呼び出ししかできなかったポケベルが、製作者の意図しないところで会話可能なコミュニケーションツールとして扱われたように、Vtuberも視聴者によってどんなコンテンツなのか、その関わり方でわかってくるはずでした。しかし、一部の運営やファンの意識は「キャラがYouTuberやったら面白そうじゃん」という初期のVtuber観からアップデートされないままにあり、急激に数を増やしたVtuberコンテンツは迷走しました。結局のところ「キャラIP」と「インフルエンサー」のライン引きが難しいのです。このよくわからない状態が「Vtuberとは」という議論を黎明期を最後に無風のままにしてきました。自分たちが出すコンテンツが何かわからない運営、わからない中で楽しみを見出すファン、これは互いにとって不幸なことです。

 今回のテキストは、そういった過去のVtuber観からの歴史をインフルエンサーの成立からたどり、現在のVtuberコンテンツの消費のされ方を明文化、改めてVtuberとは何なのかを考えようという試みです。ある意味ミッ〇ーマウスの中身を暴こうという内容でもあるので、閲覧にはご注意ください。

 便宜上、バーチャルの姿で情報発信するコンテンツ全体を「V」。その内、動画主体のVを「Vタレント」、生配信主体のVを「Vライバー」と呼ぶことにします。本稿は活動内容がはっきりしているVライバーを紐解き、それに当てはまらないものに分けることで逆説的にVを定義するというメソッドを使いました。

キーワード:「場の創造」「生きたキャラIP」「劇場型の物語」

消費者の意識と行動の変遷

 Vを語る上で、消費トレンドの変遷の話を避けることができないので概述します。

 これまで人の消費欲求は時代とともに移り変わってきました。よく言われるのが、「モノ消費」から「コト消費」へ。人々の関心が物的消費からレジャーランドへ行くといった非日常を体験することへと移り変わったというものです。CDの売り上げが低迷する中、年々音楽ライブの需要が高まっていることからそう呼ばれたとのこと。では「コト消費」の次は何なのか。2010年代から言われてきたのは「ヒト消費」。YouTuberやインスタグラマーといった求心力のあるインフルエンサー、「ヒト」の登場に皆さん身に覚えがあるはずです。

 2010年代、スマホの普及とSNSの流行により個人が情報を簡単に受発信できるようになりました。しかし、膨大な情報の取捨選択やSNS上での人間関係に疲れた(SNS疲れ)人々の関心は、自身にとって有益なコンテンツを提供してくれるオピニオンリーダーやインフルエンサーに集中したわけです。そこから派生して生まれたのがバーチャルYouTuber。一世風靡したバーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん「ねこます」(※)の登場は、「バ美肉」及び「ガワと魂」という概念を生みVを普遍のものにしました。

※ねこますさんは、バーチャル一般人。個人制作物及び研究発表の場としてYouTubeを選択しましたが自身の意に反してYouTuberとしてバズってしまったとのこと。タレントのようなお仕事は受け付けておりません。

「ヒト消費」のビジネスモデル

 インフルエンサーという言葉と一緒に投げ銭といった言葉も聞きなじみあるようになったのではないでしょうか。これはインフルエンサーたちの一つのビジネスモデルで、配信者にチップを渡せるシステムのことです。その本質は「交際費」と言えるでしょう。

 例えば、あなたの興味ある人が飲み会を主催したとします。あなたは予定をチェックして、会費を支払い、お店へ向かいますね。するとあなたと同じく主催者に興味を持つ人がたくさんいました。一人じゃなくて良かったとホッとするかもしれません。飲み会は主催者を中心にお話する和やかなもので、あなたも喧騒に交じって少し発言してみます。それに主催者が反応してくれたことが思い出になったりするかもしれません。今日は楽しかった、ありがとうと主催者にチップを渡している人もいたようです。満足したあなたは家路へ。飲み会のことを振り返りながら眠りにつきました。

