バナー柳原_世界文学の体温ラテンアメリカ文学

第1回 ラテンアメリカ文学との出会い(柳原孝敦)

総論 ガルシア=マルケスに託して

 私がラテンアメリカ文学を専攻するようになったのは、高校の理数科という学科に入ったからである。

 これは、マコンドができたのは海賊フランシス・ドレイクがリオアチャを攻撃したからだとするガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の論法である。いや、『百年の孤独』に限らず、小説とは始まりを書き記すためにその始まりの遠い起源に遡って説明することの多い物語形式だ。したがって、いつまで経っても始まりが訪れない。読者としては苛立って苛立って仕方のない、そういう物語形式だ。つまり私は、あたかも小説のように私とスペイン語文学との出会いを語ろうとしているのだ。

 ガルシア=マルケス『百年の孤独』(1967)については、後に詳しく論じることになると思うが、少なくとも、上で述べた「マコンドができたのは海賊フランシス・ドレイクがリオアチャを攻撃したからだとする」その論法というのを説明しておきたい。

 『百年の孤独』はコロンビアのカリブ海沿岸地域を想起させる架空の村マコンドの成立から消滅までの物語だ。あるいは、村の創始者ホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラ・イグアアラン、および彼らの息子、孫、ひ孫、……6代もしくは7代にわたるブエンディア家の人々の物語と言ってもいい。『百年の孤独』というのだから、マコンドができてから消滅するまでは時間にして100年くらいである。つまりマコンドができたのは、せいぜい19世紀の半ばと考えていい。が、この小説の語り手はその遠い起源をイギリスの海賊フランシス・ドレイクのリオアチャ襲撃(リオアチャは現在のコロンビアの地名)に求めたのだ。それが起こったのは1596年、マコンド創設の300年近く前の話だ。

 そのフランシス・ドレイクが襲撃してきたとき、「ウルスラ・イグアランの曾祖母は警鐘と砲声に驚いて腰を抜かし、火のおこっているかまどに座りこんでしまった」(『百年の孤独』鼓直訳、新潮社、1972年、32ページ)。おかげで火傷を負い、人付き合いにも疎くなり、山間の村に移り住んでしまう。そこに住んでいたのがブエンディア家で、両家はやがて結婚によって親戚関係を結ぶことになる。この両家に育ったホセ・アルカディオとウルスラは恋仲になり結婚を決めたが、今では親戚となった両家のふたりが結婚すると近親婚になる。近親婚を重ねると奇形が生まれるかもしれない。そんな危惧からウルスラには貞操帯があてがわれ、若いふたりは結婚してもしばらく夫婦関係を持てないでいた。そんな状況を友人プルデンシオ・アギラルにからかわれたホセ・アルカディオは、彼を殺してしまう。しかし、殺されたプルデンシオが幽霊となって夫妻のもとを訪れるようになり、耐えかねてホセ・アルカディオとウルスラは仲間と連れ立ち村を出てマコンドを創設することになった。

 以上がマコンド創設に至る経緯だ。何やら牽強付会に思えなくもないが、出来事とはこのように偶然の組み合わせの結果なのだろう。少し風向きが変わっていれば歴史は異なる展開を見せていたかもしれないが、結局風は吹いた方向に吹いたのであり、その結果歴史はこんなふうに展開したのだ。それは受け入れるしかない。そんなわけで、私も、私がラテンアメリカ文学などを専攻するにいたった経緯を、『百年の孤独』に即して示してみよう。フランシス・ドレイクがリオアチャを襲ったからマコンドができたように、私は理数科という学科に進学したからラテンアメリカ文学を専攻するにいたったのである。

