見出し画像

第5回 ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら③(柳原孝敦)

※「ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら②」(第4回)はこちら

テクストの縦の連関1:クロニカ

 前回述べたように、アレホ・カルペンティエール『失われた足跡』は人類学・民俗学の調査旅行に同行した経験を発想源のひとつとしている。友人にして国立民俗学研究所所長フアン・リスカーノやカメラマンのフランシスコ・ペレスらとともに企てたバルロベント地方への調査旅行をヒントにしているのだ。余談だが、こうした研究成果が発表された翌1948年には前回名の挙がった『ドニャ・バルバラ』の作者ロムロ・ガジェーゴスが大統領に就任し、それを祝う目的で国内各地から採集された音楽と踊りを披露する催しがあった。今では「伝統の祝祭」の名で呼ばれ、民衆文化を基礎としたベネズエラ国民文化の高揚点とされるこの催しを組織したのがフアン・リスカーノだった。カルペンティエールはこのときはただ観客として眺めていたのだが、そこにはキューバから盟友フェルナンド・オルティスが駆けつけ、これが自ら記述してきたキューバの黒人文化にも通じる文化の様態をありのままに描いたものだと興奮気味に語ったりしている(La fiesta de la tradición 〔FUNDEF, 1998〕/ 石橋純『太鼓歌に耳を貸せ』〔松籟社、2006〕にも記述あり)。カルペンティエールの創作にも多大なインスピレーションを与える催し物だった。

 しかしながら、カルペンティエール自身の言葉に信頼を置くならば、彼はまた、リスカーノらとともに巡った調査旅行では飽き足らず、独りでオリノコ河流域を旅したようだ。飛行機でボリーバル市からプエルト・アヤクーチョまでオリノコ河を低空飛行で遡った47年の旅から「帰ってきたときにあまりにも熱狂していたので、翌年、今度は人間の目の高さで旅に出た」( “Un camino de medio siglo” Obras completas de Alejo Carpentier, tomo 13 〔Siglo Veintiuno, 1990〕所収 )と。つまりはバスでティグレを経由してボリーバル市に行き、そこから船で河を遡ってプエルト・アヤクーチョに行ったのだという。その旅の途中で『失われた足跡』のヤネスとされるギリシャ人黄金探索者に出会い、木に彫られたV字型の印(インディオたちの共同体への入り口の目印)などを見たという。小説の重要な細部をこの旅を通じて取材したということのようだ。

 『失われた足跡』に再現された道具立てが現実に存在するものであることは、小説末尾の「註」にも明記されている。ある地点からの風景はオリノコ河そのものだし、ギリシャ人の鉱山は「オリノコ河とその支流ビチャーダ河との合流点から、さして遠くないところにある」。Vの字の目印は「ビチャーダ河を二時間ほどさかのぼったところに開いている、グアチャラカ水路の入口に実際に存在する」。そして「〈先行者〉、モンツァルバッヘ、マルコス、ペドロ師は、ジャングルの広大な舞台で旅行者がかならずめぐり遇う人々であり」、「ギリシャ人鉱夫ヤネスについては、わたしは彼の名前さえ変えていない」のだそうだ(岩波文庫版)。

 しかし、この「註」に書かれていない情報源が『失われた足跡』にはある。小説が世に出て20年以上を経た1975年の講演では、作家はこんな回想をしているのだ。

私は読むものといえばグミーリャの旅行記とフンボルトの旅行記だけを持っていました。そして船首の甲板に座った私は、鉛筆を手に、河の両側に見えるものとグミーリャやフンボルトが描写した内容とをつき合わせていました。するとグミーリャやフンボルトが描いたものごとの多くが見た目も変わっていないことに気づいたのです。( “Un camino de medio siglo” )

 グミーリャとは18世紀初頭にオリノコ河流域を旅行したイェズス会士ジュゼップ(ホセ)・グミーリャ(1686-1750)で、彼の「旅行記」とは『オリノコ河詳解』El Orinoco ilustrado y defendido (1731 /現在では El Orinoco ilustrado とのみ記述されることが多い) のことである。フンボルトとは言わずと知れたドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)のことだ。彼はグミーリャのほぼ百年後、1799年から1804年にかけてベネズエラをはじめとする南米大陸各地、キューバ、メキシコなどを旅し、後に多くの書物を残した。ここで言及されている「旅行記」は、主著『新大陸赤道地帯の旅』(1805-34)はさすがに30巻におよぶ大部なので携行するには大変だろうから、その一部か、でなければ人口に膾炙した普及版『自然の諸相』(1808)であると思われる。抄訳版が『フンボルト 自然の諸相――熱帯自然の絵画的記述』(木村直司編訳、ちくま学芸文庫、2012)として手に入る。カルペンティエールが20世紀半ばに見たオリノコ河は、彼よりもそれぞれ150年前、250年前に旅をしたヨーロッパ人たちの書き残したオリノコ河と何ら変わることがなかったと述べているのである。

