蜘蛛の糸

小説『エミリーキャット』第6章・焔の痕

慎哉は恐怖で凍りついたようになり、逃げ出したい想いにかられたが、その想いに必死で抗(あらが)いながら黒いダッフルコートを脱ぐと、それで火元である雑誌を懸命に叩いた。
一瞬火はひるんだように緩むが、また怒ったように瞬時に、かえって勢いを増すように感じられ、慎哉は動揺し今更ながら戦(おのの)いた。
恐怖と戦いながら取り返しのつかないことをした恐ろしさに押しひしがれながら、彼は必死でコートで雑誌を叩き、燃え尽きかかっていた雑誌の消火をなんとか遂げた。
燃える垣根に今度はコートをかざしたが、限界を超えてコートに火が燃え移り、彼は女の子のような可愛らしい悲鳴を上げてコートを路面に投げ棄てた。 


隣家がその声と異臭や煙にようやく気づき、消防車が呼ばれたが恐ろしいほど熱く、狂おしい黒煙と共に赫い火柱を上げて燃え盛っていたかのように慎哉の目には見えた焔も、後日、救急隊員の話によれば『ほんの小火(ぼや)』程度にしか過ぎなかったらしく、消火はあっという間の出来事だった。
慎哉は警察で取り調べを受けた際、全てを素直に詳述した。
悔しく痛んで軋む胸の内を家族以外の誰かに全部吐露してしまいたかった。
それと引き替えに前科がついても全く構わないと思えるほど、その時の慎哉は追い詰められていた。
生活安全科の初老の刑事は17歳の少年の行く末を想い、ライターが無いことを理由に犯人は彼ではないという、にわかには信じられないことにしてくれた。
『ちゃんとことの顛末を全部話したんだぜ俺は、少刑送りにまではならないとしても、多分親が罰金とか処罰を受けるんだろうなとか、グルグル頭の中をそんな姑息な考えが回るのをずっと止められなかった』
『でも警察は記録を書いて残す人がいるでしょう?そんな特別なことが出来るの?』
彩はたった今、その火柱を見ているかのように恐々と鼓動する胸に耐えて訊いた。
『多分だけどそういう特別なことが出来る立場の人だったんじゃないかな…』
寂しそうな慎哉の横顔を見て、彩は後悔に手術痕の胸が軋むように痛んだ。
あぁ私は何も貴方のことを解っていなかった、何も知らずに目玉焼きの乗ったナポリタンのことのほうが、私を労るより大切なお子ちゃまだなんて簡単に軽蔑したりして…。
彩は慎哉の横顔を今は深い傷痕となった胸に抱き締めて声を殺して泣いた。
『シンちゃんシンちゃん…貴方は何も悪くないわ、大丈夫よ、貴方はとっても立派よ、偉かったわね、辛かったわね』
彩の腕の中で慎哉は今まで感じたことの無い深い母性を感じた。
『何が立派で偉いだよ?俺、放火犯なんだぜ』
『そのご年配の刑事さんは、きっとシンちゃんがこの先二度とそんな過ちを繰り返さない、そんな人間じゃないって、シンちゃんの本質をきっと見抜いたのよ。
だから貴方の未来を想ってきっとそうしてくださったんだわ、シンちゃんは今、立派な社会人になったじゃない、その刑事さんは今のこの未来を見越していたのよ、だからそれを潰したくなかったんだと思うわ、誰も悪くないのよ。
誰もがみんな悲しくて、幸せになりたくて、誰もがみんな辛くて、寄り添いたくて、でもそれが出来なくて… 。
だから苦しくて…。
シンちゃんはまだ少年だったんですもの、ただ愛されたかっただけの少年だったんですもの』
『彩…!』慎哉は彩の胸に顔を埋めて泣いた。
慎哉の父と夫婦同然に親密になってしまった女性のことは、やがて母の知るとことなったが、すると奇妙な現象が起きた。
母が急に今までずっと冷然と接してきた父に対して、今度は愛情めいた言葉を口にし始めたのだ。
父は病いの母と別れるつもりは無かった。
また相手の女性は夫と死別していたものの、独りで育て上げた、二十代の息子もいたので無理な再婚は望んでいなかった。
だが逢瀬だけは相手の女性の家で続いた。
その女性と別れて欲しい。
いい妻になるわとすすり泣くばかりで何もしない、弱々しいだけの母に妹が、しらじらと冷たい視線を送るのを慎哉は信じられない想いで見た。
『可哀想だと思わないのか?母さんは病気なんだぞ!』
『可哀想?可哀想なのはお父さんのほうよ、私達に尽くしてお母さんにまで…お父さんはあの人の奴隷じゃないのよ、離婚しないで最後まで面倒看るって言ってるだけお父さんは立派よ!』
3年後、慎哉が二十歳のやはりまだ寒くて浅い春、母は死んだ。
母が1日経っても2日たっても、部屋から全く出てこないのを不審に思った父が部屋へ入ると母はベッドの上で冷たくなっていた。
彼女は大量に数年かけて溜め込んでいた精神病薬と睡眠薬とを、一気にウィスキーで飲み干していたが、その直前のことだったのだろう。
頸動脈を化粧用剃刀で掻き切っていた。
母と母の白いネグリジェとベッドは、既に凝結してしまった血の海の跡となって発見された。
発見された時、母は昔の恋人とふたりで写った色褪せた写真を枕許に置いていた。
慎哉の父はその後、女性と別れ母の部屋には鍵をかけたまま、今でもその家に独りで棲んでいるという。
『妹さんはどうしたの?』
彩の問いに落ち着きを取り戻した慎哉は、彩が香り高く淹れたコーヒーを安堵感に包まれながらひと口飲むとやっとこう答えた。
『あいつはとうに結婚して、今旦那の仕事の赴任先のバンクーバーにいる』
『カナダ?』
『うん結婚してもしょっ中親父に逢いに実家に帰っていたけれど、今はもうそれは出来ないな、でも国際電話は頻繁にあるらしいけど、晴夏は父親思いだから』
『私達も晴夏さんのように、結婚しても頻繁にお父様に逢いに行って差し上げましょうね』
彩は慎哉の父とはホテルのレストランや外でしか逢ったことが無かった。
何故だか彩が慎哉の実家を訪ねたがっても、まるで忌諱(きい)に触れるかのように、それを避けようとする慎哉と慎哉の父に彩は一抹の不思議さを感じていたが、その謎が今日全て解けたのだ。
『怖くないのか?そんな家に行くの…そりゃ俺や親父にしてみればずっと長年暮らしてきた家族だからあんな死にかたしたっていっても、その部屋さえ永久に閉ざしてしまえば、案外暮らせるものなんだ…。