 こうした求心力ある人が場を用意し、ファンがその場に参加するための時間にお金を使う営みが「ヒト消費」です。ライバーやVの配信、オンラインサロンなどで同じことが起きています。また特筆すべきはファンはコンテンツの質よりもコミュニケーションや場に参加した実感によって満足度を高めているという点です。昭和の伝説的番組「8時だョ!全員集合」もいってしまえばヒト消費です。毎週土曜の夜8時にザ・ドリフターズの生放送を見るために多くの人たちがテレビの前に待機しました。「昨日のドリフ見た?」といった会話は視聴者にとって場に参加することの意味を強め、「8時だョ!全員集合」を全国の多くの人が見ているという実感を無意識的に感じさせるコンテンツにしたのです。テレビは受動メディアですが、チャンネル権という言葉があったように、間違いなく当時の人々はいくつかある番組の中からドリフを選んでいたわけです。これは現代のYouTubeといった能動メディアと同じ構図になるのではと僕は考えています。

 繰り返しになりますが、こうした人をトリガーに場を提供し、消費者がそのための時間(とお金)を消費する構造をヒト消費と呼びます。YouTuberとライバーの違いは、提供する場にホストとの同期性があるか、そしてそれに紐づいた収益が何で発生しているかの違いでしかありません。つまりコンテンツで見ると、生配信か動画かの違いになるわけです。これはVについても同様です。では、Vにおいてこのインフルエンサーはどのようにして生まれているのか考えてみます。

V:時代が生んだキャッチ―なインフルエンサー

 VにおいてそれがVタレントなのかVライバーなのかは、上述したようにコンテンツ形態が動画なのか生配信なのか、また収益のされ方の違いでしかありません。しかし、それはコンテンツホルダーの振る舞いの違いであって、どちらもスタートは単一の「人」であり「キャラIP」です。まずは如何にインフルエンサーとして成立させるかを考えましょう。

 インフルエンサーは、世間に与える影響力が大きい行動を行う人物を指します。この影響力の指標はTwitterでのフォロワー数やYouTubeでのチャンネル登録者数といったSNSやプラットフォームを元にすることが多いです。ひとまず簡単に定義をアクティブなTwitterのフォロワー、YouTubeのチャンネル登録者をそれぞれ1000人以上獲得していることにしましょう。

 従来のインフルエンサーたちは「まずは見てもらうこと」を第一にあれやこれやと試行錯誤してきました。一方、Vの場合はキャッチ―な見た目によって見てもらう確率は現実の人間より格段に良いです。特に黎明期はVの数がそれほど多くなく、かつVがトレンディであったためインフルエンサーとしての条件を満たすことは容易な環境であったと言えるでしょう。

 従来のインフルエンサーと違うアプローチは、見た目だけでなく設定があったことでしょうか。どういった性格なのかといった、要素を抽出したプロフィールはキャラ消費的なアプローチができました。余談ですが、キャラさえ良ければ運用可能といった誤解はこういったところが起因しているのではないかと。キャラクターを練り、意図的に作り出されたインフルエンサー(のキャラIP)がVなのです。

Vライバー:不安定な入れ子構造が生むギャップ

 Vライバーは生配信主体のVです。コンテンツに同期性を持たせ、場の創造とファンとのコミュニケーションに特化させた活動を行います。前述したようにライバーファンにはコンテンツの質<コミュニケーションという図式があり、コミュニケーションの場に参加したという実感によってコンテンツが成立しています。怒られるかもしれませんが、僕はVライバーを変な先生が受け持つ選択授業に例えられると思っています。

 学校のクラスは40人ほどの生徒に割り振られますよね。当然、クラスメイトの中には苦手なタイプが一人や二人いるわけです。かといって、苦手な子がいるのでクラス替えてくださいとは言えません。クラスに馴染めない日が続いたある日、選択授業を選んでいると、自分は龍の末裔だという角の生えた美少女が暴言吐きながらゲームしたりバイトの話したりする謎の講義を見つけるわけです。アニメとかきめえという輩はそもそも受講しませんし、ゲームが下手だとか暴言にイライラするという人も途中で講義に来なくなります。こうして、そこは龍の末裔角っこ暴言美少女を受け入れたノリの合う仲間たちの「居場所」になっていくわけです。高度情報社会でSNS疲れした一部の若者がVライバーにハマる本質はそこだと思います。

 とはいえ、ファンはVライバーを龍の末裔だと本気で思っていないでしょうが、そういう個性だとは認めています。いわゆる「ガワと魂」のギャップがあったとしても、それ自体が個性として認められ、コンテンツとして成立するのがVライバーです。ファンはその個性を見守ることで、Vライバーのつくる独自の世界観を他のファンとともに場で共有することでコンテンツを共創しているという実感を得ているのです。

