ボルダリング議論の前提について

なんかここ最近のボルダリング界隈、特にややこしくありません?

昨今のクライマーに対して苦言を呈している人がSNSにて散見できるのですが、その反論を見てもそもそもの前提が違うように思えるんですよ。

ボルダリングって元々はロープを使用したフリークライミングの練習的な位置付けだったわけで、今の環境をその延長線上だと捉えている人と、そうではない人とでは議論の前提が違いませんか?

前者のゴールはあくまで外での成果だから、ジムでのボルダリングはトレーニングであり通過点。一方で競技としてボルダリングをしている人にとっては目の前の課題に登ることがゴールだから、課題との向き合い方が違うんですよ。両者がそれを意識しないまま議論するとすれ違いが発生するんじゃないかなって。

そもそもボルダリングって言う言葉が広義すぎるから、しっかりと区別できればいいんですけどね。

個人的に前者はインドアクライミングって言うとしっくり来るかなって。インドアを強調することであくまで本番は外なんだぞって気勢を感じるじゃないですか。ストイックな雰囲気もあるし。

一方で後者をスポーツクライミングに全部まとめるのは違和感があるんですよね。

あくまで競技としてのボルダリングがあって、その中にスポーツクライミングがあるイメージなんですよ。ヨガとかも元々は修行だし哲学的な意味があったりするけど、一般的には健康法としてのヨガが広まっているじゃないですか。そんな感じで。

もう誤解を恐れずに言ってしまうと、ボルダリングを大衆化するためにインドアクライミングに近しいストイックな要素を排してエンターテイメント性に特化したものがスポーツクライミングなのかなって思ってるんです。

そう分けると、ジムにはインドアクライミング層、スポーツクライミング層、その中間であるボルダリング層がいて、目標も思想も性質も異なるので、議論が発生してもその前提からして違うと言うことがあり得ますよね。

こんな感じで。


昔々あるところにインドアクライミング層、ボルダリング層、スポーツクライミング層がおりました。三人はセッションをしていましたが、ボルダリング層が核心部分の一手を飛ばしたことを皮切りに議論が始まります。

インドアクライミング層は言いました。「ジムの課題はセッターが明確に核心を設定しているのだから、その通りに登らなければ意味がない。例え登れなくとも逃げずに堂々と向き合うべきだ」

ボルダリング層は反論します。「これは逃げではなく知恵であり工夫だ。どんな過程を踏もうとそれは自身の体格や特性を踏まえて登っているに過ぎない。あくまで完登を目指すべきだ」

そんな二人を尻目にスポーツクライミング層は核心部分をダブルダイノですっ飛ばし、その動画をSNSにアップして万バズを達成しましたとさ。おしまい。


ここから得られる教訓は、大体の議論はインドアクライミング層とボルダリング層で交わされているが、そもそもの前提が違うのでいつまでも議論は終着しないし、スポーツクライミング層は「楽しければいいじゃん」的な思考を持って登っていると言うこと。

で、現在のボリュームゾーンが恐らくこのスポーツクライミング層なので、それに合わせてジム側のグレード設定が激甘になったり、画面映えする派手な課題が多くなり、人が増えることでマナーを軽視するクライマーの比率も高くなるなどの環境変化が起こっている。

それに対して、あるべき姿へと変化しているだけだと日和見的な見方をしているクライマーもいれば、危機感を感じて提言したり、苦言を呈したり、ただ怒り狂っているだけのクライマーもいる。

そしてその憤怒や焦燥を集めて長時間コトコト煮込み、重みと知性を抜いてクズをトッピングしたものが今あなたが読んでいるnoteです。どうもこんにちわ。

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