バウンダリーの話;異常な親切
のっけから専門用語で申し訳ないのですが、
バウンダリー(自他境界)という概念をご存知でしょうか。
そのままです。自分と他人の間の境界線。
この漫画を読むとよく分かると思うので、ちょっと載せておきますね。
(読まなくても分かるように話は進めます)
幼少期に自分のテリトリーに無理矢理踏み入られたことのある人が欠如しがちです、バウンダリー。
そいで、自分と他人の境界が不明瞭であるがゆえに、他人の痛みも自分のもののように感じてしまうことがあります。
これをHSPと呼ぶか性格と呼ぶか、人それぞれですけれど、
他人の痛みに共感しやすいってことは異常な親切に繋がります。
そういう人って新興宗教の恰好のカモ……っていう話はまたの機会に置くとして、
(親切にする道理というか倫理の道が綺麗に示されるからですね)
親切は一時的で軽度のものならいいんですけど(妊婦さんに席を譲るとか)
持続的なものだと話が変わってきます。
持続的な親切(支援)を必要とする人は大体精神をしっかり患ってるとか、専門的な治療が必要なレベルの人が多いからです。
一時的だとしても、重度な親切もよくありません。
急に発症した/病院から脱走した統合失調者に取り合ってひとりで面倒を見ようとするとか、暴れている発達障害者をひとりで宥めようとするとか。私は後者をやっちゃったわけですけども。
バウンダリーがしっかりしてない人はこういう異常な親切で心身を削るリスクがあります。というより私自身の話で言うと、かなり削られます。
普段生きてるだけで老婆心の塊。この親切が「異常だ」と自身が気付いていないうちは、本当に新興宗教の恰好のカモです。笑い話じゃなくて。
他人に親切にすること自体はいいかもしれないけれど、その負債をあとから負うのはあなただけじゃないかもしれない。あとからあなたをケアすることになるあなたの大事な誰かたちかもしれない。
バウンダリーを不明瞭にする行為の中でも分かりづらく、かつ覿面に悪影響があるのは「愚痴を聞く」ということです。
「愚痴っていい?」と言わない他人の愚痴は聞いてはいけませんし、だめなときは「そんな余裕がない」と言うべきです。
最悪の敵は身近なノンバウンダリーです。哀れだと思ってはいけない。
ノンバウンダリー同志殺し合うならまだいいですよ。ただ、一方的に侵略され続けるっていうのは最悪です。母子の関係は残念ながらこういう関係に陥りがちですが。
なお、私は愚痴を聞いたり道端の誰かを助けたりっていうのはやってしまうタチなんですが、物理的な境界線はかなり明確にあります。
母がはしゃいでホテルの私側のベッドに飛び乗ったとき、「今すぐ降りてくれ」と言ってしまったし、
一つ前の住居に父母が尋ねてきたときは「家が汚れた」と思ったし、その後父が座ったお気に入りの椅子はもう若干憎悪の対象です。
消毒しました。
本当は今の家に母を入れるのもかなり嫌だった。ただ自分の仕出かしたことの後始末だから何も言わずにいたけれど、実家にいたときどおり私の家の何もかもの場所を母が移動させたとき、「何やってんだ?」と言わずにはいられなかった。つい殺すような目で睨んでしまった。
また来るときもよろしくね、と言われたけれど「申し訳ないが、私のプライベートゾーンの中では仲良くはできないと思う」と返す他なかった。
ちょっと浸りすぎましたね。
物理的なバウンダリーがはっきり…少なくとも両親に対して…しているということは私にとって救いです。
怒りという二次的な感情を知ったのが17歳の時で、ノンバウンダリーな状態でいると一次的な感情が二次的なそれに移行しづらいんじゃないかと思います。実際私が怒りに移行するにあたってはかなり恩師の手を借りました。
もう忘れなさい、と私に一番言うのが母なのですが、この言葉がすでに侵略的です。
その点父はバウンダリーはしっかりしていて、激情に任せて侵犯してくることもまああったけれど、今はまずないし、喧嘩の仲裁に入ったりしようとすると怒ります。父がどうやってこれを育んだのかぜひ教えて欲しいところです。といっても、私と父の接点などほぼないのですが。
男の人はその辺何某かの通過儀礼があるのかもしれません。
よいことも悪いことも覚えがちな私は、多分侵犯された/したこと、親切にした/されたことをバウンダリーという観点から覚えているのだと思います。つまり、共感です。
私にとって思い出は共感です。
私が今後他人との境界線を得て生きやすくなっていくためには「忘れること」ではなく「自他の感情・意志を重んじること」が必要なのだと思います。
最近「さみしさ」が手元に戻ってきました。
いい兆候です。
カッと母を脅したくなる。父と縁を切りたくなる。この世から逃げ出したくなる。そういう時「忘れる」なんてカードはどこにもなくて、切るべきカードはただ気遣いという尊敬なのでしょう。
自傷行為も応急手当てとしての自身への気遣いだと私は思っています。
どこまでも何か辛いのは、バウンダリーのなさ故に自分自身が漏れ出ているからかもしれない。
どこまでいっても喜べないのは、他人に瓶の底をあずけているからかもしれない。その場合はそれが誰かを突き止めて、自分で底をあてるべきです。たとえ好意の誰かがあなたを守っている時でさえもそれを許すべきではないかもしれない。
場合によっては侵犯の痛みをアルコールや糖分で紛らわせようとするかもしれない。でもたとえその道を歩んでも途中で止まれるなら、まだ間に合うと思います。他人の手を払いのけて自分を守りましょう。
自殺、応報、いろんなことにこのバウンダリーの概念を適用するとまだまだ語れることは多そうですが、ちょっと今宵は書きすぎて、なんだろねえ、自家中毒じみてきたというかゲシュタルト崩壊してきたというか。
まあ、そんなものです。私は最近無料で受けられるカウンセリングへのチケットを手に入れました。心理療法に役立てたいと思います。
それでは、これにて閉幕閉幕。
余計なこと考えずによい時を。おやすみなさい。
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