 『失われた足跡』ではたびたびセルバンド・デ・カスティリェッホスなる聖職者の残した本についての言及がある。たとえば、こんな一節だ。

その日、夜明けとともに船で出発したのだが、わたしは岸辺を見ながら、そしてときどき、三世紀前にここに足を踏みいれた、セルバンド・デ・カスティリェッホス師の記述に目をやりつつ、何時間もすごした。彼の古風な散文は依然として有効であった。著者が右岸にトカゲの形をした岩がそびえている、と書いているところでは、たしかに右岸にそれらしき岩がそびえていた。年代記作者が、うっそうとした巨大な木々を目にした驚きをあらわしているところには、たしかに、当時と同じ小鳥たちが棲み、当時と同じ光線がふりそそいでいる巨大な木々がみえた。(岩波文庫版)

 このセルバンド・デ・カスティリェッホスというのは実在の人物ではない。これこそがグミーリャから想を得た架空の年代記作者だと思われる。上に引用した後年の回想同様、小説内でもこれら先人の残したテクストと数百年後の風景とが同じであると主張されているのだ。

 見える景色が同じであれば、経験する出来事も類似する場合があるかもしれない。そしてその経験とは、見えない景色を描くものであるかもしれない。たとえば、グミーリャはこう書いている。

神父たちは伝道所の出入り口を見張っている。出入り口は森や密林に通じており、そうした場所には虎たちが住んでおり、その数たるやかなりのものなので、アプーレ河流域の沃野では八頭から十頭もの虎が吠えて眠れない晩もあるのだ。ただし、松明があるので、恐れることはないが。(El Orinoco ilustrado)

 ここで名の挙がっているアプーレ河はオリノコ河支流の代表的な河のひとつだが、ほぼ百年後、同じ河の「岸辺の砂原」(「近くの前人未踏の森で限られ」た場所)で一夜を過ごしたフンボルトは、以下のような経験をした。

十一時すぎに近くの森で大きな騒音が起こったので、残りの夜をもはや寝て過ごすことはできなかった。動物の荒々しい叫び声が森中にこだました。同時に鳴り響く多くの声のなかでインディオたちが聞き分けられたのは、すこし間をおいて個々に聞こえるものだけであった。(『自然の諸相』)

 カルペンティエール『失われた足跡』には、語り手=主人公たちがカヌーで旅を続けていたある晩、動物たちの音楽に悩まされるという記述がある。

われわれはそれぞれ、ゆりかごのようなハンモックのなかで孤独になった。すると、オオガエルの鳴き声がジャングルをつつんだ。暗闇は音の流れに、ふるえていた。どこかでだれかが、オーボエの吹き口をもてあそび始めた。どこか水路の奥の方で、きみょうな金管楽器が突然笑い出した。それぞれことなった調子をもつ二つの音の無数の笛が、茂みのあちらこちらで呼応していた。金属の櫛、つまり木をかじる鋸の音、ハーモニカのリードの振動音コオロギのかん高い震音などが、大地をおおいつくしているようだった。(略)わたしはぼうぜんとし、おびえ、体が熱っぽかった。旅の疲れと持続的な緊張で、わたしはぐったりしていた。わたしをとりまいていた脅威に睡魔がうちかつのがもう少し遅かったら、わたしは人の声がききたくて、降伏した−−恐怖の叫び声をあげた−−ことであろう。(岩波文庫版)

 18世紀の初めに旅をしたグミーリャ、19世紀への変わり目に旅をしたフンボルト、20世紀半ばの年(明記はされていないが、『失われた足跡』は1950年のことと推察される)に旅をした「わたし」はいずれも、ジャングルがすぐ近くに迫る河のほとりで、夜、野生動物の鳴き声(吠え声)に悩まされ、眠れなかった(疲れていたのでかろうじて眠れた)と言っているのだ。聞こえてくる動物の声が違うのは場所が異なれば生態系も異なるということかもしれない。音の風景としては三者が描いているものは異なると言えるのだが、経験として見ればほぼ同様と言って差し支えあるまい。フンボルトは他にも、同じくアプーレ河のほとりで、ワニやトニーナスと呼ばれるイルカのような水生生物に加えジャガーにも眠りを妨げられたことを報告している。彼はそれを「ジャングルに住むとはどういうことかという例として述べて」いる(英訳 Personal Narrative of a Journey to the Equinoctial Regions of the New Continent 〔Penguin, 1995〕)。

 なるほど、ジャングルに住む、もしくはそこを旅するとはこうしたことだろう。闇の奥から聞こえてくる動物たちの声に安眠を妨げられ、恐怖を感じ、防御のために火を焚き続けたまま夜を過ごす(ただし、「炎のきらめきがワニやイルカを惹きつけることが再確認され」〔Personal Narrative…〕るが)ことになる。それは18世紀であろうが19世紀であろうが変わらない。おそらくは21世紀の現在も同じであり続けているかもしれない。カルペンティエールやその小説の語り手「わたし」はそうした事実に気づいて驚き、自らグミーリャやフンボルトと同じ風景と体験を記述しているのだ。

