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《コラム》 自分を受け入れ真の自分になる為に ~アドラーの心理学から見る価値観とその改革①~

皆様、こんばんは。かんおさです。

今回は、前から書こう書こうと思っていたのに全然書く機会が取れなかったこのテーマについて、自分なりにまとめてみたので、ご紹介していきたいと思います。

皆様、アドラーの心理学と言うものを聞いたことがあるでしょうか?
詳しい話は割愛しますが、三大哲学と称される「アルフレッド・アドラー」さんが提唱したものです。

近年、ある本が人気となり一気に有名になったらしいのですが、お恥ずかしい話ながら、私はその本の存在に気が付かず、先日ようやくめぐり逢い、とても興味深く読了致しました。

その時に受けた衝撃は、本当に計り知れないものです。
何せ、ぽんこつな私が今まで生きてきて無い知恵を絞りつつ、自分と向き合い、足掻き、そして最終的に到達した論理というか自分なりの真理と申しますか、それと妙に似たような考えがそこに書かれていたのですから。

つまり、私はこの本を読んでいればもっと楽にこの境地に到達出来ていたかもしれない訳です。マジか。
何となく損をした気分にもなりましたが、同時に、やっぱり突き詰めればそうなるよね、という実感もあります。
しかもそれは100年前の理論であり、そのあまりにも時代を先取りした考え方に、二重の意味で度肝を抜かれました。

そこで今回は、私の経験や考え方を土台にしつつ、アドラーの心理学も取り入れながら少しかみ砕いて、表題の件について私の考えを勝手に語りたいと思います。

【注意】

アドラーの心理学に触れたことがある方はお分かりかと思いますが、この理論は非常に過酷で厳しい側面も持ち合わせております
一般的な(特に日本的な)価値観をお持ちの方は、場合によってはショックを受ける方もいらっしゃるかと思います。
特に自分に対しての向き合い方が根底にあるので、自分を嫌いな方は特に受け入れられない部分もあるでしょう。

また、感情や情動などを大切にされる方にとって、この考え方は理解に苦しむかもしれません。
その辺りも突き詰めれば、実はそんな事はないと分かるのですが、ある意味で劇薬のようなものなので、読み進める場合は、覚悟してお読みください。

最初に

まず最初に、私は心理学を勉強したこともありませんし、何か宗教学、哲学等の特別な教育を受けたこともありません。
なろう系を読み漁り、オタクライフを生きる、どこにでもいる底辺世界のおっさんです。
まぁ、その辺りはこちらの記事を読んで頂けているのであれば、嫌という程理解できていると思いますので、割愛いたします。

つまり、何が言いたいかと言えば、私は心理学に連なる論理やら学問での反証や議論には一切興味がないということです。
今から書くことは、あくまで私が経験し考えたことを踏まえて、自分の言葉で書き記したものです。

それは恐らく、既に多くの学問や理論で名前を与えられ既知のものとして存在していると思います。
何やら固有名詞が付き、尤もらしく解説されているであろうことは、想像に難くありません。
ですが、それは私からすると、どうでもいいのです。

今回、この駄文をこしらえたのは、拙い私の言葉で、どこかの誰かが、何かを考えるきっかけになればと思ったからなのです。
そして、その目的の大部分は私の身勝手な自己満足感を満たす為であると付け加えさせていただきます。
その為、ご批判等されるのは自由なのですが、私はそれを受け取る事はないと思います。
正しさや、学術的な見地は求めていないことを、どうか心に置いて、それでもなお宜しければお読みいただければと思います。

「わたし」を形作る土台は何なのか?

生きていると不思議に思うことが沢山ありますが、一番不思議な存在はもしかしたら自分自身なのかもしれません。

取り留めもなく浮かぶ意識。目に見える風景。音、触覚。
感覚と自分の意識が常に連動しながら、様々な事を脳裏に描かせます。

今、この文章を読んでいる皆様も、きっとこの文字を反芻しつつ、別の何かを感じ考えていると思います。

過去、ニート生活を送って時間があったので、そういう事をずっと考えていました。
なんせ、金はないけど時間だけは有り余っていましたからね!

「わたし」という存在は、何をもって作られているのか。
今の「わたし」はどうやって形作られてきたのか。
そんな事を飽きもせず考えていた時期がありました。

そうして、考えて突き詰めていった結果、自分なりに一つの結論を得ました。

恐らく、「わたし」を形作っているのは、価値観の集合体なんだろうと。

少し乱暴で大雑把な意見ではあると思いますけど、私はこの形で納得しました。

では、価値観とは何でしょうか?

それは、物の価値を判断する物差しのようなものであると私は理解しています。

例えば通貨。
諭吉さんの紙幣、欲しいですよね。
何枚あっても良いです。ウハウハです。誰か私に恵んで下さい。

例えば、飛行機。
かっこいいですよね。けど乗りたくないって人もいるかもしれません。

例えば、愛。
憧れますね。私も多少は持っているはずですが、どれくらいなのか自分でもわかりません。

有形無形に限らず、人がおおよそ認識できるすべての物に、価値は存在しています。
そして読んでもらってお分かりの通り、それは恐らく、全ての人が持っているにも関わらず全く同じにはならないものでもあります。

「え? なんで? お金とか誰が見たって同じじゃん」って思う人もいるかもですが、それはそういう一面を定義され刷り込まれているからに他なりません。

福沢諭吉紙幣は、1万円という価値を持ち、日本の紙幣である。
そういう一方面の情報を皆で共有しているからこそ成り立つ価値観です。

ですが、同じ福沢諭吉紙幣を別の角度から見ると、また違った価値が見えます。
単なる紙であり、日本がその価値を保証しなければ、文字通り綺麗な紙屑である。

つまり、価値観とは唯一でもなく絶対でもなく、また同じものに複数存在することもあるということです。

難しい感じになってしまいましたが、要は、価値観は人の数だけ存在し、皆、異なるという点に注目しておけば間違いないでしょう。

ただ、この話だと、実は知識とか認識とほぼほぼ同列で語れるという事に、気が付く人もいるかもしれません。
知っているという事。それが何であるか理解しているという意味では、確かに同列なのですが、私としてはそこに価値というパラメーターが含まれていないと、ちとこの先の説明に難儀するのです。

何故なら、個人の持っている価値という概念そのものが、最も重要だと私は考えるからです。

では、そんな価値観はどうやって培われてきたのでしょうか?

それは、皆さんお分かりの通り、日々の生活の中で少しずつ蓄えられていったものです。
家でも、学校でも、部活でも、仕事でも、趣味の中でさえ、どんなことにも付随してその度に蓄積されていったはずです。
それは言い換えれば、皆さんが今まで生きてきた全ての経験から意識・無意識に限らず与えられてきたものであるとも言えます。

今、この文章を読んでいるこの瞬間にも、貴方の価値観は変わり続けているかもしれません。
この記事糞だなって思っている人もいるでしょうし、逆にもっと読みたいと思ってくれる方もいらっしゃるなら凄く嬉しいです。
私の理解する範囲では、価値観と自分の関係とは、そういう事なのだと考えています。

その集合体が「わたし」を形作る土台になっていると先ほど書きました。

しかし、そうするとまたまたある事を疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
価値観とは概念であり形のないモノです。
ですが一見して「わたし」を構成しているのの中に、心のような曖昧なものだけではなく、肉体そのものだってある事に気づくでしょう。
自分の顔、身体的特徴、能力、もう少し視野を広げればもしかしたら、周りの環境そのものだって入ってくるかもしれません。

確かにそうです。構成要素としては、含まれています。
「わたし」を形作るうえで、それらのものは無視できるものではありません。

ですが、それでもやはり私は「わたし」を形作る土台は価値観であると重ねて申し上げたいです。
その理由は、少し先で改めてご説明したいと思います。

アドラーの心理学は幸福になるための方法論

さて、ではここからは、アドラーの心理学の考え方も交えつつ、少しかみ砕いて話を進めていきましょう。

まず、アドラーさんは結論として明確にこう提言しています。

「問題は「世界」がどうかではなく、「あなた」がどうであるか」

そしてその延長として、

「どんな人も変われる。そして幸福になれる」

と明言しています。

さて、この時点でその言葉に少しでも反発心を持った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そして更に怒りすら覚えた方は、ご愁傷様です。かなりの重症患者のようです。

