【試し読み】大前粟生「歯医者さんの部屋」(『私と鰐と妹の部屋』より)

大前粟生「歯医者さんの部屋」

 目が覚めると清潔な部屋にいて、歯医者さんにいるんだと思って笑ってしまった。「心配ないからね」と歯医者さんがいって虫歯治療のために私が笑気ガスを吸い込まされてねむっていったのが午前中のことで、いま私は清潔な部屋にいた。歯医者さんではない。治療用の可動式チェアではなくパイプ椅子に座っていて、手足が縛られている。なんなの、これ、映画? 笑ってみた。これは現実ではなく、まだ体に溜まっているかもしれない笑気ガスが見せる幻覚なんだと思い込んで。するとほんとにげらげら笑えてきて、私はいかにもこれから殺されるせいで気が狂った人みたいだ。
 この部屋にくる前、少しだけ車のなかで目覚めた。そこはトランクのなかではなくて助手席だった。茶色い服を着た子どもが外から私をじっと見ていて、なんでもいいからいえばよかったのだ。助けて、と声は聞こえなくとも口を動かすとか、窓をがんがん叩くとか。でもまだガス麻酔が抜けていなくて意識がぼやけていたし、赤信号が変わる前に、運転席にいる歯医者さんが今度は注射麻酔を私にうった。歯茎ではなくて、腕に。
 あー。あー。あー。あー。あー。だれかが聞きつけるかもしれないと思って、清潔な部屋で叫んでみる。でも、だれにも聞こえていないだろう。私の口を塞いでいないということは、口を塞ぐ必要がないということだ。でも歯医者さんには微かに聞こえていて、この悲鳴を楽しんでいるのかもしれない。それでも私は叫びつづけた。この部屋にはさっきからヒーリングミュージックが流れていて、それを聞くのが悔しかったから。
 これは映画じゃないから、特に美しくもない、しかも若ハゲ男の私でも生き残ることができるかもしれない。叫びに合わせて体を揺らしていると、私は椅子ごと床に倒れた。しかも前方に、顔から倒れて、口が白い清潔な床に打ちつけられた。「痛っ」と私は咄嗟にいって、それから泣いた。みじめだった。理不尽だった。壁には多様な鈍器が架けられていた。手足は解けず、起き上がることもできずに長いこと同じ体勢でいると冷たかった床が温かくなってきて、私はうとうとし出した。半分ねむりながら、もう痛くないことに気づいた。虫歯はちゃんと、午前中に治療されていた。扉が開く。歯医者さんの靴が見える。壁から鈍器が外される音。ねむりたい。深くねむって、これから起こることをなにひとつ恐れたくはなかった。

大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃侃房)より


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