 しかし、このことは、逆の観点から言えば、カルペンティエールがグミーリャやフンボルトといった、同じ場所を旅した先人たちのテクストを引用したり模倣したりして利用しているということを意味するかもしれない。先に確認した箇所は、確かに、引用と呼ぶには違いすぎているだろう。何よりもカエルや虫、その他の生き物たちの鳴き声を音楽にたとえるカルペンティエールの比喩は秀逸で、作曲家を語り手とする小説としての質を保証し、先達の旅行記とは峻別されるべき文学性をテクストに与えている。しかし、それでもなお、『失われた足跡』がグミーリャやフンボルトの焼き直しだと、批判的に語る者がいてもおかしくはない。たとえばメアリー・ルイーズ・プラット( Imperial Eyes 〔Routledge, 1992〕 )などはラテンアメリカの作家たちが他者のテクストを真似ながら自身のテクストを紡いでいることを「自己成形」と呼んで批判的に論じ、その一例としてカルペンティエールのテクストをフンボルトのそれと並べている。そもそも、『失われた足跡』で主人公がインディオたちの共同体に戻ることができなくなるのは増水によってだったけれども、その増水を実際に経験したわけではないカルペンティエールがそうした細部を思いついたのは、グミーリャもフンボルトもそれについて触れているからではないのか。『失われた足跡』は多くの点で彼らのテクストに負っているはずだ。

 一方で、前回、前々回と私が語ってきたことは、ひとつのテクストは他のテクストとの関係の上に成り立つということだった。ラテンアメリカの19世紀の作家たちはフランスの作家たちを模倣してパンパを、その他の地域の自然を描写したのだった。その後も、模倣や引用でないまでも、同時代の前衛詩のレトリックに多くを学んだ者がいたのだった。カルペンティエール自身、同時代のテクスト群をほのめかしながらテクストを紡いでいた。特にラテンアメリカの作家たちの例に限らず、ひとつのテストが他の様々なテクストとの関係の上に成り立つものであることは、20世紀後半以後の文学理論の大きな前提のひとつだったはずだ。間テクスト性というやつだ。

 であるならば、今問題にすべきは、カルペンティエールが誰かのテクストを参照している、あるいは引用している、依拠している、それどころか剽窃すらしているのではなどと批難を投げかけることではなく、彼が誰のテクストを利用しているのか、そしてそのことがどんな意味を持ちうるのか、と問うことであるだろう。サルミエントはフランス・ロマン主義の作家(彼にとっての同時代人)たちがオリエントを表象した文章を手本として、自ら足を踏みいれたことのないパンパを描いた。一方カルペンティエールは、自らも旅した大河と密林の世界を、同じ場所を旅した過去の旅行記作家たちを参考にして描いた。サルミエントとカルペンティエールを隔てるこの参照項の違いこそが今では重要なのだ。ひとつのテクストが他のテクストとの連関で描く布置constelación は、星座constelación にたとえることができるが、サルミエントのテクストとカルペンティエールのそれは、つまり、まったく異なる星座を形成するのだ。見える図が異なる。ふたりの作家は同じラテンアメリカという枠でくくられるだろう。しかしそれぞれ19世紀と20世紀の、時代を異にする作家であり、描いた対象もアルゼンチンとベネズエラ、地域を異にする作家である。のみならず、このテクスト連関においても異なっているとみなした方がいい。描く対象が異なれば流派が異なるとフランツ・ローが言ったことは以前紹介したが、どのテクストと関係を取り結ぶかによっても流派は異なると言えよう。

 ジュゼップ・グミーリャやフンボルトらの残したテクストは、コロンブスに始まるヨーロッパ人が残したアメリカ大陸についての歴史的な資料の総体の一部とみなすことができるだろう。フンボルトその人が発展に寄与した博物学の分類的思考が歴史学、地理学、植物学といった学問諸分野の範囲を確定し切ってしまう以前の、まだ何学にも分類されない、あるいは何学でもありうる、そういう曖昧なものである点において文学と呼んでも差し支えないようなそれらの資料の数々は、スペイン語でクロニカcrónica と総称されるのが普通である。かつては「年代記」などと訳されることも多かった(少し前の『失われた足跡』からの引用でもこの語が用いられていた)このクロニカという資料の豊かさを見出し、そこに文学の可能性を読み取り、それらと積極的に関係を取り結ぶようなテクストを紡ぎ、前の世代の文学テクストが置かれた星座とはまったく異なる星座の中に身を置いたのが、先駆者としてのカルペンティエールの最大の功績なのである。後の世代にはそれに続いた者も多い。その例を次に見てみよう。

テクストの縦の連関2:バルガス=リョサ、ガルシア=マルケス、その他

 マリオ・バルガス=リョサは、ペルーのサン・マルコス大学での学生時代を振り返り、そこでラウル・ポーラス=バレネチェーアという歴史学者に師事したことが自身の文学修行には大いに役立ったことを回想している( “Latin America: Fiction and Reality” John King ed., Modern Latin American Fiction: A survey 〔Faber and Faber: 1987〕所収 )。彼の授業があまりにも面白すぎて歴史学専攻に鞍替えしようかと思ったほどだという若きマリオ青年は、師の自宅で資料整理を手伝ううちに歴史と文学との関係についての確固たる知見を得たとのこと。

アメリカの発見と征服のクロニカに慣れ親しんだ者ならば誰でも、その理由はおわかりであろう。クロニカの数々は我々ラテンアメリカ人にとっては、ヨーロッパ人にとっての騎士道物語のようなものだからだ。それらは今日理解されるような意味での虚構の文学作品の始まりを意味しているのだ。

 つまり、「これらのテクストにはしばしば解きほぐしがたいしかたで歴史と文学――真実と虚偽、事実と虚構――が混在している」のだという。こうした言葉と言葉の間に括弧に入れた挿入句を設け、小説が宗教裁判によって禁じられた植民地期ラテンアメリカでは歴史や宗教、科学、人々の日常の習慣など、あらゆるところに虚構が広まり、その結果として現在も我々は「小説からの復讐」を経験しているのだと主張するバルガス=リョサは、虚実ない交ぜになったようなクロニカに現代ラテンアメリカ文学の隆盛の原点を見ている。