ですが、逆に言えば、そんな方にこそ、このお話はとても重要であり、必要なのだと私は思います。
だからこその劇薬であるわけです。

アドラーさんの理論の根底にあるのは非常にシンプルかつ明確なものです。
それは、幸福とは何か? そして幸福になるにはどうしたらいいか? という事なのです。

小難しい学術的な理論ではなく、具体的な方法論としてそれを探求したわけです。
私も日々の経験を通して、同じように方法論でそこにたどり着きました。
少なくとも完璧とはいかないまでもある程度実践できるものであることは、私という存在を通して既に実証されています。

いや、本当にもっと早く教えてほしかった。
本気でそう思ったからこそ、こうして記事にしている訳です。

これからアドラーさんの理論を私なりに解釈したもので、説明をしていきます。
私の論調も入るので、かなり厳しい内容になります。

ですが、アドラーさんはとても穏やかで優しい方だったという一面もあります。

皆の幸せを願うがゆえに、強い言葉が必要になったのでしょう。

では、もう少し深くこのお話を進めていきましょう。
もし嫌になったらいつでも読むのをやめて下さい。それも「あなた」の選択なのですから。

感情が「あなた」を作っている訳ではない

さて、生きていると様々な感情に出会う事でしょう。
喜怒哀楽など基本的なものに加えて、多くの雑多な感情に日々出会うと思います。

そして、時には感情に振り回され、失敗してしまうこともあるでしょう。
そんな自分を嫌になり、反省するといった経験をされた方は、ほとんどだと思います。

私も若かりし頃は、感情に振り回され制御できずに苦しんだ一人でした。
特にうつ病を発症していた時は本当に地獄で、常に世界を呪い、自分を嫌っていました。
ですが、近年は大分、落ち着いたと思っています。
それでも、色々と噴出するものがありますが、それを気にしないで生きられるようになりました。

今になって思うのですが、なぜそこまで感情というものに振り回されてしまったか。
もっと突っ込んで言えば、どうして負の感情を湧きあがらせてしまったのか。
そこには、とても重要なヒントが隠されていたんです。

例えば、こんな事があったとしましょう。

あなたは、約束をして人を待っていました。
どうせなら、あまり親しくない人にしましょう。
ですが、時間になってもその人は現れません。
1時間経ちました。相変わらず連絡もつきません。

さぁ、この時、あなたの心にはどんな感情が湧きあがっていると思いますか?
具体的な状況を想像しながら、考えてみてください。

なんで来ないんだよ。待たせやがって。
私の時間を返せなんて怒る人もいるでしょうね。

時間を間違えてしまったかな?
場所は、ここであってるよね?
そんな感じで、不安になる方もいらっしゃるでしょう。

あれ、何かあったのかな?
大丈夫だろうか?
そうやって相手を心配する方もいらっしゃるかもしれません。

単純には書き表せないほど、多くの感情が浮かぶでしょう。

では、次に同じ状況で、待っている人を変えてみましょう。
そうですね。その人はあなたにとって、かけがえのない大切な人です。
例え何があっても約束を破るなんて想像もつかないような、そんな人です。
もし、身近にそういう人がいなければ、架空の人物でもなんなら二次元でも結構です。

私の場合は、母親にでもにしておきましょう。

同じ状況になりました。
さぁ、あなたの心には、どんな感情が渦巻いていますか?

多分、多くの方は、心配しているんじゃないでしょうか?
遅れるなんて、あの人ならありえない。何かあったに違いない。
そう考えると思うのですよね。

面白いですよね。
同じ状況なのに、この差は顕著です。

そして、これが感情というものの本質を如実に表している例なのです。

先ほど、私はあえて、感情に振り回されるという表現を使いました。
実は、これ、本当は間違っています。

正しくは、「あなた」が感情を使ってそう言う風にふるまったが正しいのです。

これを先に書いてしまうと、衝撃が大きい方もいらっしゃると思うので、後出しにしました。

「何を言ってるんだよ。感情が湧きあがるのは仕方ないじゃないか」と思われる方も多いかと思います。
仰る通り、事実、感情は「あなた」の中から湧きあがって来るものです。それは間違いないです。

ですが、その感情を湧きあがらせたのは、意識的・無意識的にせよ、あなたがそう選択した結果です。

もし、この論調を見て、怒りを覚えてしまう方がいましたら、見事にあなたは「あなた」の術中にはまっていることになります。

感情によって自分が振り回されているのではなく、自分がそうしたいから感情を湧きあがらせたと言う言い方がしっくりきます。
そもそもの話なのですが、同じ状況にもかかわらず、感情の湧きあがり方に差が出ることがおかしいのです。

先ほどの例では、その差はなんでしたか?

そう、信頼関係の違いでした。
一方は、関係が希薄で、言ってしまえばどうでもいい人です。

対して、もう一方は、大切で全幅の信頼を置いている人です。

それによって、湧きあがる感情が変わっているわけです。
つまり、何が言いたいのかというと、
感情に振り回されているわけでもなく、
ましてや感情に「あなた」が支配されているわけでもなく、
「あなた」が定義した信頼度によって、感情の湧きあがり方を制御しているともとれる訳です。

これは言い換えれば、こうも取れます。

「あなた」が規定した「価値観」によって、感情を決めている。

例えば、待たされたことで怒ってしまった方だとこうです。

待たされて傷つけられた自尊心を回復させる為に、相手を悪者にしてその補填を行う為に怒りという感情を湧きあがらせたのです。
まぁ、個人的にはちょっと分かり辛いと言いますか、こじつけにも聞こえます。

ただ、その実はどうであれ、一つどうしても避けて通れない事実があります。
ですから、ちょっと乱暴な言い方になりますが、お許しください。

感情を湧きあがらせているのも、その感情を選択したのも全て「あなた」なのです。これは周りのせいにはできません。感情は「あなた」から生まれるのです。

待たされて怒ってしまったのも、それを望んでないと頭では考えていても、実際にその瞬間にその感情を選択したのは「あなた」です。
これは表層の意識とかのレベルじゃなくて、この事例の際にはそういう風に怒る自分を作り上げてきたということなのです。

ここで、私が先ほど書いた、価値観の話につながるわけです。
「あなた」は、待たされたときに、今まで培ってきた価値観を基準に、行動を規定し判断しているわけです。

これをアドラーさんは、目的論という方法で、わかりやすく解説しています。
その辺りは、機会があれば本を読んでみてくださいね。

この事実は避けて通れないので、納得するかどうかは別として、そういう物として理解していただければ幸いです。

あ、ちなみに、先ほどもチラッと触れましたが、アドラーさんの心理学を学ぶ上で、お勧めはこの本です。有名な著書です。

対話形式でたとえ話も多いので、理解しやすいです。
この本をもっと早くに知っていれば、もうちょっとだけ早く立ち直れたのにて(まだいうか

改革の第一歩は自己受容から始まる

さて、アドラーさんのキツイジャブが炸裂したわけですが、次はもう少し強くいきます。

さて、先ほど、私は自分の中にある価値観によって行動を規定し、その結果、感情さえも決まると書きました。
さぁ、解決の糸口が見えてきたと思いませんか?

そう、価値観によって行動が規定されるのであれば、その価値観を良い方向に上書きしてしまえばいいです。

しかしここで問題が起こります。
そもそも、価値観の上書きなんてどうやってすれば良いのでしょうか?
ましてや感情すらも左右してしまうような、大ボスのような存在です。
更に、どんな方向性にどういう基準で価値観を設定していけば良いのか、課題は山積みです。

そこで、その価値観を良い方向に上書きするために絶対的に必要なことを、まずはご紹介したいと思います。

まず、そもそもの話ですが、この記事は究極的には幸せになる方法、その入り口に立つことを目的に作られています。
その入り口というものが、表題の通り「自分を受け入れ真の自分になる為に」という物です。

自分を受け入れ、真の自分になる。

それは一体、どういうことなのでしょうか?

