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【試し読み】『小さな町』(「二 至上命令」より)

 


『小さな町』(「二 至上命令」より)

二 至上命令

 病床にいる母から聞いた話の中でとりわけ驚いたのは、母に妹、つまり私にとっては叔母がいたという事実だった。入院する前にも―私が高校生になった頃だと思う―母が自分の過去について語ったことがあった。母には明らかに魂胆があった。「この空の下に、家族は私たち二人しかいないのよ」。母はそうやって私たち家族―つまり私と母―から父の存在を消してしまいたいと思っていたのだ。
 母は西海にある小さな島で生まれた。母が島で生まれたことは知っていたけれど、その島の正確な名称を知ったのは母が亡くなる少し前だった。見覚えのある名前だと思ったら、夫のスクラップブックで見たことがあったのだ。たしかスパイ捏造事件に関する記事だった。好奇心がもくもくと沸きあがった私は、その事件と母を―ほんのわずかなことでもいいから―結びつけてみようとしたが、実際にはありえないことだった。記事の内容はこうだ。一九七〇年代の初め、あるイカ釣り漁船が誤って北方限界線を越えた。そのため、船に乗っていた男性数人は北朝鮮に圧送された。数か月して彼らは無事に戻ってきたが、その後も国家安全企画部に連行された。彼らの苦しみはそれで終わらなかった。十年が過ぎた頃、再びスパイ容疑で拷問を受け、冤罪で刑務所に入れられたのだ。苦難を強いられた彼らは、母の父の息子に当たる世代だった。母には―のちに妹がいると明かしたが―兄弟はいなかった。私はふと思った。母は島で暮らしていたとき、スパイ容疑をかけられた彼らのことを知っていただろうかと。彼らに会ったことがあるのだろうかと。夫にこの話をすると、彼はこう言った。
「べつに特定の人にだけ起こったことじゃない。誰の身にも起こりうるんだ」
 私の祖父は漁師だった。「それに頭が古かったのよ」。病院のベッドの上に座ったまま母はこう言ってから、笑って自分の言ったことを訂正した。「そうじゃないわね。あの頃はごく自然なことだったのよ」。島の人たちはほとんど、生涯そこで暮らした。母は朝鮮戦争のあと数年も経たないうちに生まれた。私の祖父の至上命令は、家族を飢え死にさせないことだった。母の母―つまり私の祖母は、母が八歳のときに亡くなった。祖父はその後、再婚しなかったが、母の話によると「それなりに自分の課題を遂行」した人だという。それは、当時十代だった母への至上命令とは違った。「大人になる前に島を出ていこうと思った。それが私にとっての至上命令だったの」。それから母はこんなことも言った。「あんたのおじいちゃんはね、私を島から出そうとしなかった。私が文字を覚えて本を読んだり、自己主張なんかしたら、まるで世も末だとばかりに舌打ちしたものよ」。母は島を出て勉強したいという意志を見せたが、祖父にとってはとんでもないことだった。娘に、もってのほかだ、けしからんと言いつのった。だから母は戦略を変えた。自分の気持ちを口外したり、ほのめかしたりするのをやめた。そもそも自分が間違っていたかのような態度を保った。「五年間、死んだつもりで生きたわよ」。母は周りを安心させてから、小遣い稼ぎになることなら何でもやった。そして十八歳の夏、それまで貯めた金と、父親が炊事場に隠していた現金を盗んで、こっそり島を出た。母はその夜、大気中を漂っていた熱い空気と、船を揺らした波を覚えていると言った。「汗びっしょりだったけど、怖くはなかった」。新しい人生が始まることへの期待しかなかったと、母は言った。「島を出てからは、一度も家族に会ってないの。だからこの世に家族は私たち二人しかいないのよ」。私が結婚する前は、母の話はここで終わっていた。でも結婚したあとは、もう一つ文章が追加された。「よかった。あんたにも家族ができて」
 私が生まれたのは、母が内地に定着して十一年が過ぎた頃だった。母は父と結婚するまで木浦にある中学校で事務職員をしていたという。内地に来てからはまず洋裁店で働き、そのうち大検に受かったので奨学金をもらって放送大学に通ったことを、母は長々と説明するのが好きだった。「運がよかったわ」。こう言うのも忘れなかった。しかし、身寄りのない十八歳の女の子が耐え抜いた苦しみや挫折、寒さやひもじさなどについては、頑なに口を閉ざしていた。母はわざと明るく振る舞っていたのではないかと思う人もいるかもしれない。でもまさにそれこそが核心なのだ。母は自分の目で人生を振り返っていたのだ。どのような観点に立つかは母自身が決めることだった。
 父はソウル出身だが、母に出会ったときは木浦で小さな貿易会社に勤めていた。結婚後の新居は父が一人で暮らしていた部屋に構えたという。どういう経緯なのかは知らないが、私が生まれたのは木浦ではなかった。京畿道の広州だ。私は十歳のときにその町を離れたのだが、その後、母とよくこんな会話をした。
「で、あんたの田舎はどこだっけ?」
「広州」
「どこの広州?」
「京畿道の広州」
 あんまり度々訊かれたので、そのうち歌を歌うように特有のリズムをつけるようになった。私はこの話を母が亡くなってから数か月後に―父がしつこく連絡をしてこなくなった直後だったと思う―会いに行った友人にした。友人の暮らしているところが偶然にも京畿道の広州に近かったからだ。
「歌を歌うみたいに?」
 彼女が訊いた。
「歌ってほどじゃないけど」
 彼女は妊娠中だった。だから母の葬儀には来られなかった。しかも何度も流産していたので、妊娠初期には格別に用心していた。その頃、家の外に出るなんて考えられなかったと言った。私たちは大学のときに知り合った。私は社交的でも胸の内を見せる方でもなかったが、彼女と話すのは好きだった。彼女は私と性格も声も振る舞いも正反対。周りの人を励ますことで自分が元気になれるタイプだった。そんな彼女の性格は仕事―日本語を翻訳するという―にも影響を与えた。才能があったし、何よりも顔が広かった。当時、私も彼女のつてを頼って翻訳の仕事を始めた。
「いつだったっけ。あんたのお母さんが作業室に来たの。覚えてる?」
 もちろん覚えている。その日、彼女は母のことを一風変わった人だと思ったはずだ。たしかに母には変わったところがあった。たとえば、母は私の居場所がわからないと不安がった。大学に入ってからも、私が家に帰ってくるまで寝ないで待っていた。私が周りに誘われてデモや集会などに参加するのではないかと危惧したのだ。私が大学生の頃は、学生運動が完全に力を失っていたのに(そもそも私は関心すら持ったことがなかった)。大学を卒業してからは過剰な心配はしなくなったが、それでもやはり私がどこで何をしているのか知りたがった。母の口から直に聞いたわけではないけれど、私が思うに、それがその日、作業室に母が訪ねてきた理由だった。私がどこで何をしているのか心配で、友人の仕事部屋にまでやって来たのだ。私は独身の頃、友人に仕事部屋の半分を使わせてもらっていた。上り坂の途中にある家で、小さくて四角い部屋の隅にプラスチック製の机が置いてあった。そこではいつも日本語が流れていた(彼女は日本のテレビ番組をつけっぱなしにしていた。そうしたら仕事がはかどるからと言って)。母は机の前に立って私に言った。「なかなかいいじゃない」。私はそんな母を見て妙な気分になった。母は私のわずかな持ち物の中に何を探そうとしていたのだろう。
 その部屋で仕事をしていると、それまで私を構成していると信じて疑わなかった要素が再編成されるような気持ちになるときがあった。重要だったはずの要素は追いやられ、それどころか虚像だったかもしれないと思うときさえあった。過去はつまらないものであり、未来は私の意のままに築けるものだと思える自信が生まれ、見栄を張りたい気持ちになった。そのような感覚は波のように押し寄せてきたかと思うと、一瞬にして引いていった。のちに私はその感情―自信―が仕事ではなく、その場所と関連があることに気づいた。
 やがて私は仕事部屋を失った。彼女は結婚後(私より三年ほどあとで結婚した)、専業主婦としての生き方を選んだ。自分が永遠にエールを送りたい人にたどり着いたのだ。わかっていながらも、彼女が仕事部屋をあっさり手放したことに―そんな資格もないくせに―裏切られたような気がした。私はこの気持ちを誰かに話したかったが、適当な相手がいなかったので母に打ち明けた。「本当に残念なことね」。母の反応を見たとたん、あれだけ話したくてたまらなかった気持ちが噓みたいに消えてしまった。
「それで、広州のどこに住んでたの?」
「地名は覚えてないのよ。十歳のときソウルに引っ越してきたから。いまはどうなってるのかなあ」
 彼女はもう昔の面影はないと、高級タウンハウスがたくさん建てられていると教えてくれた。私は、そんなに変わるはずがないと、市街地から遠く離れていて、まるで閉鎖されたような町だったと言った。
「だからよ。お金のある人って、閑静なところで自分たちの群れを成して暮らしたがるじゃない? ま、私みたいな人間は絶対無理だけどね」
 お茶を飲んだあと、私は彼女を家まで送っていった。お腹がかなり大きくなっていたので、それ以上引き留めてはいけないと思ったからだ。車を降りる前に、出産予定日はいつなのか訊ねると、彼女は顔を赤らめて答えた。
「まだ六週間も先よ。この子、すっごく大きいみたいなの!」
 私は一人残された車の中で考えた。住んでいた町の名前を確かめる方法はたった一つ、父と連絡を取るしかない。でもその頃の私は―どういう理由であれ―父に会いたくなる日が来るなんて想像もできなかったし、だからその町の名前を知ることは永遠にないと思った。すると、何とも言えない寂しさに襲われた。初めて母の不在を身に沁みて感じた。