でも彩が無理することはない、あそこで暮らすことは勿論だけど訪ねる必要も無いよ』
『私、そこでお父様とシンちゃんと一緒に暮らすことだって平気よ』
『馬鹿言うなよ、俺はあの家は親父の言う通り親父の代でもう手離すつもりでいるんだ、土地を売って親父が亡くなればあの家は取り壊して…新しい家が建って、やがてそこに誰かが住むだろう、そして新しい家庭の歴史がまたそこで始まるんだ。
それでいいんだ、でも俺達は全然違うところで出発しないといけない。』
『でもいつでも言ってね、私少しも怖くないのよ、お父様のお宅に行くことも、住むことも…。
だって何故怖いの?愛する人達と一緒に暮らすのに、愛する人達に尽くせるところは選ばなくてもいいわ。
私がそんなことより、もっと怖いのはシンちゃんが私の前から居なくなってしまうことよ。
私の世界から、もしシンちゃんが消えてしまったら、シンちゃんが私を愛さなくなってしまったら…って考えたら、私にとってこんなに怖いことは無いわ。
貴方を失ってしまうことのほうが私にはよっぽど恐怖よ』
『そんなことは起きないよ、大丈夫、ずっと彩と俺は一緒だよ』
彩はそれには答えず、ただ慎哉の肩にそっと寄り添った。





(To be continued…)

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