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第一夜・18年前、いのちの選択。

2001年9月11日。


18年前の9月は大阪に居た。


まだSAIもないし、東京で演劇もしていない19歳の頃の話だ。


テレビに映された貿易センタービルの崩壊、突っ込んで行く飛行機、
どれも作り物のように見えて全く実感がもてなかった事を今でも覚えている。
圧倒的な現実なのに、
海を越えた別の国の出来事がハリウッド映画のワンシーンの様に見えた。


国内外の沢山のミュージシャンが、この出来事から作品を作って世に訴えかけていた。
僕は単純に「こんなおそろしい事が起きないような世界にしないと」って、その時はU2やGLAYのアルバムを聴きながら思った。


当時の自分の現実を振り返ってみる。

高校を卒業し俳優の養成所に通い出して半年が経った頃だった。
基礎訓練とマインドばかりの半年で、ようやく台詞や演技をはじめられる頃だった。授業は週末だけだったので、上京する為の準備をし、アルバイトに明け暮れ資金を稼いでいた頃だった。

目の前の事に必死だった。ついていくためにとにかくがむしゃらで、それが楽しかった。


舞台もやりたかったので、高校の演劇部の仲間とCuu-とで劇団をつくって活動していた。


公演は一度だけ行ったが、私はあまり関わらなかった。関われなくなったという方が正しいかもしれない。


その当時の自分は“俳優業を選ぶということは親の死に目にも会えないぞ”、という覚悟で精神論に走り、自分の考えや価値についてを一変させていた。高校生の時の自分の感覚とは随分違ってしまったことが、当時のメンバーのストレスとなったようで、そこから互いに距離が開いた。


思いやる暇があれば前に進め引っ張っていけ、自分の弱さと闘え、という武闘派精神だ。
人は何かを選んで生きているわけで、関心を抱き、心寄せらる人の数も限られるものだから、その当時は自分の事で一杯だったのだと思う。
SNSもなく(mixiはあったが・・・やってなかった・・・)その人の心に触れられるような機会も限られていた。今思えばそれが青いということだのだが。


そんな18年前の一幕。


自分の現実と、テレビの向こうの世界が同じ世界であるという実感は、芸術が教えてくれていた、そんな時代だったように思う。


インターネットもそこまで多くの人がやっているわけではなく、スマホもない時代。


漠然といろんなものが変わっていっていると感じる時代の中で、その蠢きの正体が何かは分からなかった。
アナログ最高であると言い、PCも持たず、手書き台本で、利便性とかけ離れた生き方をしていた。
18年前の時代の空気と、この令和元年は似たような空気をしている気がする。


アナログとデジタルという二元世界から、
より物質と概念の二元世界に移行しているように感じる。
デジタルである事は大前提であり、
そのデジタルのレベルやスケールがこの18年で広がった。


今問われているのは、進んだテクノロジーをどう使うのかといった心の話であり、それは概念だ。
早足のツケが、人の心の闇を明るみに晒してしまっているのが今の時代だ。


15年前の2004年9月25日に、弊劇団・舞台芸術創造機関SAIは生まれた。
結成1年前の自分は、劇団を立ち上げるなんて事、微塵も考えていなかった。
当然ながら長く続き9/23(月祝)から企画展示をやることになるなんて18年前にも15年前にも想像していなかった。
2014年にSAI展を一度開催しているから、この5年はまたやるかもしれないなとは思っていたけど。


15年というと、600年程前の日本なら元服であり大人扱いである。
現代なら中学3年生か高校1年生であり、義務教育から自主選択教育の分かれ目である(人によっては中卒就職という選択肢だってあるだろう。)
教育についてもいつまで今の流れが通じるか分からない。
10年先は分からない。

SAIがもしも私の子供だとしたら、
今、ひとつの選択肢を与えられているのだと思い、
今回SAIに未来を選ばせるために展示を行う事にした。
自分の過去を客観的に見せてあげようという試みだ。
回顧展という形の、これまでの人生を一覧にして巨大なカタログ空間を作る。

これは私の親バカであり偏愛であり、空間は私的な愛情で包まれる。


私は親という生き物がとてつもなく憎い。


20歳・・・いや21歳の、
16年前に実父と再会し、私は自分の人生を再生出来るかと思った。
実母とは30歳の時に再会した。
だが今はどちらとも疎遠になっている。
疎遠というよりも、関係を絶っている、の方が正しい。


「ゆるす」感情よりも
「にくい」感情の方が

私は勝ってしまった。


以上の事から、
私は実父実母に対して
愛情を持つ事は出来なかった。

感謝はしても、それで私たちの関係が変わるかと言えばそうではなかったから、余計にである。


私は親という存在は子供にとっての巨大な敵であり障害であり、ある地点からは最大の理解者で友人になれるのではと思っている(育ての母と私の関係は実際そうだ。)


この展示では、

私がSAIの親であり
SAIが私の子供であり、
その子供の15歳の記念に
悪趣味な毒親としての私を提示する事にした。
もしかしたらSAIはもっとずっと早くに、
生きる事を辞めたかったかもしれない。
2005年の旗揚げの時かもしれないし
2008年の「C」上演後かもしれないし
2011年だったかもしれないし
2014年の「PARADE~終焉の詩」の後かもしれないし
幾つものクライシスモーメントがあったように思う。


だが私の偏愛がそれを許さずここまで生きてきた。
私は子の自殺を許さなかったから、
ここまで続いてきた。


だがそれは正しかったのだろうか。


人の命の選択は、誰に決められるのだろうか。
本人か、親か、家族か、国か、法律か、それとも神や運命といったものなのか・・・。

目の前に死を望むものが居て、人は人のエゴだけで生かしていいものなのか。

本来は正しい事だろう。
だけど、
だけど、と考えてしまうのだ。
私がこの子の自由を奪ってはいないのだろうか、と。


以上は私の主観であり、受け手である皆様にとってはもっと別の、何かを感じ取られるかもしれない。


前半は回顧展として

後半は生前葬として

前半は親の偏愛を

後半は子の願望を

あの世界で一番小さい劇場につくりだします。


この展示の全貌は、メンバーにも多くの真実を知らせていません。
大事だからこそ、全てを知らせられないのです。

続く。

展示の詳細は下記より。
https://stageguide.kuragaki-sai.com/guide/deathrebirth/

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