 そして私が理数科に進学したのには私の出自が関係している。

 私が生まれたのは鹿児島県名瀬市。現在の奄美市。幼少期に引っ越して、中学卒業まで住んだのは大島郡笠利町。現在の奄美市笠利町。いずれにしても奄美大島だ。

 奄美大島は鹿児島県といえども鹿児島市から400キロ近く海を隔てているし、むしろ沖縄に近いくらいだ。奄美大島(および加計呂麻島、請島、与路島)、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島からなる奄美地方は歴史的にも長らく琉球王国の支配下にあった。ところが1609年、琉球は薩摩に征服されて植民地となった。琉球征伐というやつだ。薩摩が明治維新に大きな役割を果たすことができた一因は、この地方から搾り取った砂糖によって得た財力だと言われている。幕末には徳之島で砂糖きびの取り立てのあまりの厳しさに一揆が起こったほどだ。その犬田布騒動を題材にした伊集田實の劇『犬田布騒動記』もある。明治維新後、廃藩置県と琉球処分を経て琉球は沖縄県になり、奄美地方は鹿児島県に組み入れられた。太平洋戦争後も奄美は沖縄との併合と分離を経験する。日本とは切り離されて沖縄とともに琉球政府として進駐軍の配下に入るのだ。日本の主権回復後もしばらくはその体制が続いたが、奄美だけ一足先に日本本土に復帰、ふたたび鹿児島県に属することになった。このように地政学的にも文化的・歴史的にも琉球(沖縄)でありながら行政区分上は鹿児島県である地域が奄美地方である。そこで教育を受けたために、私は理数科に進学することになった。そしてラテンアメリカ文学を専攻することになった。

 誤解されがちなので明記しておくが、奄美大島は面積約712平方キロメートル。東京23区より100平方キロほど広い。しかしながらそのほとんどは山で、海との間にわずかばかり開けた平地に集落が点在する様は、日本本土の縮図のようだ。私が育ったのも山(とは呼べないくらいの低い山。200メートル未満なので地図上は平地)と海との間の小さな集落だった。当時、戸数は100強、人口は400ばかりだった。少し奥に入ったところにあるもっと小さな集落とで小学校区を形成する。小学校は複式学級で、1年生の私は2年生とともに授業を受け、次年度の予習もしていたようなものだ。2年時には1年生と机を並べ、前年の復習もしていた。中学は六つの小学校区を含むものだったので、人数は増えた。1学年3クラスだったがクラスの人数は30人台と少人数だった。そんなわけで、中学までは学校外での勉強などほとんどしたことがなかったけれども、授業内容はよく身についた。中学3年間で試験の成績が学年トップでなかったことは2、3度しかなかったはずだ。

 私たちの学年を担当した3人の先生のうち2人は鹿児島(私たちが言うとそれは県本土を意味した。島ではないということだ)の人で、数学と英語の担当だった。このふたりの先生を私は苦手に感じていたが、困ったことに、その2教科がことさらよくできた。

 ふたりを苦手に感じる理由はいくつかあったが、なんといっても言葉だった。歴史的・文化的に琉球である奄美は、その言語も琉球語の一変種だ。それに対して、言うところの薩摩弁は強勢の位置が異なり、私たちにしてみれば、高圧的に感じられた。とりわけ教師がしゃべるとそうだった。言葉の調子が高圧的ならば、発話内容もどこか傲慢で私たちに対するさげすみに満ちているように思われた。たとえば英語教師は授業中、よく「島ん衆(し)はしゃべるのも歩くのもほんなごてチンタラチンタラして。そげんだから英語もでくっようにならんと」と私たちを面罵していた。こういう認識と発言を「差別」と呼んでいいと気づくのはずっと後になってからのことだが、ともかく、私はこの英語教師に外国語習得の基礎を学び、良い成績をあげた。師を疎みつつ師に愛されたのだ。

 私の父は海に落ちて死んだ。私が生まれる前のことだ。つまり母子家庭だったので、我が家は貧しかった。母が大島紬を織って得る収入は少なかった。中学1年の家庭訪問で、そんな我が家の事情を見て取った数学教師は「高専にでも行ってお母さんをなるべく早く楽にしてやらんといかんね」と私の将来をデザインした。すると母は「いいえ、この子は大学まで行かせます」ときっぱりと答えた。将来のことなど考えたことのなかった私は、母の毅然たる態度に驚いたものだ。きっと数学教師も強い印象を抱いたのだろう。結局、私は3年間ずっとこの先生が担任を務めるクラスに配属されることになるのだが、先生は進学指導のさいに、大学入試も視野に入れての進学先を勧めた。それが鹿児島県立錦江湾高校理数科だったのだ。

