真にタブー視すべきは言葉ではない

怒鳴ったり汚言を発する行為は精神的未熟の表れであり、子育てにも不要。しかし、怒りを表明すること自体は表現の自由である。

「お前なんか生まなきゃ良かった」等も「タブー視すべき差別的言動・児童虐待」とされるが、言論の自由。重要なのは「言わないこと」よりも「言った後の態度・行動」だ。
「余計な事を言った、御免」等と謝る方が、言いっ放しにするよりも遥かに当事者が学べることが多い。実際、謝らない大人に育てられた子供は、謝り方を知らない。

親が「怒鳴る体験」を封じれば、子供は「怒鳴られる体験」と同時に、その際の応対の仕方を学ぶ機会も失う。必要以上に過保護に育てられた子供は、適応力が低い大人になりやすい。
可愛い子には旅をさせよ。ぬるま湯の環境が、その後の幸福を保証するとは限らない。

そもそも言葉狩り・表現狩りは問題解決にならない。「自制は善」「我慢は美徳」と自身を言論封鎖する人は、「自分は我慢しているのに」と却って他罰的になりやすくなる。その最たる例が、「差別主義者を差別する反差別主義者」だ。
引用記事の母親も、封じたストレスがいつか爆発しなければ良いのだが🙄

真にタブー視すべきは、こうした「自分に課した表現の自由の制約を相手にも強いる偽善」や「表現の自由を自分にだけ与える独善」だ。どちらも相手の言論を封鎖しようとする点で共通するが、特に親が後者の独善に無自覚だと、子供は大人に対する不信を強め非行に走りやすくなる。

以下、弊サイトより抜粋。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。

どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

差別ヘイト蔑視は共感力適応力問題解決力の低いコミュ障の内集団バイアス。目的は劣等感情緒不安の払拭。原因は低水準教育。
差別用語の規制は「その用語で差別可能」を却って固定化強化。言葉狩り表現狩り臭い物に蓋は問題を長期化させるだけ。

差別を批判する人ほど差別している5 note.com/kanjoj/n/n1a0fcd14f9b8

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