アドラーさんは、その事を「自己受容」という言葉で説明しています。
簡単に言えば、ありのままの自分をそのまま受け入れるという事です。

字面だけ見れば簡単のように見えます。
今の私としては実際、そんなに難しいとは思いませんが、過去の自分では難しいでしょう。
そして、恐らく、この記事をここまで読んで下さっている皆様方も「そんな簡単にできるなら苦労しないわ」と思っているでしょう。

ですが、その方法自体はそんなに難しくはないのです。
それをこれからご紹介していきたいと思います。

まず最初にしなければならない事は、今までの価値観を疑う事です。

世の中には様々な価値観が存在します。
その全てを疑い、一度放り投げて、再定義する必要があるのです。

「いやいや、何言っちゃってんの」と思うでしょうが、それが最初にしなければならない事だと私は思います。

その上で、自分の人生にとって絶対的に必要なものを拾い集めて、検証していくのです。
まぁ、学術的な知識の部分とか、生活に必要な一般常識部分は後回しで良いかと思います。

もし、とっかかりが掴めないようでしたら、まずは自分の嫌いな部分や気になる部分から始めるとよいでしょう。
恐らく、すらすらと出てくるのではないでしょうか?

例えば私なら、ぱっと思いつくだけでも該当しそうなものが出てきます。

・太ってる
・体臭
・バブル世代は苦手
・あまり頭の回転が良くない
・ド底辺(貧乏)
・結婚できていない
・気が利かない
・ピーが小さい

多分、筆が止まらないほど出てくるでしょうが、まぁ、それはそれとして。
さぁ、その中から、赤の他人に酷い害悪を与えると思われるものだけをピックアップします。

ここでポイントになるのは、あくまで赤の他人に対して、という部分です。
親しい間柄や家族など距離の近しい関係に対するものは、考えません。

例えば私の場合は、結婚できていないは、家族に対しては後ろめたい気持ちを持たせる原因の一つになっていますが、これは明確に除外します。

本当に明確に世の中の多くの人に迷惑をかけるような項目だけを抽出するのです。
そうしてみてみると、実はそんな物はそれほど多くないはずです。

私の場合は、体臭以外は、全て外せます。
ですが、この部分は早急に対策することも可能なので、対策できれば問題にはなりません。

頭の回転が良くないというのは、場合によっては仕事で支障が出るかもですが、それは「わたし」への評価の話であって、他人への害悪ではありません。
ぶっちゃけ、単に自分が恥ずかしいと思うことが、この項目を作り出していると言えます。

そして、多くの中に自分が嫌いだと思っているけど、実は他人はそこまで気にしていないという項目が多く混じっていると思います。

私の場合、

・太ってる
・あまり頭の回転が良くない
・気が利かない
・ピーが小さい

などは、あくまで「わたし」が自分の事をどう思っているかであって、他人に害悪をまき散らすような項目ではないと気付くはずです。
更には大抵のものが、何かで補えるものです。

太っていても、全員が全員私に強烈な嫌悪感を抱くわけではないです。むしろそこまで気にしないと思います。
頭の回転が良くない部分は、先ほども書いた通り、仕事ではどうかわかりませんが、誰かがフォローできるならそれで済む話です。
私が気が利かなくても、友人に一人気を配れる人がいれば大丈夫です。私が気が利かないと分かっていれば幾らでもやりようはあります。
ピーが小さいは、ある意味ネタ的に書きましたが、完全にどうにもできない事象の一つです。背の低さや身体的特徴、病気障害などは全てここに当てはまります。
だってそうなんだもん。そして、赤の他人に迷惑をかけるかと言えば、全くそんな事はないので、気にするだけ損です。

そしてそもそもの話として、仮に、他人がそこで迷惑をしていたとしても、究極的に言えば、それを私はどうすることも出来ないのです。
だって、それが今の私なのですから。

アドラーさんは、そんな感じで他人と「わたし」を明確に区切ります。
これが元で、ちょっと冷たい印象を与える事もありますが、これはあくまで価値観整理方法の一つだと私は解釈しています。
これだけだと、ちょっと強引に思えるかもしれませんが、これは荷物整理のようなものなのです。

重い荷物を持ったままでは、どこにも行けないし、動けすらしないのです。
これはそれをそぎ落とし身を軽くする作業のようなものです。

ですから、遠慮なく躊躇なくバッサリと切り捨てましょう。
他人の目など気にしては駄目です。本当の意味で今の自分にとって早急に改革が必要な点だけを抜き出すのです。

特に日本人特有と言っても良い、恥の概念は、一回バッサリ捨て去って構いません。
その上で、あとでどうしても必要であれば、その時に拾い上げましょう。

何故なら究極的に言えば、恥ずかしいと言う概念は、他人に依存するものだからです。
自分が恥ずかしいと思っていることの多くは、相手に嫌われたくないという心の裏返しです。

ならば他人との境界線を引いた場合、その殆どは無意味なものとなります。
幾ら考えても無駄な事象の一つだったりするのです。
だって、それで本当に他人に嫌われるかどうかなんて、その相手次第なんですから。
明確に相手に嫌われる原因になっているものであるならば、対処は必要ですが、大抵の場合はそうではないのです。
ですから、安心してバッサリと切り落としましょう。

そうして切り捨てたものを見ると、もしかしたら一定の傾向がでるかもしれません。
つまるところ、性格やその方の振る舞いに関わる部分で気になる所の殆どは、相手にどう思われているかの部分が主になるのです。

自分を低く見られたくない。
こんな自分は恥ずかしい。
もっと自分に注目して欲しい。

こういう心理が働き、その結果として「わたし」の嫌いな部分を作り出しているのです。

何故そんな心理が働いてしまうのか。
それは、自己肯定感の低い人にありがちな、承認欲求の存在があるからなのです。

人に認められたい。そんな思いの体現である承認欲求それ自体は、誰にでもあり、そして抗いがたいものでもあります。
勿論、かつての私もこの承認欲求を満たそうとしまくりました。
しかし、ここで更にドツボにハマる人はハマります。

承認欲求は、上手く利用できれば原動力として機能しますが、使い方を間違えると不幸になるんです。

承認欲求 取り扱い注意!!

ではそんな承認欲求について、少し詳しく考えていきましょう。

実はアドラーさんは、この承認欲求について、求めてはいけないとまで言っています。
私はそこまで強く断定はしないまでも、付き合い方を誤ると酷い目に合うという事は経験則で知っているので、その危険性は理解しているつもりです。

今こうして皆様が読んでいただいております通り、私は文章を書いていくのが好きです。
そしてその最初の原動力となったのは、間違いなく承認欲求を満たそうとした結果であると言えます。

お恥ずかしい話ではありますが、私は小説家になろうと言うサイトで、最初の文章を書くようになりました。
それは、何かを変えたいと言いう純粋な思いもありましたし様々な理由があるのですが、その中で大きかったのは誰かに認めてもらいたいという、単純な動機だったのは間違いありません。
この承認欲求を満たす為に、私は文章を書き始めたのです。

ですから、今の私があるのは、元々はそのちっぽけな欲を満たす為に動いたことのお陰ですし、今も後悔は微塵もありません。
ただ、その承認欲求の本質を何も考えていなかったことで、その先、長く苦労することになります。

非常にありがたい事に、私の書いた拙い物語は、私が思っていた以上に多くの人へと届きました。
感想も頂けました。評価も頂きました。今もそうですが、自分では納得のいく出来ではなかったので、それでも評価いただけたことで、私の承認欲求は満たされました。
そして、その事で、モチベーションも上がり、投稿数は増え、更に多くの方に読んでいただけるようになったのです。

一見すると、とても良い流れの様に見えますよね?
事実、この時私は、寝食も削り、ひたすらに没頭するように作品を書き続けてしまいました。
それは、単純に評価される事が嬉しいからであり、一方で内から湧き出る物語をもっと読んで貰いたい、読者の皆様に恩返しがしたい。皆に喜んでもらいたいという欲求に突き動かされての結果だったのです。