 これも誤解されがちなので付け加えておくが、奄美大島にも高校はある。大島本島内に県立高校が4校(当時は5校)、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島にもそれぞれ1校ずつ県立高校がある。徳之島には私立高校まである。

 鹿児島県にはラサール高校という全国的にも有名な私立の進学校があるが、そういう突出した例外を除けば、進学校は、たいていの地方と同様、公立高校だ。県を代表するのは鶴丸高校、甲南高校といった県庁所在地の県立だった。しかし公立高校には学区分けがあり、これらの高校には鹿児島市内およびその近郊に在住の者しか進学できなかった。だから中学の途中から引っ越したり住民票だけ前もって移し替えたりする者もいたようだが、私を大学に行かせると断言した母も、さすがに孟母三遷というわけにはいかなかった。当時、地方の中学で成績の良い者が考える代替案が、私の進学した県立錦江湾高校理数科だった。理数科は全県一区だったのだ。そんな風潮にしたがって担任の先生は私にこの高校を勧め、私はそれに従った。この時点でも大学進学のことなど考えてはいなかったのだが、家を出たいとの思いも強かったからだ。

 県立錦江湾高校は1971年創立。鹿児島市の外れ、石油基地で知られた喜入町との境の高台を切り拓いて作られた。文字通り錦江湾(鹿児島湾)を一望できる位置にあるその敷地は広大だ。校歌にも歌われたモットーは「自律創造/向学求真/誠実協調」。そんな高校に1979年、9期生として入学した私は、ほどなく失望することになるのだが、それについては次節に譲ろう。ともかく、創立9年目でそこそこの進学実績(東大に数名、その他の難関国立大学に合計数名、国立大学医学部や歯学部に十数名、その他多くは九州大学や鹿児島大学に合格)を上げていた理数科は、鶴丸や甲南といった伝統校に追いつき追い越せという勢いだった。その後、鶴丸や甲南といった鹿児島市内の進学校に学区外からも一定数進学できるようになり、理数科はその使命の一部を終えたとのことだ。ただし、錦江湾高校は2017年から2021年文科省のスーパーサイエンスハイスクールに指定されている。

 入学時点で大学進学など考えていなかったし、すぐに高校に嫌気がさすことになる私でも、いつの間にか大学に進学するのが当然だとの観念を抱くようになった。成績は悪くはなかった。最優秀とは言うまいが、試験では学年で10位以内に入ることもまれではなかった(大抵は10位から20位の間くらいだったろうか)。数学や物理もそこそこの点を取っていた。だからいつの間にかゆくゆくは東大の理系か東工大にでも進学して数学者か物理学者にでもなるのだろうと思うようになっていた。

 しかし一方で私は、自分には根本的に数学的センスが欠けるという事実にも気づくことになる。学友の中には、数学的美しさを湛えた考え方のできる人物というのが何人かいた。そうした人物を前にすると、私など自分の凡庸さを痛感させられたものだった。文科系の大学を受験する決心をするには他の要素もあったけれども、数学的能力に関する自身の限界を感じたことも大きな理由には違いない。