 実際、作家が挙げる例は、なるほど、クロニカと小説の類縁性を認識させるようだ。16世紀にカリブ海で難破し無人島に暮らしたペドロ・セラーノ(インカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベガ『インカ皇統記』に記載あり)はデフォーの『ロビソン・クルーソー』に想を与えたと言われている。古代ギリシヤの伝説であったアマゾネスが騎士道物語によって再生産され、アメリカの地に見出されることになるのだが、とある大河を探索し、そこにその名を与えた(つまり、アマゾン河)フランシスコ・デ・オレリャーナ(バルガス=リョサはペトロ・デ・オレリャーナと誤記しているが)とそれを書き残した修道士ガスパル・デ・カルバハルなどだ。

 ただし、バルガス=リョサは実際には自身の作品にクロニカを利用してはいない。少なくとも私はその痕跡に気づき得ていない。これは彼が歴史小説を書いていないということに関係するかもしれない。クロニカは歴史的な文献であり、これを効果的に利用するには歴史を扱うに越したことはない。作家自身が生まれる以前のことという意味でバルガス=リョサが書いた歴史小説は『世界終末戦争』(1981 / 旦敬介訳、新潮社、2010)のみであり、それとても19世紀ブラジルでのとあるセクトの反乱を扱っているのだから、クロニカは関係してこない。この時期、crónica という単語は、ジャーナリズムにおけるコラムを意味するものになっていた。そして『世界終末戦争』はそれを取材しコラムを書いたジャーナリストの話ではある。

 加えて言えば、上の引用で、アメリカにとってのクロニカと同様、ヨーロッパにとっての騎士道物語が小説の起源として重要だと説いたバルガス=リョサが、騎士道物語『ティラン・ロ・ブラン』の研究でも知られている事実(岩波文庫版、全4巻〔田澤耕訳、2016-17〕には彼の序文が添えられている)は示唆的だ。フロベール論『果てしなき饗宴』(工藤庸子訳、筑摩書房、1988)の筆者でもあるバルガス=リョサの文学における志向の主要な部分はヨーロッパに向いているとみなすことも可能かもしれない。

 ラテンアメリカの歴史の縮図と読まれることも多い『百年の孤独』のみならず、18世紀植民地期を扱った『愛その他の悪霊について』(1994 / 旦敬介訳、新潮社、2007)や独立の英雄シモン・ボリーバルを主人公に据えた『迷宮の将軍』(1989 / 木村榮一訳、新潮社、2007)などの歴史小説もあるガブリエル・ガルシア=マルケスの場合は、実作品にもクロニカの影を読み取りやすいかもしれない。ひとまず、彼の主張を見ておこう(ちなみに、彼の『予告された殺人の記録』〔1982 /野谷文昭訳、新潮社、2008〕に言う「記録」はまさに「クロニカ」であり、これもやはり近代ジャーナリズムに言うそれだ。ガルシア=マルケスがジャーナリストとしても虚実ない交ぜになったような作品を書いているということは、彼が征服・植民地期のクロニカを現代のジャーナリズムのクロニカに実現しようとしているということなのかもしれない)。

 ガルシア=マルケスのノーベル賞受賞スピーチは「ラテンアメリカの孤独」(『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』〔木村榮一訳、新潮社、2014〕所収)という。自身の小説がヨーロッパで受け入れられるのは、ラテンアメリカは特殊で突飛な地域だとの先入観に合致するからに違いなく、まだまだラテンアメリカの社会は認知されていないのだとの主張は、受賞の誇らしさというよりは、ラテンアメリカの知識人たちがヨーロッパ人を前にして常に感じてきたのと同様の苛立ちを作家もまた感じていると言っているようである。特殊で突飛なものではなく、科学的ユートピアの実験が行われ、それが失敗に終わった場としてではなく、現在のラテンアメリカを、一種の文化的ユートピアとして見るように提唱するそのスピーチは、少し前までヨーロッパも突飛なことばかりであったことを思い出せばラテンアメリカが決して特殊な地域ではないことがわかるはずだとの前提に立っている。そしてその突飛なことを受け入れていたヨーロッパが、突飛な事象を外部世界に見出した例が新大陸すなわち現在のラテンアメリカなのであるというのが、実際のところのガルシア=マルケスの主張なのだろう。演説はマゼランに同行して記録を残したアントニオ・ピガフェッタのクロニカから始まり、遭難して波瀾万丈の逃亡生活を送ったアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカへと移り、これらクロニカにこそ「われわれの現代文学の萌芽となるものがうかがえる」(「ラテンアメリカの孤独」)との見解を示している。

 作風や扱う題材の違いを超え、ラテンアメリカ文学のブームを代表するふたりの作家ガルシア=マルケスとバルガス=リョサは、クロニカにこそ現代ラテンアメリカ文学の源流があるとする点で、このように一致を見ているのだ。そしてまたこうした主張の源流にカルペンティエールがいることも間違いない。『失われた足跡』におけるグミーリャやフンボルトの利用という技術的側面のみでなく、彼の主張にも一瞥を投げかけておこう。

