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真理と狂気、そして『禅とオートバイ修理技術』の書評。

連休にゆっくり読もうと思っていた本を、貪るように読み尽くしてしまった。
『禅とオートバイ修理技術』。
とても不思議で、魅力的な取り合わせのタイトルである。

人は無意識的に、AとBの2つの言葉が並んでいると、その関連性を考えてしまう。
それが非常識的であるほど、ある人にはこの上なく魅力的に思えるし、またある人にはまったく興味をそそらないものとなる。
この本が多くの出版社から出版を断られつつ、結果的にベストセラーになったということは、内容もさることながら世の中に「禅」と「オートバイ」の関連性を魅力に感じる人が多かったということを示しているようで、とても興味深い。

この本を読もうと決めたのはある種必然でもあったのだが、ここ数ヶ月、初期の仏教やインド哲学に親しむ中で「どうやら各思想や宗教で語られている根本原理や真理というものは、どれも同じものを示しているようだ」ということを考えていた。

例えば仏教の「空」、インド哲学の「ダルマ」、中国哲学の「道」、ギリシア哲学の「アレテー」は、すべて人智を超え、言葉では明確に言い表せないものの、あらゆる現象の背後にありその根本原因になっているなどの点で、同じ性質のものと捉えた方がしっくり来るのだ。

もっと言うと、「真理」という1つのものを違う人が各々の言葉で説明しようとした結果、それが異なるもののようになってしまっただけなのではないか。

そこで、試しにGoogleで「ダルマ アレテー 空 同じ」などと検索してみたところ、Amazonの書評で「禅、道、クオリティ、アレテー、ダルマ、これらのつながりが理解できた」と書かれていたのが、この『禅とオートバイ修理技術』との出会いなのであった。

話の流れ自体は単純で、オートバイで旅をしながら思索を巡らす、現実の旅と精神の旅が折り重なりながら進行していくのが、本書の大筋である。
しかし、主人公(著者)の境遇や気質の特異性が、この本を独特なものにしている。

何せ主人公の男性は精神病の治療として受けた電気ショックで過去の記憶を失い、別人格として生きているのだ。
そして、巡らす思索というのは、過去の自分が発狂するまで取り組んだ<クオリティ>という概念に沿ったものなのである。

自分の失った人格が、文字通り必死に追求した思想を、別人格の自分が解き明かしていく。

この筋書きが面白くないわけがないが、これもレビューに書いてある通り、基本的には難解だし、一読すると意味不明な部分も多いと思う。
ただ、この本には「自分が思う正しい生き方をしたい」と願い抗った人間の、圧倒的な熱量を感じる。
その意味で、目の前の現実以外に目指したい道があるような人には、勇気づけられる部分もあると感じる。

では、一体何がこの本を難解にしているのか。
それは一言で言えば「自分の世界との接し方を疑った人の思考は、そうではない人の思考とは本質的に異なる」ということになると思う。

このために、「自分と世界」が「ズレている」という実感を持つことがない、または持ったとしてもその問題に取り組んだことが無い人にとっては、著者の行動原理や思索の道筋は端的に言って「理解できない」、つまり狂っていることになる。

そもそも狂うとは何かと言えば、それは常軌を逸しているということである。
常識の範囲に無い、これまで接したことのないような価値観や思考、論理展開に出会った際に、それを理解できないのは当然のことである。
なぜなら、人間は自分がすでに知っていることしか理解できないからだ。
仮に1つ1つの言葉の意味は理解できても、自分に存在しない価値観は理解できないし、ましてや受け入れることもできない。

それでは、この主人公の何が常軌を逸しているかというと、先に挙げた<クオリティ>という概念に合わせて世の中の仕組みを再構築して、自分自身の価値観も変え尽くしてしまったことである。

普通、世の中に不平や不満があっても、それを根底から変えてやろうとはなかなか思わない。
仮に思ったとしても、それは事業を起こすとか政治を変えるとか革命を起こすとか、いずれにしても現実的な世界を変える方向に進む場合の方が多い。

ただ、この主人公は現実的な世界を変えても本質的には変わらないことを理解し、精神的かつ構造的に、一人で勝手に世界を変えてしまう。
それは主観と客観という西洋的な思考法を超え、神や哲学といった規範も超え、<クオリティ>という自らが設定した「あるものの質・または純粋な良さ」といった概念を、世界の根本原理に据えてしまうのである。

これがどういう結果をもたらすかと言えば、彼は彼の作り替えた世界の神になるのだが、その理想の世界と目の前の現実のギャップに耐えきれず、狂ってしまう。
それは信仰が純粋であればあるほど「神はなぜこの世に飢餓や戦争を残しているのか」「自らのカルマを知らず堕落し切った人間がこれほどまでに多いのは何故なのか」と同じレベルで「<クオリティ>を実現するための世界で、なぜこんなにも<クオリティ>が低い現実が生じてしまっているのか」という強い絶望が生じてしまうからである。

ここにある図式は、理想=真理に辿り着いたという興奮と、現実=歪んだ世界にしか生きられないという絶望の耐えられないギャップである。
自分が純粋であろうとすればするほど、現実の歪みへの嫌悪感は堪えられないものとなる。「そんなことをああだこうだ言ってみたって、それが現実ってやつだよ」という言葉は、現実の仕組みの中で生きていく上では役立つが、その仕組みを超えてしまった人には悪魔の声にしか聞こえない。

というわけで、真理に辿り着いた人間は狂気の人間であると言える。
イエスもブッダも、その他のあらゆる聖人も、常軌を逸しているという意味では狂気の人間だと思う。そうでなければ、何千年も続く思想を残せるわけがない。
そう言えば、哲学者の永井均氏も「デモーニッシュな狂気」という言葉でマザーテレサを評していた。
偉大な人間の背後には、常人からすれば狂気としか言えない思想が宿っている。
ただ、あまりにも偉大なので、そうとは気づきにくいだけである。

逆に言えば、現代は狂った人間を生み出しにくいがゆえに、新しい思想が出てこないのだと思う。それは合理的な思想や、それを伝える教育や、国家や、科学や技術の発展といった様々な要因によるもので、現実の安定を考えればそれ自体は称賛すべきことだ。

ただ、それはあくまでも現実を是とした場合に限られる。
主人公のいう<クオリティ>、インド哲学におけるダルマのような「人間の生存における根本原理」のような問いに対する取り組みはほとんど深まっておらず、数千年前の思想を学び直すのが関の山である。
その問いに取り組むには、ほとんどの人は言葉と現実に囚われすぎてしまっている。
一握りの、主人公のような人間だけが真理の一旦を垣間見て、そして狂っていく。

主観と客観を区別する西洋思想の中には、精神的な真理が無い。
全と一の根源的一致を説く東洋思想の中には、現実的な基盤が無い。
そもそも真理とは言語を超越しているので、この記述にも意味が無い。
インド哲学いわく、神とは人間から言葉を引き算したものである。
だから、芸術の領域には時々神が降りてくる。若干の狂気を伴って。

それはそれとして、今現在、人間について考えるにあたって「物理」「意味」「時間」「精神」の4つの世界を区別する必要があるのではないかと思っている。
この領域はそのうち変更されるだろうが、それぞれを明確に区別しながら人間について掘り下げていくことで、これまでとは違う方向性の思索が進んでいく気がする。

願わくは、狂気に陥らない範囲で、この道を進んでいけますように。

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