 結局私は二次試験で数学がまったくできずに失敗したのだから世話はない。

 大学受験に失敗してみると、私は抜け殻のようになってしまった。頑張って燃え尽きたのではない。なんとなく周囲に流されて受験してみたが、そもそも大学に行くことの意義が見いだせないという思いの方が強かった。あるいは自分が過信するほど知的能力がなかったと気づいて愕然としたのかもしれない。でもそれ以上に高校で過ごした3年間に受けた精神的なダメージから萎えてしまったというのが正解かもしれない。そういえば以前、九州大学に進学した先輩から、錦江湾高校出身者は留年率が高いことで知られているとの噂を聞いたことがあった。抑圧された高校生活から解放され、自由を謳歌しすぎるか、でなければ気力をなくすかして大学に行かなくなるのだと。この噂の真偽のほどはわからないけれども、それを聞き、下の世代にもその噂を伝えた私たちは、そうした解放か虚無化の必要性を感じていたのだろうと思う。現役で合格した者が留年によって失われた時間を取り戻さなければならないと感じるように、受験に失敗した私は、学生の身分なくして全くの虚無に陥ってしまった。

 結局私は2年の間、虚無の中に生きることになる。ニート、と今なら言うかもしれない。アルバイトなどはしていたのだから、フリーター、と当時まだ存在しなかった言葉で言い換えてもいいかもしれない。けれどもそれは、病んでしまった高校時代からのリハビリ期間なのだと言うべきだろう。

 2年後、東京外語大のスペイン語学科(当時の呼称。他も同様)に進学した動機には積極的なものはない。共通一次試験と何度か受けた模擬試験の成績とを加味して合格しそうなラインを考えたら、外語大のヨーロッパ語系との当たりがついた。鉛筆を削って六つの面のふたつずつに可能な受験先を書いた。つまり選択肢は3つだった。外語大のフランス語学科とスペイン語学科、それに別のある国立大学の社会学部だ。外語大のヨーロッパ語系といっても、英米語学科の可能性は端から考えていなかった。何を今更という気持ちが半分、英語などもう充分に勉強したし不自由なくできるじゃないかという気持ちが半分(とんでもない勘違いだけれども)だった。若さゆえの傲慢さから、外国語学部英米語学科へ入学したがる者は愚か者だとの思いがあった。フランス語は、その言語で書いた作家たちにはなじみがあったからぜひとも入りたいと思っていた。次にイタリア語を考えたが、イタリア語は入学定員が30人と少数だったので腰が引けた。結果、特に意識のなかったスペイン語学科を選んだ。そして、あろうことか、「フランス語学科が出ろ」と念じながら投じた鉛筆の出た目はスペイン語学科であった。

 特に意識があったわけではないが、スペイン語圏についての話題は少しは耳に入っていたので、まったくなじみがなかったというわけでもない。私が高校を卒業したのは1982年。その年はフォークランド紛争(マルビーナス戦争)でアルゼンチンが気になった。ガブリエル・ガルシア=マルケスがノーベル賞を受賞し文学にも注意が向いた。そしてフリオ・イグレシアスが日本でも爆発的にヒットしていた。アルゼンチンやコロンビア、スペインは、新聞をチェックしてテレビを観、本を読んでいる限り、遠い世界ではなかった。でもあくまでもフランス語やイタリア語に比べると興味は薄かった。

 結局、鉛筆の出た目にしたがって受験して合格。さしたる動機づけもなく入った先の大学でスペイン語を専攻することになる。この時点ではまだ、ラテンアメリカにも文学にも分節されていない。ともかく、スペイン語だ。これが分節されるのは大学に入ってからのことだが、それについてもやはり物語の始まりの遠い起源を語らなければならないだろう。大学時代に文学を専攻する気になった原因を語るには高校卒業後の2年間のリハビリ期間を語らなければならないし、そのためには高校時代の寮での生活を語らなければならない。そしてそのことを語ろうとすると、今度は別の文学作品を思い出さないではいられない。

Ⅱ 高校時代 バルガス=リョサに託して

 2年ものリハビリ期間を要するほどに傷つき病んでしまった高校時代を語るには、ガルシア=マルケスではなくもうひとりのノーベル賞作家マリオ・バルガス=リョサに頼るべきだろう。彼の最初の長篇小説『都会と犬ども』(1963)が導きの糸となるはずだ。