魔術的リアリズムとは歴史である

 前回すでに述べたように、カルペンティエールがその独自の創作理念を表明したのは1949年に出版した中篇小説『この世の王国』(木村榮一、平田渡訳、水声社、1992)の序文においてである。ハイチ革命(1791-1804)を扱ったこの小説の着想の過程を開陳したその文章で作家は、シュルレアリストとその追従者たちの求める「驚異的なもの」が紋切り型の表現に堕してしまっていることを批判し、ハイチに、そしてラテンアメリカ全土にこそ「現実の驚異的なもの」があると主張している。その最初の成果が『この世の王国』であるというわけだ。

 しかし、この「現実の驚異的なもの」という用語には時間を混同させる作用がある。「現実」という、ともすれば同時性を示唆しているかに思われるかもしれないこの形容詞には、歴史が含まれているという事実を忘れてはならない。ハイチで「日々、現実の驚異的なものと呼ぶことのできる何かに触れていた」カルペンティエールが実感したことというのは、具体的には「私が踏みしめていたその大地ではかつて、自由を希求する何千もの人間がマッカンダルの狼つきの能力を信じ、そのことを皆が信じたおかげで、彼が処刑された日には奇跡が起きそうになったのだ」(『この世の王国』「序文」、ここでは拙訳を使用)などといった、百年以上前のハイチ革命の場景だったからだ。あるいは少なくともその名残がいまだに感じられる現状であった。実際、『この世の王国』はその百年以上前の革命を扱った歴史小説であることを改めて想起しよう。

 こうした、過去の歴史の痕跡が今も根強く残存するハイチにこそ「現実の驚異的なもの」があると述べた後で、これが「アメリカ全土の共有財産」だと敷衍する作家が挙げる例が、やはり、ことごとく歴史的な出来事・人物の数々である。

現実の驚異的なものは、アメリカ大陸の歴史に日付を書き入れ、その後、今日まで続く家系を残すことになった人物たちの足跡をたどれば、随所に見られる。不老不死の泉や黄金都市マノアを探し歩いた者たちから、初期のある種の謀反人たち、もしくは近代の、我々の独立戦争の何人かの英雄たち、たとえばひどく神話的な様相をまとったフアナ・デ・アスルドゥィ大佐といった人たちまでのことだ。私が常々意義深いことだと思ってきたのは、一七八〇年、まったくの気の確かなスペイン人たちが、アンゴストゥーラの港を出て、いまだに黄金郷エル・ドラード探索に向かったとか、フランス革命の時代——〈理性〉と〈至高の存在〉万歳!——に、サンティアーゴ・デ・コンポステーラの人フランシスコ・メネンデスが、〈皇帝たちの魔法の都市〉を求めてパタゴニアの地をさまよったという事実だ。この問題の別の局面に焦点を絞れば見えてくるのは、西ヨーロッパでは、たとえば、民族舞踊から魔術や祈祷の性格がことごとくなくなってしまったが、一方アメリカでは、深遠なる儀式の意味を内包しない集団の舞踊はめったに存在しないということだ。ほとんどがその意味にしたがって式次第が作られているのだ。例を挙げれば、キューバのサンテリーアの踊りの数々や、ベネズエラのサン・フランシスコ・デ・ヤーレの町で今でも観察される、聖体の日の祭の黒人たちによる素晴らしい実践などがそうだ(拙訳)。

 サン・フランシスコ・デ・ヤーレの悪魔に関しては本稿の前回で言及した。植民地時代、先住民文化とキリスト教文化の接触から生まれ、現在まで続く習慣になっている祭礼で、これをカルペンティエールは折に触れて引き合いに出しているし、『失われた足跡』でもその様子を描写しているのだった。「現実の驚異的なもの」が現代社会に顕現するものだとすれば、それは歴史の痕跡を残しているからなのだという実例だ。

 サン・フランシスコ・デ・ヤーレの悪魔の例を出す前には、「現実の驚異的なもの」とは「アメリカ大陸の歴史に日付を書き入れ、その後、今日まで続く家系を残すことになった人物たちの足跡」にこそ見出されると述べている。南米の解放戦争で勇名を馳せた女性の軍人フアナ・デ・アスルドゥイやフランシスコ・メネンデスといった実名の挙がっている人物だけでなく、ただほのめかされているだけの人々についても、クロニカやラテンアメリカの歴史、あるいは20世紀ラテンアメリカ文学になじんだ者ならば思い当たる節があるだろう。「不老不死の泉や黄金都市マノアを探し歩いた者たちから、初期のある種の謀反人」というと、たとえば16世紀、ペルー副王の命を受けて黄金郷(エル・ドラード)探索に乗り出した一団にあって、権謀術数と残忍な処刑によって統率者に成り上がり、自ら「自由の王」を名乗ったロペ・デ・アギーレの名が想起される。後にスペインのラモン・J・センデールやベネズエラのアルトゥーロ・ウスラル=ピエトリ、ミゲル・オテロ=シルバ、アルゼンチンのアベル・ポッセらによって小説の題材として取り上げられ、ドイツ人ヴェルナー・ヘルツォークやスペイン人カルロス・サウラが映画化もした、作家たちの想像力を刺激してやまない人物だ(映画はいずれも日本でも公開されたが、小説はわずかにオテロ=シルバの『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』〔牛島信明訳、集英社、1983〕の翻訳があるのみ)。1780年に「アンゴストゥーラの港を出て、いまだに黄金郷エル・ドラード探索に向かった」「まったくの気の確かなスペイン人たち」の名は特定できないものの、アンゴストゥーラが現在のボリーバル市、すなわちオリノコ河沿岸の主要港湾都市であることを思えば、この大河を探検した幾人もの名が思い浮かぶ。イギリスのウォルター・ローリーにはじまるそうした人物の名は、そもそもカルペンティエールが『失われた足跡』の中で挙げているのだった。