これが非常に危険な問題を孕んでいたことを知るのは、勢いが尽きた時です。

流石に、私もただのおっさんですから、そんな生活をしていれば、どうしても書けなくなる日が来ます。
それは、無理が祟って体調を崩したときだったり、どうしても良い文章が浮かばなかったときだったりします。

そして手が止まって書けなくなると、徐々に漠然とした不安が心の大半を占めていくようになるのです。

こんな事では読まれなくなってしまう。
こんな文章では、納得してもらえない。
もっといい文章を書けるようにならなくては。

それは日を追うごとに強くなっていきます。
しかし、文章を書かない訳にはいきません。
書かなくなったら皆、自分の文章など読んでくれなくなるのはわかっていたからです。

そして、何とか続けていきましたが、最終的に本当にどうしても書けなくなりました。
書くことが苦しくて仕方なかったんです。
そして書けない自分が本当に嫌でたまらなかったのです。

今現在、私の中で答えが見つかり書こうと思えば書けますが、今はまだ更新は止まっています。
まぁ、それはまた別の要因によるものなので、ここでは割愛したいと思います。

そして、これは創作に関わった方ならだれもが経験することだと思うのですよね。

なんでこんなことになってしまったのでしょうか?

多分、もうお分かりですよね? 承認欲求のせいです。
より正確に言えば、承認欲求の使い方を間違えたせいです。

私は、承認欲求を満たす為に、小説を書き始めました。
それはある意味で仕方のない事だと今でも思いますが、問題はその後。
承認欲求との付き合い方だったのです。

私は、皆に褒められるために小説を書きました。
少し強い言い換えをすれば、自分の作品を褒められるための餌として差し出したのです。

人は、他人の為に頑張ると目的を見失う生き物なのです。
何故ならそれは他人に自分の人生を預ける事に等しい行為だからです。

他人の為に一生懸命書いた小説が誰にも見られ無いなら、それは無駄になってしまいます。
けど、自分の為に書いた小説であるならば、それは他人は関係なかったはずなのです。
だって、本当は私が書きたいと思って書いた筈なのですから。

本当の原動力はそこでなければならなかったのです。
スタートラインは、誰かに認めてほしいという承認欲求でも良かったかもしれませんが、自分の書きたいという思いを他人に預けたら駄目だったんです。

これが承認欲求と向き合う上で避けては通れず、そして一番間違ってはいけないところなんです。
この目的意識と欲求は本当に簡単に、しかも自分でも気が付かないうちにすり替わります。

アドラーさんが強く警鐘を鳴らしたのも、その事があるからなんです。

今回は私の体験談を元に説明しましたが、実はこれは皆さんが日々生きる中で、無意識に行っている事でもあります。
特に、先ほどから再三書いております通り、自己肯定感が低く、それゆえ承認欲求が強く出ている人は、かなりの割合で、間違えてしまっているでしょう。

違った例として次のような事を上げておきましょう。

人は仮面を付け替えるように人と接して生きているという、表現をすることがあります。役者の様に、会う人によって心の仮面を付け替え、その都度態度を変えるのです。
そしてこれは、ある意味で常識のようにテクニックの一つであると思われています。

しかしこれは、私だけでなくアドラーさんから見ても、承認欲求の奴隷になっている典型例と言えます。

会う人によって、自分を使い分けているなら、本当の自分は何なのでしょうか?
仮に嘘偽りの自分を見せて、人間関係を円滑に保てたとして、それは長続きするのでしょうか?
多くの物語のテーマにさえなるこの問題。本質はやはり、承認欲求なのです。

この事が何故駄目なのかは、先ほど書いた通りです。
他者の期待を満たすために生きると、他者の為にしか生きられなくなるのです。

そして人の視線や、相手の持っているイメージ、そして相手の欲求に合わせて生きることになるので、自分らしさを見失う事になります。

それでも何とか誤魔化して円滑に過ごせているうちはまだ良いのですが、他者の為に生きていくので、その他者がいなくなったり、何かの拍子に関係が悪化すると一気に崩れるのです。
そしてそれは立て直せないので、そこから苦悩が始まることになります。

更には他人に自分の人生を預けてしまう訳ですから、悪いことも全て最終的には、他人のせいにするようになります。

お恥ずかしい話ではありますが、私がうつの時に周りの顔を窺いまくった結果、実際にそうなりましたので確信を持って言えます。

なので今回ご紹介したように、以下の事が言える訳です。

「承認欲求に寄りかかる生き方は、自分に嘘をつき他人をも欺き続ける苦しい生き方」

二重の意味で苦痛であるならば、なるべくそんな生き方はしたくありませんよね。

しかし、承認欲求の呪縛は生半可なことでは解けません。
では、そんな呪縛から解放される、魔法の言葉をここに残しましょう。

「他者は私の為に生きているわけでもなく、同時に私も他者の為に生きているわけではない」

これは、人によっては、到底受け入れられない言葉に映るかと思います。
これではまるで、他人のことなど放っておけと言っているように聞こえるからです。
しかし、ここで間違ってはいけないのは、これは事実を端的に語った言葉でしかないという事です。

事実「わたし」は、わたしでしかないのです。
それ以外の何物でもないのです。
「わたし」が生きているのは、わたしの人生なのです。

先ほどから散々申し上げております通り、間違っても「わたし」の人生を「他人」に預けてはいけないのです。

それは他人から見れば同じで「他人」は他人でしかないのです。
だから、立場を変えれば、他人にも同じように他人の人生を預けられないですし、ましてや「わたし」が「他人」の人生を請け負う必要など本来これっぽっちも無いのです。

そこに、それ以上の意味などなく、事実としてそうなのです。

しかし、そうなると、一つの問題が生じてきます。
それは、「わたし」が他人の人生に関与したくなった時です。

もっと言えば、他者に貢献したくなった時と言えます。
他者の為に何かしたいという思いは、とても崇高なものです。
称賛され良い行為であるとされています。

しかし、実はここにも大きな罠が仕掛けられているのです。
そしてアドラーさんは、またもや明確にこう指摘しています。

「自己中心的なのは、他人の課題に土足で踏み込んて行くこと」

アドラーさん厳しい!!
しかしこれは、私もそうだと思っているので同感なんです。

「わたし」が他人にできるのは、導くことだけ

さて、先ほどからアドラーさんは、結構ズバズバと色んなものをぶった切ってきていると感じている人も多い事でしょう。
しかし、私はこの一見過激にも見える思想に、概ねで賛成なのです。
私はそれを長い時間をかけて少しずつそぎ落としながら最適化していきましたが、なるほど、理にかなっていると唸る事しかできません。

さて、先ほど、アドラーさんは他人の課題に土足で踏み込んではいけないと言いました。

この言葉を理解するには、まず他人の課題とは何なのかという事を知らなくてはなりません。
と言っても、これは話自体は単純で、他人が自分の力で為さねばならないモノを課題と証しているだけ事です。

私は塾講師だったので、この言葉の意味がよくわかります。

例えば、勉強が大嫌いな子がいたとしましょう。
この子が勉強をできるようにするには、どうすればいいと思いますか?

叱りつけて無理やりやらせますか?
褒めてその気にさせますか?
塾に通わせて詰め込みますか?
報酬で釣ってやらせますか?