 『都会と犬ども』は懸賞形式の文学賞ブレーベ叢書賞を前年に受賞した作品で、若き作家はこの1作で「ペルーの怒れる若者」と呼ばれ、一気にスターダムにのし上がった。「怒れる若者」とはアラン・シリトーらのイギリスの若い作家たちに付与された呼称で、バルガス=リョサはそのペルー版というわけだ。作家本人がしばらく在籍していたリマの実在の士官学校レオンシオ・ブラード学院を舞台に、カンニングの発覚を機に露わになっていく生徒たちの序列とそこに反映されたペルー社会の問題が印象的な小説だ。当の士官学校では焚書にされたほどだから、スキャンダルの大きさがわかるというものだ。

 中等教育(中学や高校)を受けるころの青少年を主人公にした小説は少なくない。自我をひとつの大きな主題として展開してきた近代小説は、自我が増大し確立するこの時期、社会との軋轢を生みがちなこの時期の青少年の危うさを描かないではいられないのだろう。古典的なところでは、夏休み前になるときまって書店に並ぶ某文庫の「100冊」フェアで揺るぎない定番の地位を占めるヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。その種のフェアとは無関係に常に読まれ続けるJ・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』は複雑な解釈を許すものではあるが、基本的にはプレップ・スクールを退学になり寮を追い出された少年の放浪の物語だ。原作は読んでいないのだが、私は大学時代、マレク・カニエフスカ監督の映画『アナザー・カントリー』(イギリス、1984)を楽しく観たものだ。パブリック・スクールでの権力争いで脱落する青年の物語だ。私が高校時代に負った傷の大部分は、これらの物語が代弁してくれると思う。挫折と抵抗の青春学園物語だ。けれども、スイスやアメリカ合衆国、イギリスのそれらの物語以上に『都会と犬ども』が私を代弁してくれると思うのは、士官学校が舞台だということがひとつの理由だろう。

 イギリス伝統のパブリック・スクール(『アナザー・カントリー』の舞台)やアメリカ合衆国東部のプレップ・スクール(『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンが在籍していた)など、少数の裕福なエリート階級が集う学校と異なり、神学校(『車輪の下』の学校)や士官学校(軍の将校を養成する)などは身分社会においては階級上昇のための通路である。聖職者や軍人は生まれついての身分とは無関係に出世できるからだ。スタンダール『赤と黒』の前提がそれだった。主人公ジュリアン・ソレルはまず軍人を志し、それから聖職者を目ざした。士官学校が存在するということは、そうした通路を通じて這い上がらなければならない階級の子弟が存在するということだ。つまり、士官学校には多様な階級の者が集う。それは社会の縮図となるはずだ。ましてや軍人になろうとする少年たちなのだから、気性の荒い者も少なからずいるだろう。軋轢はさらに強まる。

 『都会と犬ども』(杉山晃訳、新潮社)は3人ばかりの生徒に焦点を当て、時には三人称で時には一人称で彼らの学校内、寄宿舎内での立場を描写していく小説だ。上流階級の出身だけれども文弱で、ラブレターの代筆やいかがわしい物語を書くことで周囲に取り入って生き延びていこうとする青年もいれば、上級生からのいじめに刃向かう少年、逆に「奴隷」と呼ばれて虐げられ、しまいには殺される者もいる。それらの人物の自我が視点の転換や錯綜する話法によって巧みに浮き彫りにされる。ただひとりの主人公による語りよりもはるかに複雑で多様だ。周辺的な登場人物も「山出し」がいたり「黒人」がいたり、人種や階級も様々で、読者の立場によっても感情移入する対象が異なり、多様に読むことができそうだ。

 私の通った高校はもちろん、士官学校ではない。しかしそれは『車輪の下』のハンスの神学校よりもはるかに『都会と犬ども』のレオンシオ・ブラード学院に似ていたはずだ。寮の生活様式がそもそも士官学校的だった。朝は6時(冬季は6時30分)に起床し学校本館前の広場で朝礼がある。朝礼の内容は体操、校舎群の周りのランニング、舎監の訓示だ。それが終わると清掃(自室、および当番制で共用部分も)、朝食。食べ終わるころには、正課の1時限前に設定された補講が始まる時間になるので、登校。それが一日の始め方だった。