スペイン人が「セルグアテラーレ」と呼んでいる男(引用者注:ローリーのこと)の名を口にした〈植物採集家〉は、続いて驚異的な冒険の証人たちを呼びだすことを思いついたが、証人たちはその名が呼ばれると、闇のなかから姿をあらわし、われわれのたき火で、鎖帷子や防矢用の綿入れチョッキをあたため始めた。やってきたのはフェーデルマン、ベラルカサル、エスピーラ、そしてオレリャーナで、その後に彼らの従軍司祭、鼓手、サックバット奏者がしたがい、また代数学者、薬草採集人、死体処理人からなる、神気ただよう一団もついてきた。彼らはちぢれたあごひげの金髪のドイツ人であり、山羊ひげの瘦せたエストゥレマドゥーラ人であったが、彼らの乗っている駿馬はゴンサーロ・ピサロの馬と同じように、〈黄金郷〉のさだかではない領域に足をふみいれたときから、どっしりとした金の蹄鉄を打たれていた。しかし特筆すべきは、スペイン人が〈ウーレ〉と呼ぶ、フィリップ・フォン・フッテンであり、記憶にあたいするある午後、丘の頂から黄金の都マノーアの偉容とその輝きわたる城塞を部下にかこまれてぼうぜんと見おろした彼は、驚きのあまり声も出なかったのである。(岩波文庫版、訳文内の割注を省略した)

 フェーデルマンやオレリャーナといった、フンボルトにも言及されているこれらのドイツ人やスペイン人征服者たちは、いずれもオリノコ河を旅し、黄金郷を見たとされる。アメリカ大陸の黄金郷伝説を強化した人々だ。この伝説が『この世の王国』序文にほのめかされた「まったくの気の確かなスペイン人たち」を冒険に駆り立てたのだろう。最後に名の挙がったフォン・フッテンは、『失われた足跡』では、この後も語り手が〈先行者〉をそれに見立てるなどして名の挙がる重要人物である。この人物に関してはガルシア=マルケスと同年のベネズエラの作家フランシスコ・エレーラ=ルケが小説にしている(La luna de Fausto, 1983 / 未訳)。

 このように、その後の作家たちの題材となる歴史的人物を想起しながら、そこにこそ「現実の驚異的なもの」があると述べたのが『この世の王国』序文なのである。「現実の驚異的なもの」の理念を具体化したものが自身の小説なのであるから、カルペンティエールはつまり、歴史的人物やそれを記したクロニカにこそ小説の源流があると言っているのだ。後にバルガス=リョサやガルシア=マルケスが異口同音に述べたことを先取りしているのである。

 ところで、前回から『この世の王国』序文を引き合いに出しつつ、言及を避けてきたことがある。1960年代のいわゆるラテンアメリカ文学の〈ブーム〉は一群の作家たちを世界的なスタンダードに押し上げたけれども、同時に彼らにあるレッテルを貼ることになった。「魔術的リアリズム」あるいは「マジック・リアリズム」というそれだ。とりわけガルシア=マルケス『百年の孤独』の作風として読まれ、喧伝され、参考にされ、世界に広まったその用語は、しかし、その後ラテンアメリカ文学に付与される紋切り型のイメージとして後の世代の者たちを苦しめ、それからの訣別を表明させた。そんな「魔術的リアリズム」の作風もしくは創作理念のラテンアメリカにおける最初の表明として読まれたのが『この世の王国』序文(およびそれに加筆したエッセイ「ラテンアメリカにおけるバロックなものと現実の驚異的なもの」)とされている。この定評に触れずに来たのだ。