いずれも短期的、瞬間的には一定の効果を上げる場合もあるでしょうが、もしその子の将来を見据えて考えるなら全部完全にアウトです。

不思議に思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
世の中から見れば、多くの方が上記の事を当たり前のようにするでしょう。
でも、私のなんちゃって塾講師経験から照らし合わせても、全て悪手です。

ただ、私は結果を出さなければならない立場だったので、これらの手段を絡め手で使う事は多かったです。
だって1か月で成績伸ばせとか、本来は不可能な話なんですから。
仕事としての手段としてはありですが、先ほどから申し上げている通り、その子の将来を真の意味で考えるなら、これらの手法では意味がありません。

何故なら、いずれの方法も「本人の意思」が乗らないからです。
もっと端的に言えば、本人にやる気が無いのです。やるだけ無駄です。

叱られてやっても、本人は嫌々やるだけです。
褒めることは短期的には良い手段ですが、大きな問題を孕んでいます。それは既に紹介しました。
そうです。承認欲求です。ここでも出てくるんですよ、これ。
塾は勉強環境を整えるという点ではよいのですが、結局のところ、講師の腕次第ではどうにもなりません。そもそも、嫌々行くなら意味ないです。
報酬で釣るのは、最終的にその報酬が用意できなくなったか、報酬への魅力を勉強の嫌さを上回った時点で効力を失います。

なので、まずは本人にやる気を出させることを考えなければ行けません。
そして、そのやる気を出させる方法を、私は二つしか知りません。

・その子が勉強のことを好きになる
・その子が決意をもって勉強する

より理想を言うならば、好きになって貰うのが一番良い方法です。
基本的に私はこちらの方法を目指し、生徒に対して働きかけるようにします。
好きという気持ちは全てを凌駕します。無限のパワーを引き出す源泉になります。
恐らくは、この記事を読んで下さっている方の中には、私の同志(オタク)の方もいると思われますので、その力の凄さは理解していらっしゃるでしょう。

対して決意を持ってもらうには、勉強がその子にとって必要であることを理解させる必要があります。
そして、ここが大事なのですが、自分の意思と責任をもって取り組むという決意を持たせる必要があるのです。
必要だと分かっても、それに立ち向かう覚悟がないと心は簡単に楽な方に折れるのです。

どうしても好きになれないなら、歯を食いしばってでも自分の意思をもって立ち向かわないといけません。
それは苦難の道となるでしょうが、それでもその子はその道を選び取らなければ先はないのです。

さて、話を戻しますが、これは他者の課題に土足で踏み込んではいけないと言う話でした。
この場合、他者の課題とは、勉強が嫌いな子が直面している課題……つまり勉強の事です。

勉強は他者が変わってあげることができません。
何より変わったところで意味がありません。
そう言った、他人の人生や成長を左右するような課題に、安易に踏み込んではいけないとアドラーさんは言うのです。

つまり今回の例でいえば、誤った対処全てをさします。
これは強制力を持って発動するものなので、他人の人生を捻じ曲げる結果を生むからです。

対して、私が上げたやる気を出させると言う方法については、条件付きで承認しています。
その条件は、「本人が望めば」です。

同じです。そうなんですよ、結局、何をするにしても本人のやる気次第なんです。
これは、勉強に限らず全ての事において共通なんです。

だから強制しては駄目なんです。
あくまで、こちらからできるのは、道を示すことだけなのです。

こうしたら楽しいかもよ?
君にとっては必要なものなんだよ?

そんな風に誘導して行くことだけなのです。

それでも駄目ならできることは一つです。
見守って本人のやる気が出た時に、すぐに対応できるように準備しておくことです。

しかしこうやって書くと、なんて冷たいんだと思われる方もいらっしゃると思います。
もしかしたら「親が子を思う気持ちを蔑ろにするつもりか」とまで、怒りだす人もいるかもしれませんね。

ですが、これもアドラーさんは「余計なお世話」でバッサリすっぱり綺麗にぶった切ってます。
うーん、アドラーさん痺れるわ。ちなみに私も同意見です。

何故なら先ほどから何度も申し上げております通り、「わたし」の人生は私のものなのです。
そしてこれも再三申し上げております通り、やる気の出ない子の人生も、その子の人生なのです。
そして心配する親の人生もまた、親の人生でしか生きられないのです。

他人の人生を「わたし」の人生にしてはいけないのは、先ほどから口を酸っぱくして説明しました。
それは不幸になるやり方であり、それでは「わたし」は幸せになれないと分かるからです。

そして何より不幸なのは、「わたし」が「他人」の人生に土足で踏み込んで荒らせば、その踏み込まれた方は、必ず「わたし」を恨むようになります。
だって、他人に自分の人生を踏み荒らされたと感じれば、誰だって復讐したくなるでしょう?
絶望した時に、誰かのせいにできるなら、誰だってそうすると思うのですよ。

私は先ほどの勉強が嫌いな子の例で、親が土足で踏み込んで、その子のやる気を踏みにじっていく光景を何度も見てきました。
勿論、親にも、ましては踏みにじられた本人にもその自覚はありません。

本来であれば、生徒の意思の元、生徒の選択をもって、生徒本人にその責を背負わさなければならないのです。
もし勉強がどうしてもいやというのであれば、そして、その際にどういう問題が生じるのか、それを理解させた上でなお、その子が、勉強はしたくないという選択肢を選ぶのであれば、それは尊重した方が良いのです。

その結果、将来その子が後悔したとしても、それは仕方ない事です。
それは自分自身の選択なのですから、当然のことであり、そして他人が背負ってはいけないものです。

しかしそれを肩代わりし、選択肢を与えず、また与えた気になって、それを子のためと思う親が本当に多いのです。
何故なら親は、自分の選択肢がその子の正解だと信じており、それが間違った時どうなるかなど想像すらしてないからです。

本来、誰にでも共通な正しいやり方など存在しないのです。
それはそうです。すべてが異なる「わたし」なのですから。

親が背負った選択肢は、生徒が挫折した際に、生徒本人ではなく選択肢を突き付けた親へと返ります。
無理やり持たされた選択は呪いと化すのです。
そして「子供の為に良かれと思ってやったのに!」と親は憤るのです。
もう三文芝居も真っ青な悲劇です。しかし、こんなことがそこかしこにあふれてます。

だからこそ、全ての選択は自分の手で行わなければならないのです。
そうしないと他人のせいにできる下地をせっせと作ってしまうことになるわけですから。
それが、アドラーさんの言う、「自己中心的なのは、他人の課題に土足で踏み込んて行くことと」いう言葉の真の意味なのです。

「あなた」の人生を変えられるのは「あなた」だけ

さぁ、やっと話が佳境に入ってきました。
私は、この記事の中で、幸せになる第一歩は自己受容であるという話を何度かしています。
その方法は、既に簡単にお話ししました。
「あなた」の人生は「あなた」だけのものであると言う話もしました。
他人に人生を預けると悲惨なことになるという例を私なりに示してきたつもりです。

そして、ここまで食らいついてきてくれた読者の皆様なら、もう大丈夫かと思います。

「あなた」は真の意味で「あなた」になる時が来たという事です。

一体、何を言っているのだ、こいつは。と思われる方もいらっしゃるとは思います。
ですが、最初の段階であり、一番、難しいと思われる「自己受容」の準備は既に完了しているのです。

「わたし」は価値観の集合体であるとしました。
価値観とは、上書きできるものであり、その方向性も示しました。
自分が嫌いな所は、実はそれほど大した問題ではないと示しました。
他人に自分の人生を預けることがどれほどの苦痛かもわかっていただけたかと思います。

後はご自分の価値観を、ご自分の意思で、そしてその責任を自分自身で背負って書き換えていくと決意できればそれで変わります。
それをアドラーさんは、勇気と表現しました。

そうは言っても具体的にどうすればいいかは、色々と困惑してしまうでしょうね。

最初は、先ほども書いた通り、自分の嫌いな箇所で、手の付けられる簡単なものからチャレンジすると良いでしょう。
身体的特徴や社会的地位などは、本当に簡単です。

だって、本当にそれで誰かが迷惑をこうむる事などないのですから。
他人が介入する余地なんて微塵もありません。あくまでそれは「わたし」の問題なのです。
失敗とか無いんですし。だって、もう失敗だらけだからこれ以上悪くなりようがありません。

例えば私は底辺です。いつも胸を張ってと言う訳でもないですが、ありのままに素直にそう伝えてます。
卑屈な部分がまだ若干残っている時もありますが、それを私は事実として受け止めています。
それは誰のせいでもなく、私が一生懸命頑張ったけど、今はそうであるからそうなのです。
そうやって受け止めることで、自分を許せる下地が徐々に整っていくのです。