 地方の公立高校がまるで進学塾や予備校の肩代わりをするかのように補講などを数多く行うことは全国的に一般的な傾向としてあるようだが、私たちの高校は、その傾向がことさらひどかった。時代が悪かったとも言えるかもしれない。入学は1979年。センター試験の前身に当たる共通一次試験の第1回が挙行された直後だった。高校ではその新制度に照準を合わせた補講が何時間も組まれ、宿題が大量に課された。

 夕方の補講でくたくたになって寮に戻ると、6時から夕食。7時には学習時間が始まる。学習時間は、途中、点呼とそれに続く30分ばかりの休憩時間を挟んで12時まで続く。点呼時以外にも舎監や風紀委員が見回りをする。部屋は廊下を挟んで寝室と学習室が対面する様式で、それぞれのドアはガラスの引き戸なので、廊下から室内がまる見えだ。少なくともこの間、寮生たちは勉強するふりをしていなければならない。そして12時、やっと就寝。一日が終わる。

 中学を卒業するまで1日8時間は睡眠を取っていたし、学校の宿題などほとんどしたことのなかった私にしてみれば、この寮での生活時間割と学校での授業時間割はかなりのショックであった。息つく暇もないという感じだ。後に防衛大学校(本物の士官学校だ)に進学した先輩が、さすがにそこでの暮らしは高校の寮の比ではないと話すのを聞いたことがあるが、彼はまた寮での生活が基礎にあるから耐えられたのだとも言っていた。本格的な士官学校寄宿舎でなくとも、その予備段階くらいの役割は果たしていたのかもしれない。

 こうした生活と授業を耐え忍んでいた(もしくは楽しんでいた)同級生たちのかなりの者が当初、医学部を志望していた。僻地の数多くある鹿児島県の地方から出てきた連中なのだから、中には真剣に無医村医療を志す者もいたけれども、一部には医者になることが社会的ステータスの上昇だと考えていた者たちもいたように思う。当時も今も鹿児島県は国内ではそれほど豊かな県ではない。とりわけ奄美をはじめとする地方は貧しかった。自らの頭脳をもって貧しさから脱するために医者になりたいと考えている者もいた。医学部とは、軍隊のない(ことになっている)日本社会においては最もわかりやすい立身出世の通路なのだ。士官学校の寄宿舎生活を描いた『都会と犬ども』を読んだとき、私は自らの高校時代と寮での生活を読む思いがした。

 さすがに『都会と犬ども』のように殺人が起きることはなかったものの、1学年下の者が失踪する騒ぎが一度あった。16、17歳の、それまで成績がよかったがためにおそらくは学校では万能感を誇る生意気盛りの少年たちの意地の張り合いに疲れたのだろう。全員がそんな性格だったとは言わないけれども、対話者よりも少しでも自分が上であることを示そうと示威行為に及ぶ者たちとの関係に私も疲れ果て、家族や故郷の友人には泣き言ばかり言っていた。ましてやそうした示威の言葉は、中学時代に辟易させられた強い調子の鹿児島弁、あの英語教師の言語の場合も多かったのだ。

 まだ1年生のころ、同級生たちが互いの素性をよく知らないころの出来事を私は忘れていない。その内容は詳しく覚えていないが、ギターの話をしていたのだと思う。テレキャスターが好きかストラトキャスターが好きか、というような他愛ない話だったはずだ。ある人物の意見に私が反論したところ、彼は冷笑とともにこう言ったのだ。「島ん衆がよう言うが」。ここに私はあの英語教師と同様の差別意識を嗅ぎ取らないわけにはいかなかったし、その語調に強い圧力を感じないではいられなかった。「島ん衆」は俺に口答えしてはならない。彼はそう言外にほのめかしていたのだ。なぜ生まれた場所が離島であるというだけの理由でギターの好みを表明することを封じられねばならないのか?