【続きは書籍『小さな町』でお楽しみください】

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四六、並製、224ページ
定価:本体1,800円+税
ISBN978-4-86385-592-2 C0097

【著者プロフィール】
ソン・ボミ(孫步侎/손보미)
1980年生まれ。2009年に21世紀文学新人賞を受賞、2011年に東亜日報の新春文藝に短編小説「毛布」が当選する。短編集に『彼らにリンディ・ホップを』『優雅な夜と猫たち』『愛の夢』、長編小説に『ディア・ラルフ・ローレン』『小さな町』『消えた森の子どもたち』などがある。若い作家賞、大山文学賞、李箱文学賞などを受賞。

【訳者プロフィール】
橋本智保(はしもと・ちほ)
1972年生まれ。東京外国語大学朝鮮語科を経て、ソウル大学国語国文学科修士課程修了。
訳書に、鄭智我チョンジア『歳月』(新幹社)、キム・ヨンス『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(新泉社)、チョン・イヒョン『きみは知らない』(同)、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(同)、ウン・ヒギョン『鳥のおくりもの』(段々社)、クォン・ヨソン『レモン』(河出書房新社)『春の宵』(書肆侃侃房)、チェ・ウンミ『第九の波』(同)、ハン・ジョンウォン『詩と散策』(同)など多数。

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