Vタレント:綿密な設定と生きたキャラIPの苦悩

 動画主体となるVタレントはコンテンツに同期性がなくなり、ファンと密なコミュニケーションがほぼ取れません。必然的にコンテンツの質>コミュニケーションといった様相になります。可能なコミュニケーションは投稿された動画にコメントをつけるか、Twitterでリプするぐらいでしょうか。週刊連載漫画にファンレターを送る感じです。ちょうどいいので例えを続けましょう。

 この週刊連載漫画「Vタレント」は原作者が世界観とキャラクターを設定、そしてまた例えですが「世界一のバーチャルアイドルになる」という大筋まで決めてしまっているとしましょう。執筆担当のキャストは編集者と一緒に綿密な打ち合わせの末、質の高いコンテンツを制作。世界一のバーチャルアイドルになるための軌跡をコンテンツ上でファンに示すわけです。

 Vタレントのスタートは間違いなくキャラ消費的なアプローチです。しかし動画という作り込み可能な媒体では、制作過程でキャラ設定をチェックするセクションが発生します。するとコンテンツを積み重ねるごとにキャラクターの背景にある物語が見えるようになります。そうなると運営はキャラ設定と紡いだ物語に破綻がないよう制作せざるを得ません。Vライバーの場合、この物語の部分をファンに考えてもらう「箱」という仕組みがあるのですが、これは後述することにしましょう。

 キャラ設定と物語。特に黎明期の「アイドル系」「ゲーマー系」といった肩書を持ったVtuberたちはその言葉に纏わる「あるべき姿」を目指さなければならない宿命を背負っていました。「Vライバーと同じようにゲーム配信をすることはバーチャルアイドルとしてのコンテンツ軸とブレないか」といったブランディングに関する命題です。その上、Vタレントはテーマに沿った実績が求められるようになります。生きたキャラIPゆえにファンにとってのカタルシスの落としどころが現実への影響力になってしまったのです。詳しくは拙著をご覧ください。

V:キャラ消費から物語消費へ 劇場化するV

 Vはコンテンツを重ねるごとにキャラクターの背景にある物語が見えてくるようになることを述べました。生きたキャラIPであるVは、映画のように始まりから終わりまでパッケージされたものではありません。(パッケージにした時点で生きたキャラIPではなく、従来のエンタメ産業になってしまいます。)動画、あるいは配信で展開を紡ぎ、現実に干渉する劇場型コンテンツだからこそ生きたキャラIPだと言えます。

 さて、このVの物語について「キャラクターの背景に見える物語」と「実際に展開する物語」で分けてみましょう。便宜上、それぞれ「背景」と「展開」と呼びます。

 Vタレントにおいて、「背景」は「展開」に反映しておきたい情報です。最も有名なVタレント「キズナアイ」の場合、「世界のみんなとつながりたい」という物語が「背景」、そしてそれを受けたキズナアイが取った「展開」はキズナアイ自身が増えるいわゆる「分人」でした。いろいろと物議を醸したこのチャレンジングな「展開」でしたが、ほかにもやりようはあったとはいえ、僕は間違ってはいなかったと思います。気持ちはわかりますが、反発するファンの意見の多くはメタ的な部分だったからです。

 話を戻しましょう。一方で多くのVライバーは必ずしも「背景」と「展開」を一致させていません。Vライバーの「展開」は主にゲームとトークです。いわゆる日常系アニメのようなもので、話数は進んでもそこに設定とのギャップが発生するだけで新たな進展はありません。「なんで龍の末裔がゲームしたりバイトの話してるんだよ。まあかわいいからいいか」といった感じです。「ガワと魂」のギャップ自体がコンテンツ化しているVライバーは、「あるべき振る舞い」を無視することである種、独自性を保っています。では宙ぶらりんになった「背景」はどうするのか。ここで前述した「箱」が機能してきます。