 この種の発話は、発した本人にとっては意味はない。あの英語教師同様、ただなんとなく共有されている思い込みに裏打ちされた言葉を発しただけだ。それが「島ん衆」にとっては刃物となり得るのだ。彼が意識を持つ以前からそこに存在した言葉、逆に彼の意識を規定することになった言葉、そうした力のある言葉のまとまりを言説(discours)と呼ぶのであり、(旧)植民地に関して作用する言説を植民地言説と呼ぶ。そう説明をつけられるようになるのはもっとずっと後になってからのことだが、ともかく、こうして私は言葉に、鹿児島弁に傷つけられる。

 1年次に私たちのクラスを担当した国語教師のエピソードも、植民地言説の一例だろう。翌年奄美への転勤を拝命したとして真顔で私に相談してきたのだ。島ではハブが出ると聞かされているのだが、大丈夫だろうか? 水道の蛇口からも出ると聞いたが、そんなときにはどのように対処すればいいだろうか? と。

 もうひとつのストレスのもとは上級生との関係だった。私の1年時のクラス担任でもある舎監長は入寮式で言ったのだ。上級生は絶対であると。お前たちは山出しだ、とも言った。お前たちは山出しで何もものを知らないのだから、先輩の言うことをきき、素直に従うように。主人に対する奴隷のように振る舞うこと。舎監長の先生はおおよそ、そう言ったのだ。

 寮は4人ひと部屋で、各学年ひとりずつの構成が原則だった。たとえば1年時に私にあてがわれた309号室は、私と2年生がひとり、3年生がふたりだった。奴隷に対する主人ほどの権限を持つ人物が3人もいたのだ。幸いその年の3人の「主人」には理不尽な人物はいなかったけれども、運次第では地獄ではあるまいか。舎監長の話を聞きながら、私は向こう3年間の日々の重さに押しつぶされそうになった。

 たとえば、入寮して間もないころの夜中、学校の裏山での肝試しを強要されたことがあったが、これなどはよくあるイニシエーションの儀式だし、そうしたものを仕掛けたことをもって上級生の横暴を叫ぶつもりはない。実際、横暴と断罪するほどの上級生はいなかった。けれども、時には理不尽と思える先輩の言動に耐え、かつ従わなければならないこともあり、ストレスはたまっていった。

 1年先輩のある人物の例は何と形容すればいいのだろう? その人は剣道部で、自分に厳しい人だった。小柄だけれども常に背筋を伸ばし、堂々とした立ち居振る舞いのおかげで上級生からも一目置かれていたように思う。2年時の後半から3年時の夏休み前までは寮の風紀委員長も務めていたので、自分のみならず他人にも厳しくならざるを得ないのはしかたがない。厳しくはあったが理不尽なところは微塵もないので、恨みを抱くわけにはいかない。ひと言でいうと、立派な人だった。文句のつけようがない。いかにも士族の多い薩摩の武士といった感じであった。そして、だからこそ私はその人が苦手であった。自分に厳しすぎるあまり、威圧感があり、周囲の者がひと言もしゃべれなくなってしまう。そんな空気を作り出しているように思ったのだ。

 この先輩の例は、高校時代の私を抑圧したもうひとつの要素を示しているのかもしれない。つまり、男社会ということだ。寡黙で求道的、他を威圧することをよしとする、緊張感いっぱいの社会だ。寮は男子寮だったし、理数科は他の多くの理科系のクラス同様、男子が多数だった(私たちの学年は80人中女子は8名だった)。私はこの先輩がひとつの規範であるような者たちから成り立つ男だけの(ホモソーシャルな)社会に押しつぶされそうになっていたのかもしれない。だからこそ、やはり男性が多数であることが見込まれる理科系の大学への進学をやめ、文科系にしたのかもしれない。時には他愛ない冗談を言い合い、笑い、上下関係を考えずに議論がしたかったのかもしれない。