間違っても事実や本質を捻じ曲げてはいけません。
ありのままに、そのままの嫌いな部分を受け入れればいいのです。

逆にできもしないのに、「わたし」はできる、と思い込むのは違います。
それは自分を欺いているだけです。

そしてもう一つ、大事なことがあります。

それは、今「あなた」が「あなた」を受け入れられないのは、あくまで、今です。
時間の流れていない、今、この瞬間であるからです。

例えば、自己受容ができていない方の典型的な例として、目標に対して向かう姿勢があります。

何か為したいことがある時、人は漠然とした目標や理想像を設定します。
そこに向かって邁進し、ふと立ち止まって今を見つめた時、どう感じるかで自己受容できている方とそうで無い人の感じ方に明確に差が出ます。

自分はまだまだだ。もっと頑張らなくてはとか。
こんなんじゃ駄目だ。どうして自分は……。

みたいな感じ方になる場合は、自己受容できてません。
この事をもしかしたら、不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。
自分を叱咤するのは、ある意味で当たり前に感じる方も多いと思うのですよ。
以前の私もそうでした。それが当たり前でした。

でも、自己受容してみて初めて気が付きます。全然考え方が違います。

そもそも自己受容できていれば、今の自分を否定しません。これは本当にそう。
ただ、目標に到達していない自分を客観視するだけです。

だから、目標に向かう場合は、こんな感じの考え方に変わります。

あとこれだけやればいい。何だ、少し頑張れば〇〇くらいにはいけそうだな。
おや、もうここまで来たか。前と比べるとこの位は進んだか。あとこれだけだな。

例えば目標達成までの過程を、距離として考えた場合、

残りの距離を見て絶望するのが自己受容できていない典型的なパターンです。
自己受容できている方は、その過程を見据えて、前の場所から今の場所まで歩いた距離を考えます。

考え方の基本が、過去でも未来でもなく、常に今この時なのです。

そして、こう書くと、もしかしたら更に別の事を懸念する方もいるかもしれません。
もしそれで、自己受容して、仮に満足しちゃったら成長を止めてしまうのでは? という点です。

それこそ、何の問題もありません。
だって、それは「あなた」がそう望んでいるのですから。

何度も話した通り、根本的な所は「あなた」がそれを望むかです。
そして、もし自己受容した時に、「あなた」の成長が止まったなら、それは今の「あなた」がそうしたいからなのです。
ぶっちゃけますけど、好きな事ならまだしも、必要に迫られて嫌々ながら選択する成長など、誰だってやりたくないんです。当然の結果と言えます。

え? じゃあ、もう成長できないの? という話になってしまうのですが、そうではありません。

私は、先の勉強嫌いな子の例を出して、成長するために必要なものを既に示しています。
そうです、「やる気」です。

そして、それは、私の示せる範囲では「好きになる」ことと「決意する」しかないと書きました。
だから、好きになれないなら苦労するより無いのです。ここは避けられないところです。

ですが、同じ苦労をするにも、自己受容をした際は明確に荷物が一つ減ります。
そうです、自分を責める必要がなくなるのです。だって、意味が無いんですから。

自己受容できてない場合は、先ほども書いた通り、自分を責め続け自己否定するでしょう。
ですが、自己受容すれば、自分の事は自分で受け止められるようになります。

具体的には「ああ、なんて自分は……」ではなくて、「おや、どうやら本気で自分はやりたくないらしい」に代わるのです。
そして考え方が「じゃあこの先、どうしようか?」と、今の状況を理解した上で、次の事を考えられるようになるのです。

常に自分の状況を確認する余裕が生まれることで、次の一手を更新し続けられるのです。

外から見れば些細な差に思えますが、実は明確に違います。

自分を責めてしまった場合は、高確率で次の一手を過剰なものに設定しがちです。
何故なら、今の自分に満足してない上に、その目標への到達していない焦りから、遅れを取り戻そうとするからです。

自己受容していれば、それはまず起こらないです。
常に今を視点に客観視するので、今の時点からの逆算で物事を判断するからです。
そして、素晴らしい事に、場合によっては、その目標自体を全く別のものにしてしまう可能性も生まれます。

その目標を達成すれば、自分の人生は幸せになるのか?

そういう視点で物を見るようになります。
余裕が出てくると、本当に不思議な事なのですが、周りの事がよく見えるようなります。

例えば、私は何度も書いている通り、底辺生活です。
お金が無いというのは、本当に辛いもので、やりたくでもできないことだらけになります。
なので、私はお金を少しでも稼ぐために、副業もやり、色々と工夫してきました。
ですが、元々、ポンコツ化した頭の回転の悪いおっさんなので、仕事をするという面では低スペックなんですよね。
しょっちゅうぶっ倒れますし、社会人としては中々に厳しい生き方を強いられる結果となっております。

なので、頑張って働いても、まぁ、稼げない事、稼げない事。
具体的には、生活保護すれすれラインです。
こんな人、私世代から下は隠してるだけで沢山います。

そこで現実問題として、どうするか、という考えになります。
もし自己受容できてないなら、今なお、私は時々倒れながら収入を得るために無理をして頑張っていたでしょう。

ですが、正直に申し上げて、「もうこれ以上働きたくないでござる」が偽らざる本心です。
辛い思いをしつつお金を増やすより、お金が減って不自由になる方を選びました。

そして、ある程度のものを削れば、何とか生活していけるという目途も経ちました。
傍から見ると、なんて惨めな生活と言われるような状況です。

ですけど、「わたし」はその方が良いと判断し、そして実際、かなり生活が潤いました。
仕事の為に頑張っていた分の時間と労力の全てを、自分の為に使う事にしました。
一大決心ではありましたが、結果としては毎日が充実しております。

他人の目を気にした生き方をしている限り、絶対に取れない選択肢です。
しかし、これを私は選択しました。これからまた違う選択を取ることもあるかと思いますが、この選択を誰かのせいにするつもりは、微塵もありません。

だから、堂々と胸を張って底辺として生きています。
それが「わたし」の選んだ人生です。

自己受容ができれば、大抵のことは受け入れられるようになります。
時間はかかるかもしれませんし、もしかしたらすぐにストンと落ちるかもしれません。
それは、他人の目を気にして行う事ではなく、あくまで「あなた」がこうだと決めた瞬間から始まるのです。

俺は底辺だ。それがどうした。
私は貧乳だ。だからなんだ。むしろ特殊な需要を満たせるかも。
僕は臆病だ。それで何か問題があるのだろうか?
彼はとても口うるさい。でもいつも私の事を気にかけてくれる。
あの人は私を嫌っている。では、接触するのをやめよう

全ての事象において、最終的には他人は関係ないのです。
価値観を変え、改革し、自分を受け入れるのは、全て今からの「あなた」でしかないという事です。

「でも」とか言い訳すら一切挟む余地のない事象です。
それが「あなた」を真の意味で「あなた」にする最初の一歩になると思います。

アドラーさんも口を酸っぱくして言っています。

「心安らかに生きたいなら他人の事は気にするな。自分は自分」
「人間の悩みは、全て対人関係の悩みである」

それは全て、自己受容を完成させる為の方便という意味合いもあると私は思っています。
そして自分が真の意味で自分の人生を背負うスタートラインに立つ為に必要な事なのです。

自己受容ができていない方は、真の意味で自分の人生を始められていないのです。
真の自分でない人生なら、それは偽物であり、窮屈な人生となっているからです。
自分の事を認められない人が、幸せになれる筈がありません。
そして、同時に自分の事を背負えてない人が、自立している訳が無いのです。

アドラーさんは本当に過酷です。
全部自分の責任で、自分の事を背負え。言い訳するな。そういう事なんですよ。

けど私もそりゃそうだと思います。
だって、何をどう取り繕ったって、自分からは絶対に逃げられないんです。
最終的に、受け入れるしかないのです。
自分をやめることなんて、それこそ死ぬ以外に方法が無いのですから。