Vライバー:箱と解釈ゲーム 物語消費の外部化

 時を遡りましょう。2010年代、スマートフォンやPCの普及に伴って急速に発展したコンテンツ産業がありました。ソーシャルゲームとブラウザゲームです。グラブルや艦これは今でも揺るがない一大コンテンツであり、リリースから2年内に300万ものユーザーを獲得しました。売り上げの数字を見ても、ファンが自発的に開催する同人オンリーイベントの数を見ても、今もなおファンの心が離れていないことがうかがい知れます。こういった時世に合った強大なコンテンツには共通点があります。それはコンテンツ内の登場人物が多いこと。あえてここで要素を抽出して言うと、関係性の網幅が広いということです。

 コンテンツの登場人物が多いことで何のメリットが得られるか。それは見出しにも記した「解釈ゲーム」にあります。ゲームをプレイするという「モノコト消費」(※モノから得られる体験の消費)する人々の関心の一部を、同人界隈の二次創作的消費に置き換えたのです。そしてその文化は、Vライバーの「背景」の受け皿となっていきます。

二次創作的消費とは

 同人界隈で起こる二次創作的消費を東園子(2010年)は『妄想の共同体―「やおい」コミュニティにおける恋愛コードの機能』の中で、「テクストの細部や矛盾をもとに『友人』や『ライバル』といった関係性を『恋人』へと置き換えて物語化・消費する解釈ゲーム」と語っています。いわゆる二次創作BLについての言及ですが、概して世にある二次創作コンテンツの本質を語っていると僕は考えます。いわゆる「解釈違い」という言葉は個々人でのキャラクター同士の関係性の解釈ゲームに意見の食い違いがあることを指します。現コンテンツ産業はこうした解釈ゲームの場がSNS上になることで、醸成、拡大していった流れがあります。

 2018年2月、いちからが月ノ美兎など8名のVをリリースしました。翌月には新たに10名。ネット上で生放送をするインフルエンサーがライバーと呼ばれたこともあり、彼女たちも配信スタイルからVライバーと呼ばれるようになります。Vの箱の成立。しかし解釈ゲーム文化が醸成したネットの住民たちはこのVライバーたちをしばらく静観します。ナマモノでの二次創作はタブーという観念があったからです。

 二次創作において忌避されるタブーにナマモノがあります。実在する人物で二次創作することはやめておこうというものです。生きたキャラIPというVでの二次創作について、予てからファン同士で論争が巻き起こっていました。V自身にゾーイングをしっかりしようと言わしめるまで加熱した論争でしたが、やがてそれも一人のVライバーのバズりによって終わりを迎えます。そのVライバーが月ノ美兎でした。

 清楚な学級委員長という設定と出で立ちながら、配信内容は「洗濯機の上にPCを置いて配信している」といったメタトークやサブカル知識を披露するというもの。このキャラ設定に対して配信内容にギャップがありすぎる構造は、ファンに「ガワと魂」という概念の扱いを決定づけ、設定(ガワ)に関する二次創作にキャスト本人の性格(魂)のエッセンスが一部加わるという二次創作論争の落としどころをつくりました。というより、思わず描きたくなる強烈なキャラクターだったという面もあります。この辺りからにじさんじのファンアートは激烈に増加します。また運営がこの解釈ゲームを効率化させるため、コラボを箱内に限定する方針が取られていたようです。かくして、宙ぶらりんになった「背景」と箱による解釈ゲーム促進によって、ファンにプロモーションの一部を担ってもらうシステムが完成しました。

 また「ガワと魂」の概念はVライバーのキャラIPとインフルエンサービジネスの運用をよりシンプルに考えられるようにしました。YouTubeといった配信では最低限のレギュレーションを守りながら「魂」として振る舞う。これは「ヒト消費」です。返って、Twitterなど二次創作の盛んなSNSでは「ガワ」としての側面を強く発信する。これは「コト消費」です。発信するコンテンツ軸をシンプルに分けられたことで、戦略的に運営することを可能にしたのです。

まとめ

 Vはヒト消費という面でカテゴリは同じですが、その展開の仕方と消費のされ方でVタレントとVライバーに枝分かれしていることがお分かりいただけたと思います。Vコンテンツは実際混迷しています。かなりの労力が必要ですが、市場に合わせた運用の仕方でいくらでも発展できる、「これからのコンテンツ」であることに違いはありません。まずは前提を理解し、「あるべき振る舞い」とうまく付き合いながら運用していく必要があるかと思います。つかれたので今日は終わりです。

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