 「魔術的リアリズム」という語の伝播について、ざっと経緯を確認しておこう。これまでも何度か名前を挙げたドイツの美術評論家フランツ・ローが1925年、表現主義以後の潮流(新即物主義)を指してこの語を使ったのが発端だった。1927年にはパリとローマで発行されていた 900 (ノヴェチェント)という美術雑誌の編集長マッシモ・ボンテンペッリがこの語を用いて新たな潮流への期待を表明している。同年にはスペインのオルテガ・イ・ガセーが発行していた雑誌「西欧評論」にローの論文の翻訳が出る。オルテガおよびその雑誌の影響力の絶大さを思えば、これはひとつの決定的な出来事だったけれども、同時に、ボンテンペッリと当時パリにいたベネズエラの作家アルトゥーロ・ウスラル=ピエトリが懇意であったことなどもこの語の広がりにとっては重要かもしれない。ウスラルはまた、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスやカルペンティエールとも頻繁に会っていた。このウスラルが、ハーヴァード大学での講義を基にまとめ、メキシコの出版社フォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社から1948年に出版した『ベネズエラの文学と人』(未邦訳)のある章で、40年代のベネズエラの短篇小説群内に「他に言葉がないので、あえて呼ぶならば魔術的リアリズムとでも呼べる」(Letras y hombres de Venezuela 〔FCE, 1948〕)傾向を認めた。ウスラルは後に、自分とアストゥリアス、カルペンティエールとのパリでの交流が「魔術的リアリズム」の誕生に与したことを誇らしげに回想している( “Realismo mágico”, Cuarenta ensayos 〔Monte Ávila,1990〕所収)。ちなみに、カルペンティエールは45年からベネズエラの首都カラカスに住み、当地の雑誌に短篇を発表していた(それらをまとめたものが『時との戦い』〔1956/鼓直訳、国書刊行会、1977〕)。そしてウスラルの本の翌49年には、すでに確認したように、ヴードゥー教の視点からハイチ革命を見直した『この世の王国』を発表し、その序文で「現実の驚異的なもの」の理念を高らかに謳い上げた。同年、アストゥリアスは『トウモロコシの人間たち』で先住民の世界認識と農業資本の衝突を描いた。1954年末、アメリカ合衆国最大の文学・言語学学会MLA ( Modern Language Association ) での学会発表でアンヘル・フローレスが「イスパノアメリカ文学における魔術的リアリズム」という発表をし、翌年、雑誌 Hispania に掲載された。1967年、『百年の孤独』出版と同年、メキシコ人批評家ルイス・レアルは「イスパノアメリカ文学における魔術的リアリズム」という文章を発表、カフカの影響で1935年ごろからボルヘスらに始まる潮流というアンヘル・フローレスの記述に反論し、この理念をロムロ・ガリェーゴスらにすでに見られるイスパノアメリカ(スペイン系のアメリカ、つまり、ラテンアメリカ)特有のものとして再定義した。

 何かが流行するときというのは常にそうしたものだろうが、このように列挙してみると複数の出来事がほぼ同時に発生し、この語の伝播に寄与していることがわかる。ローの論文はわずか2年のうちにイタリア、フランス、スペインに広がり、そこにいたラテンアメリカ作家の脳裏に焼き付けられた。しばらく時間をおき、やはり2年のうちに、後に先駆的とされる作品や評論が発表されている。フローレスの発表と論文はその前後の出来事とは時間を異にしているけれども、発表の場を考えると、ウスラル=ピエトリの文章同様、対外的な宣伝として機能したかもしれない。そしてレアルの主張は『百年の孤独』の爆発的ヒットと同じ年になされたのである。「魔術的リアリズム」という用語は、このように世界に(グローバルに)流通するに至ったのだ。

 その後、カレン・テイ・ヤマシタ『熱帯雨林の彼方へ』(1990/風間賢二訳、白水社、1994)のような英語圏の作家がラテンアメリカを扱った作品のみならず、トニ・モリソンやサルマン・ラシュディ、ミラン・クンデラ、莫言らの作品にも適用されるようになり、「魔術的リアリズム」もしくは「マジック・リアリズム」という用語はすっかり一般化した。今ではウディ・アレンの映画や村上春樹の小説などにもその語が適用されることがある。そのラテンアメリカ以外での広がりについてここで確認する余裕はないが、ともかく、そういう現状を考えるに、世界的(グローバル)な「流通と読みのモード」(デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か』の定義)としての世界文学の一ジャンルとして「魔術的リアリズム」を捉えるというマリアーノ・シスキンド( “The Genres of World Literature: The Case of Magical Realism”, Theo D’haen, David Damrosch and Djelal Kadir ed. The Routledge Companion to World Literature 〔Routledge, 2011〕所収)の議論には説得力がある。

 シスキンドはその論文「世界文学の諸ジャンル――魔術的リアリズムの事例」でいくつかの興味深い指摘をしているが、「魔術的リアリズム」という「世界文学のジャンル」の代名詞とされた『百年の孤独』がある種の戦略によってグローバルに流通した作品であるという事実の指摘は、ここでも繰り返しておきたい。スダメリカーナというアルゼンチンの出版社から出されたこの作品がわずか2週で2刷8000部を売るに至ったのは、編集者パコ・ポルーアのみならず、当時アルゼンチンの文化的羅針盤として機能しよく読まれていた雑誌『第一面』の編集長だったトマス・エロイ・マルティネスの尽力があってのことだ。そしてまた後に多くのラテンアメリカの作家たちの代理人として知られることになるエージェントのカルメン・バルセルスが翻訳権の扱いを自ら引き受け、数年のうちに伊・仏・独・英といった主要言語への翻訳を可能にしたことも重要だ。つけ加えるなら、日本語訳も他のラテンアメリカ文学の〈ブーム〉の作品に先駆け、比較的早い時期、1972年に出版されている。主要な批評家・紹介者が前もってプルーフで読み出版と同時にプロモートしたり、エージェントが翻訳を働きかけたりと、今となっては当然の流通戦略の初期の成功例のひとつが『百年の孤独』だったといえるようだ。

 このように時勢に乗って世界に広まったのが「魔術的リアリズム」という語であり、その代名詞としての『百年の孤独』であった。それはいわば、ラテンアメリカ文学を世界文学の一角に位置づけるための通行手形であったのだろう。世界文学という概念がグローバル化の時代の比較文学のあり方を示しているのだとすれば、グローバル化された通貨となったのだ。それが「魔術的リアリズム」という用語の流通のあり方と言えるだろう。