自己受容のメリットと注意点について

さて、ではここで自己受容をすることで、本当の意味で自分を認め等身大の自分の人生を歩み始めた場合、どんな事が起こるか私の場合を例に挙げてご説明したいと思います。

ではまずは、昔の話となりますが盛大に拗らせた状態の私をご紹介いたします。

私は過去、ブラック企業を転々とした後、うつ病を患って長期間苦しんだのですが、その時は、本当に酷いものでした。

仕事をしている時は、兎に角、人の顔色ばかり窺って、生活していました。
毎日、何かしらのミスがありそれを罵倒され、完全に委縮してしまったせいでもあります。
それでも、何とか迷惑をかけないようにと、無休・無給で働いたこともありましたし、言われたことはなんでもしました。
私は皆のお荷物になっているという自覚があったので、むしろ喜んでそれを受け入れた経緯もあります。
しかし、身体は正直なもので、そんな生活をすれば壊れます。
最終的には、その当時としては原因不明の変調が次々と私を襲い、そしてクビになりました。

その後は、何度か同じような状況を繰り返します。
世の中は、不況真っ盛りで、労働力などはいて捨てるほどありました。

非正規労働者として、同じようなブラックの職場に、配置されその都度倒れ、少し回復したらまた、という事を5回は繰り返したと思います。

面白い事にというと不謹慎ではあるでしょうが、回を重ねるたびに労働環境は劣悪化していきました。
特に上司の質が目に見えて変わっていきました。
最後の方は、怒られに会社に行ってたと言っても過言ではないです。

何でそんなところに行くのかと、不思議に思う方も多いかもしれませんが、職を転々とするたびに自己肯定感は下がるのです。
そしてそれを補うために、必要とされたい一心で職を選ぶようになります。
また、質の悪い事に、そんな人達を集めるのが上手いのが、実はブラック企業だったりします。

今でこそ当たり前のようにその事は知られていますが、私たちの時代は誰もその事を知らなかったのですから、そりゃそうなります。

そして、結局、無職になりました。
それは私にとって、今までの自分をすべて否定されて、自分は社会のお荷物であるという烙印を押された状態でもありました。
このような状態で、自信を持てる人などいるはずがありません。

そうしてニート生活がスタートするのですが、これまた長い間呪縛に苦しみました。

私はどこからどう見ても失敗作であり、社会のお荷物であるのです。
親の顔を見ては申し訳ないと思い、幸せそうな人を見ては、妬みが心の底から溢れました。
日々、どうすればよかったか自問し、そしてあの時こうすれば、と後悔を繰り返しました。
少し元気な時があると、私を使いつぶした会社や社会そのものを憎むようになりました。
次第に鬱屈していく感情に震えながら、それでも、どこか変にねじ曲がっていく自分を、心の底では喜んでいたのだと思います。

誰かの不幸を聞くと、ざまぁみろと思うようになりました。
社会情勢が悪くなると、それみたことかと、あざ笑うようになりました。
自分の主張を認めてもらいたいがために、「~すべき」と強い口調を使うようになりました。
何かめでたい知らせが届くと、「どうせ」と皮肉るようになりました。

そしてふとした瞬間に、盛大に歪んだ自分に気づき、そんな自分が心底嫌になりました。

本当に苦しい日々でした。社会に出てからずっと、まさに地獄でした。
だからこそ、本気で変わりたいと思えたともいえます。皮肉なものです。

そうして色々と小難しい事を考えつつ、

なんで自分がこんなことになってしまっているのか?
本当に何もできないのか?
何をすればもっと楽になるのか? 

そういったことを突き詰めていった結果、今があります。

その辺りの紆余曲折は、こちらで既に書いている通りです。

さて、過去の私の状況を読んでいただいて、どう感じたでしょうか?

控えめに言って、最低かと思うのですが。
良い感じに小物臭が漂って来そうな感じに仕上がっていたと思います。

さて、では自己受容をして、色々と受け入れた今の自分はどうでしょうか?

非常に生きることが楽になりました。

まず、他人の目と意見を極端に気にしなくなります。
誰かに何か言われたとしても、「それは君の意見だよね。けど受け取るかは私次第」という一歩線が引けるようになりました。

不安なことに直面しても、自分である程度処理できるようになりましたし、何より堂々と人に聞けるようになりました。
分からないことが不安を呼ぶので、大抵のことは知ってしまえば問題なくなります。

良い意味で人に期待しなくなりました。
例えば、最初の方で例に挙げた、約束をすっぽかされて待たされてしまった場合ですが、少なくとも今の私は怒りません。

恐らく、時間と場所を確認し、自分が間違ってないと確信できた段階で、それほど気にならないでしょう。
むしろ、少しは相手を心配するかもしれません。
それでもどうしても来ないなら、可能であれば伝言を何かしらの方法で残して、私は自分のしたい事をする為に、その場を去ります。

だって、来ないのは向こうの責任なんですから。
私が何かできる訳ではありません。
そこでヤキモキしながら待っていても、他のところで遊んでいても、結果が変わらないなら、私は自分のやりたい方を選択します。
それで仮に相手から文句を言われても、私はそれを受け取る義務を持ちませんし。
むしろ地雷だったと分かって、清々しい気持ちで連絡先を消すことができるでしょう。

私が底辺であることも、必要以上に気にしなくなりました。
いや、お金も地位も無いですが、それは事実としてそうなのですから。
逆に、そんな状況でも結構幸せに生きてる自分って凄くない? くらいは思ってます。

何故そう思えるかは、自己受容の結果、その境遇を「わたし」のものとして受け入れているからです。
乱暴な言い方をすれば、ごちゃごちゃ言ったって、底辺なのは変わらないって話です。
身体的な部分や、病気とかも同じです。
何を言っても変わらないなら、それを自分のものとして使いながら生きるのです。

そうやって少しずつ、自分の為に人生を使うようになると、徐々に素の自分を意識せずに出せるようになります。
この素の自分というか、真の意味での「わたし」のままでいられる状態が、理想形であり基本状態なんです。

そしてこの状態になると、とても素敵なことが起こります。

裏表のない人間になれるのです。

まぁ、そりゃそうです。
だって、嘘ついてないんですから。
基本的に、私は心と口が直結してます。
特に良いと感じた事は、ほぼノータイムで素直に口にでるようになりました。

勿論、言い方を工夫したり表現方法を変えたりして、気を遣う事はあります。
そこは、円滑なコミュニケーションの為にも工夫が必要です。はき間違えてはいけません。

でも、伝えたいことは伝えます。
伝えたくない事は言いません。

自分の言葉や態度、ましてや深層心理まで偽らなくていいので、色々なことに余裕が生まれます。

今まで人の顔色を伺うために使っていた心の余裕や労力。
自分を嫌いにしてしまう自分への嘘。
それらが重荷となって「あなた」の心に居座っていたはずです。

それらの重荷は「あなた」の心に負荷をかけていました。

私は、なんて〇〇なんだろう。
もっとこうでなくては。

その余計なお荷物が無くなると、本当に心に余裕ができるのです。
そして不思議なことに、心に余裕ができると、人はそこに何かを詰め込みたくなります。

もっと楽しい事がしたい。
もっと幸せになりたい。

そういう根源的な欲求が湧き出てくるようになるのです。

経験してきた私だから言えますが、ぶっちゃけますけど、本当にその重荷は邪魔でしかないのです。
百害あって一利なしです。
捨てましょう。今すぐ。心の中に自分を攻撃する寄生虫を飼ってるようなものです。

そして新しい気持ちを詰め込みましょう。
それを選択するのもまた「あなた」なのです。

さて、ここまでそんな自己受容の良さを書いてきましたが、実は二つ、重大な問題点があることを示してないのです。
お気づきの方もいらっしゃるでしょう。

ではまず一つ目。

これは、あくまで価値観の変容によって、世界の見え方を変えたに過ぎないのです。
現実の問題は、目の前に依然横たわったままです。
私の場合、未だに底辺で、お金が無いのです。そういう現実の問題もあるわけです。

そのままでいいのか? という話です。

いや、良いわけありません。折角、真の自分になったのです。
できれば幸せになりたいじゃないですか。

二つ目です。

自己受容は再三申し上げております通り、価値観をリセットしてまっさらにするための方便です。
それはありのままの自分を受け入れることですが、場合によってはそのありのままの自分の何かが致命的な問題を孕んでいる場合もあります。
真の自分になることができたとして、それで他者に害をなす存在になってしまっては本末転倒です。