 過剰な量の宿題、毎日5時間も誰かに監視されていることを意識しながら勉強するふりをしなければならないこと、上級生からの抑圧、同級生の虚栄心と競争心、男だけの社会の息苦しさ、出身地による差別、そうしたものに押しつぶされそうになりながら私は高校の3年間を生きてきた。そんな私が生き延びるためにとった方策が、現在の私の基礎になっていることも、認めたくはないが、間違いない事実だ。『都会と犬ども』のアルベルトは他の生徒のラブレターを代筆したけれども、私は自分自身の名で地元の高校に進学したガールフレンドに向けて毎週のように手紙を書いた。アルベルトは猥褻な物語を書いてそれを友人たちに読ませていたけれども、私は誰にも読ませることのない日記を書き、(時には猥褻なこともある)本を読んだ。つまり、読み、書く習慣がこのときについたのだ。5時間の学習時間では捌ききれないほどの宿題もその多くは無駄だと思っていたので、最低限のことしかやらなかった。けれども5時間は机についていなければならない。ならば、本を読み、手紙や日記を書くしかないではないか。

 当時は集英社の世界文学全集、〈ベラージュ〉のシリーズ(全88巻。1977-1981配本)が刊行中で、休日には市内の新刊書店や古書店でそのシリーズの本を買って帰り、平日の学習時間中に読んだ。スタンダールやバルザック、セルバンテス、ジッドなどだ。トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』の映画化作品を映画館で見た帰りに全集内のハーディの巻とペンギンのペーパーバックを買い、交互に読んだ。当時の鹿児島や名瀬の古本屋にはフランソワーズ・サガンやジャン=ポール・サルトルの翻訳が必ずと言っていいほど並んでいたので、そうしたものも買い、読んでいた。一方で、若い人は新しい作品から順に読んでいくといいというアドバイスを何かの雑誌で読んだ(何の雑誌で誰が書いた文章かは覚えていない)こともあり、若い作家たちのものも読むようにしていた。私の高校時代には村上春樹(1979)や田中康夫(1980)がデビューした。そのちょっと前に話題になった作家だと村上龍や高橋三千綱、中沢けい、中上健次などがいて、これらも読んだ。私はそのような読書傾向を身につけていったが、一方、寮生仲間には1年で新潮文庫版の三島由紀夫をすべて読むことを目標にしていた者もいた。

 寮では正式には漫画は禁止だったけれども、なぜか回し読みされていた。江口寿史『すすめ!! パイレーツ』や小林まこと『1・2の三四郎』らはとりわけ人気が高かった。弓月光『ボクの初体験』、立原あゆみ『麦ちゃんのヰタ・セクスアリス』などという少女漫画も出回っていた。ほかに少女漫画では庄司陽子『生徒諸君!』が人気だったのは、私のみならず皆、自分たちの高校生活に挫折と抵抗を感じており、そうではない「美しく楽しい思い出の青春学園物語」を希求していたからなのかもしれない。私はそれよりも吉田まゆみのポップさが大好きだった。また、成田美名子『あいつ』を読んだのが東京外国語大学を進学先のひとつとして考えるきっかけになっているかもしれない。主人公の隣りに越してきた高校の先輩が、シルクロードに憧れ、外語大に進学するという設定だったのだ。

 いや、実際には、私の進学や出会いに直接の影響を与えたのは他の作家なのだが、それについては節を代えて語ることにしよう。

プロフィール

柳原孝敦(やなぎはら・たかあつ)
1963年、鹿児島県名瀬市(現・奄美市)生まれ。東京外国語大学大学院博士後期課程満期退学。博士(文学)。東京大学教授。著書に『ラテンアメリカ主義のレトリック』、『劇場を世界に——外国語劇の歴史と挑戦』共編著(以上、エディマン/新宿書房)、『映画に学ぶスペイン語』(東洋書店)。訳書にアレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)、フィデル・カストロ『少年フィデル』、『チェ・ゲバラの記憶』監訳(トランスワールドジャパン)、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』共訳、カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、(以上、白水社)、セサル・アイラ『文学会議』(新潮社)、フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社)ほか。近刊に『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会、10月刊行予定)。

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