 「世界文学のジャンル」のひとつと捉えることによってこの語が今では「ラテンアメリカ的」あるいは「第三世界的」表現様態という属性から解放され、普遍化されたとみなすシスキンドを援用することにより、私はいまだにラテンアメリカ文学に「魔術的リアリズム」の語を当てはめて語ろうとする紋切り型を払拭したいと考えている。そもそもカルペンティエールはすでにその生前、自身がこのジャンルの先駆者だとされることに反発を覚え、不快感を表明していた。後の世代の作家たちがこの語にうんざりし、反発を感じたことは前にほのめかした(もう20年以上も前にそうした現象が見られたのだが、そのことについては次回、少しばかり触れるかもしれない)。彼ら同様、私もまたこうした紋切り型に辟易しているのだ。上に見たような経緯で世界化したこの語のラテンアメリカとの繋がりは歴史的な(過去の)ものでしかない。しかもそれはラテンアメリカの外で流通することによって肥大したものなのだ。

 そして「魔術的リアリズム」と呼ばれた表現ジャンルあるいは作風の様態をあえて定義するなら、歴史小説、もしくはクロニカと関係を取り結ぶ作品群の総称であるというのが、本稿冒頭からの私の主張である。「魔術的リアリズム」を提唱したひとりアンヘル・フローレスはラテンアメリカの文学に新奇な点は「リアリズムと幻想のアマルガム」が見られることとしているが、「リアリズムに関しては植民地期からのことであるが、とりわけ1880年代から見られる。魔術的な要素はもっと古くから多くの文物に見られる。コロンブスの書簡、クロニカ作者たち、カベサ・デ・バカの物語などだ。そしてその要素がモデルニスモの時期を通じ主要な文学の潮流を形成するにいたったのだ」(スペイン語訳 “El realismo mágico en la narrativa hispanoamericana”. Traducción de Miguel Rodríguez, Lectura crítica de la literatura americana: Vanguardias y tomas de posesión Tomo III 〔Biblioteca Ayacucho, 1997〕所収)と言っている。つまり、クロニカこそが現代文学の源流であるとするカルペンティエールからガルシア=マルケス、バルガス=リョサへといたる作家たちの認識を再確認しているのだ。

 もちろん、「世界文学のジャンル」となったとき、それはもはやクロニカとの関係を意味しない。より広い定義をあえて求めるならば、参考になりそうなのが種村季弘『魔術的リアリズム――メランコリーの芸術』(1988/ちくま学芸文庫、2010)だ。種村はここでフランツ・ローが付与した本来の意味、すなわち新即物主義の美術を取り上げるのだが、それをイタリアのジョルジョ・デ・キリコらの補助線を頼りに同時代にフロイトが理論化したいわゆる「不気味なもの」の概念と結びつけている。なるほど、フロイトの「不気味なもの」こそが「マジック・リアリズム」だと断言した方が現状に適っているように思うのだ。

 原点に還ってフランツ・ローの議論を見るならば、彼は、すでに何度か引用したように、描く対象が異なればジャンルが異なると述べているのだった。つまり、表現主義の技法でもって表現主義が対象としなかったものを描いたのが「魔術的リアリズム」なのだった(英訳 “Magic Realism: Post-Expressionism” Lois Parkinson Zamora and Wendy B. Faris ed., Mag-ical Realism: Theory, History, Community 〔Duke U.P., 1995〕所収 )。魔術(マジック)を用いて現実を描くか、もしくはリアリズムの手法をもって魔術的なものを描くジャンルこそが「魔術的リアリズム」であると述べれば、それで事足りるというのが、私の理解である。そして、そうであるならば、それは慣れ親しんだheimlichものが突然、不気味なunheimlichものに転化するというフロイトの「不気味なもの」の観測にも通じるだろう。そもそもそれは現実を異化するという文学の機能の本質のひとつなのではないか。そこにことさら新奇な専門用語を付与して喧伝することでもないと私は思うのだ。

 そんなわけで、私は以後、「魔術的リアリズム」という用語によってラテンアメリカ文学の特徴を述べることはしない。20世紀のラテンアメリカ文学は文学作品のごく正統なあり方として現実を異化して描いたのであり、より個別な特長として見るなら、その原点にクロニカの存在を見出し、歴史に題材を見出したのである。その歴史に関して、次回は今少し詳しく展開することにしよう。

プロフィール

柳原プロフィール写真_丸

柳原孝敦(やなぎはら・たかあつ)
1963年、鹿児島県名瀬市(現・奄美市)生まれ。東京外国語大学大学院博士後期課程満期退学。博士(文学)。東京大学教授。著書に『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会)、『ラテンアメリカ主義のレトリック』、『劇場を世界に——外国語劇の歴史と挑戦』共編著(以上、エディマン/新宿書房)、『映画に学ぶスペイン語』(東洋書店)。訳書にアレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会)、フィデル・カストロ『少年フィデル』、『チェ・ゲバラの記憶』監訳(トランスワールドジャパン)、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』共訳、カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、(以上、白水社)、セサル・アイラ『文学会議』(新潮社)、フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社)ほか。

「亜熱帯から来た男」過去の記事

第1回 ラテンアメリカ文学との出会い

第2回 古本屋のオヤジにも喫茶店のマスターにもなれなかった

第3回 ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら①

第4回 ラテンアメリカ文学概説——カルペンティエール『失われた足跡』を読みながら②

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?