これは極端な話となりますが、他人を巻き込むような性癖や犯罪にかかわる欲求なども全て「わたし」として認めてしまうと、それはまぁ、大変なことになってしまう訳です。

あくまで、他人に害を与えない範囲で自己受容しようと言ったところで、本人が頑なにそれを拒めば、危うい方向に進むことは日を見るより明らかでしょう。

その部分の議論を意図的に私はここまで書きませんでした。
何故なら、再三申し上げております通り、自己受容が最初のスタートラインだからです。
いきなり決意したから、すぐに何もかもが良くなるわけではありません。

何を変化させ、どのように変化させるかは、「あなた」自身にかかっているのです。
こちらも何度も重ねて言いますが、それを誰かのせいにする事は出来ない訳です。
だって、「あなた」がの人生で選ぶのも「あなた」なんですから。

今まで自分を形作ってきた価値観を、一つ一つ丁寧に検証し、そして変えていく作業が発生します。
自己受容は、その価値観を見つめなおし、知るという第一歩でしかありません。

時には失敗することもあるでしょう。
思ったように行かないことも多いかと思います。
ですが、焦らずに少しずつ変えていけば良いのです。

アドラーさんによると、この自己受容を完璧にこなすには、今までの人生の半分の時間が必要だと言われています。

そして、この自己受容に取り組む覚悟を決めた勇気ある「あなた」に、更なる道を用意してくれています。

共同体を意識して貢献感を得よう

さて、アドラーさんは自己受容というスタートラインを引きましたが、その先のこともしっかりと考えてくれています。

そこで出てくるのは、共同体という概念です。

「自分が世界の一部であり、自分と言う存在が世界に影響を与えていることを実感する」

この概念、皆さまは、理解できますよね。
恐らく逆に皆様は「ああ、そうなんだ」位の感覚じゃないでしょうか?
学校、会社、社会、はては世界全部。アドラーさん的には最終的に全宇宙であると言っています。

しかし私の読んだ本によると、この概念は哲学者の中で意見が真っ二つに割れたと書いてありました。
これ、私には意見が割れた理由が分かります。凄くわかる。

そうなんですよ。この概念、実は日本人との親和性がとても高いんです。
え? 実は、アドラーさんは日本人だったんじゃない?って、私は思ったくらいです。
なのに日本で全然有名じゃない。なんてもったいない。

この概念、古くから日本に根付いている物なのですが、大本は何だと思いますか?
学のある皆様は、恐らくピンと来たと思います。

そう。神道や仏教なんです。

対して、欧米は基本的にキリスト教など一神教が主流の宗教が信仰されていました。
この違いが社会形成の上で大きな役割を果たしているのは周知の事実です。

では何が袂を分けているのか。
それは大本の目指している所が、それぞれの宗教で全く違うからです。

一神教に見られる信仰は、絶対的な存在に救って貰うという形をとっています。
対して仏教は、大衆が解脱して仏になる事を目的としています。
神道はもっと単純で、この世のあらゆるものに神が宿りそれを祭るものです。

一部の仏教は変質して、一神教のような振る舞いをしますが、根元の部分のアプローチが異なるんです。

一神教の場合は、唯一無二の存在をあがめます。
仏教の場合は、仲間と共に歩み、世を正していく仏を目指します。

この違いが、その国の風土の根幹を決めたんだと私は解釈しています。
一神教の場合は、世界もそして自己のあり方も全然違うので、それは違うとなるのだと思います。

そして話を戻しますが、共同体とはまさに、日本古来の宗教と相性がいいのはわかるかと思います。
皆で仲良く仏になろうねー。万物に神が宿るから恐れ敬おうねーが、主体なのですから。

また、世界感も仏教の場合は無限なんですよね。神道はちょっとわからないです。
一神教の価値観では、世界は神が創りたもうたものなので、神の意志の下でしか存在できません。

そういった呪縛は、欧米であれば強いのでしょう。
だからこそ、ここまでアドラーさんは苛烈に説いたのだと私は思っています。

さて、ラッキーな事に日本人である皆様は、共同体の概念はすんなりと受け入れられるでしょう。
ですから、私たちの場合は、最後の「自分と言う存在が世界に影響を与えている事を実感する」かどうかが、ポイントです。

しかしこれは私が言うまでもなく、皆さま一人一人が生まれてから今に至るまで世界に影響を与えています。
これが、厳然たる事実であり、実は疑う余地もない事だったりします。

そう書くとまた「そんな事はない。私は矮小な存在で、世界に必要とされてない」という人も出てくるでしょう。
そう、昔の私の様に。

明確に間違ってます。
だって、存在すること自体が既に影響を与える事なんですから。
だたそこに「あなた」が存在するだけで、常に世界に影響を与え続けています。

「あなた」がそこに存在する為に、場所を取り、食事や空気や水と言う資源を使い、そして人との繋がりと言うコミュニティが否応なしに生まれるのです。

そして世界にとっては別に「あなた」がいようがいまいが関係ありません。
そもそも世界から見れば、「あなた」が必要な存在であるかどうかは重要ではないのです。
ここをはき違えては駄目なのです。
矮小だろうと必要とされてなくても、「あなた」は「あなた」なのです。
そこに意味を見出すのは、世界ではなく「あなた」なのです。

某チキン的なアーティストの歌に、カルマという曲があるのですが聞いたことのある方はいらっしゃるでしょうか?
その歌詞の前半部分にこんなものがあります。

※歌詞からの引用です
ガラス玉ひとつ落とされた

…(中略)…

心臓が始まった時
嫌でも人は場所を取る
奪われない様に 守り続けてる


これは存在という話の真理です。

人は勝手に生まれてきません。
親がいてそして育てられ生きてきたからこそ「あなた」になっているのです。
そして今なお「あなた」がそこに存在し続ける限り、世界に影響を与え続けているのです。

この事でもし反発を覚えてしまう方がいるようでしたら、それは「あなた」が「あなた」の望む影響を世界に与えられてないと実感しているからに他なりません。
本当は与えたい影響があるのに、それができないから受け入れられないだけです。
これも自己受容の難しいところです。

話を戻しましょう。

ちなみに、この共同体に参加できないまま、強引に自己受容を進めると大変なことになります。
それは社会に受け入れられることを拒みつつ、自己肯定を続けることと同義だからです。
だからアドラーさんはこの共同体という概念を、皆に反対されながらも痛烈に説いたのだと思います。

この共同体に参加するという事をもう少し簡単に言ってしまえば、これは社会に参加している実感と言い換えることができます。
そして、その感覚をアドラーさんは「所属感」と言い表しています。

そして所属感の事を、アドラーさんはこう説明しています。

所属感とは、生まれながらに与えられるものでなく、自らの手で獲得していくもの

こう書かれると少しピンと来る人もいるのではないでしょうか?
そう、この「所属感」を別の言葉に置き換えるなら「居場所」となると思います。

さぁ、何となく見えて来たのではないでしょうか?

この「所属感」=「居場所」を得られないと、折角頑張って自己受容しても、最終的に不幸になります。
何故なら社会に適応できない、ある意味で間違った価値観を土台に自己受容することになるからです。

この所属感を得られずいると、最終的に今世間を騒がせている、凶悪犯罪者たちのようになります。
まぁ、ネットスラング的に表現される「無敵の人」というやつです。

しかしそのありようが、まさしく正反対なんですよね。
何故そんな事になってしまうのでしょうか?

それは先ほどから書いている通り、土台にしているものが違うからです。

自己受容している人は、自分自身の境遇をありのままに自分で背負います。
土台は自己肯定です。

しかし、無敵の人は全くの逆になります。
今の自分自身の一切合切を、誰かのせいにします。
土台は他者否定です。

そして、自己肯定を土台をとした自己受容をするには、どうしても所属感が必要だというのが、アドラーさんの言葉になります。
私もまったくもってその通りだと思ってます。

では、その所属感は、どうやって得ればいいのでしょうか?
これも、アドラーさんは明確に道を示してくれています。

「他者貢献」をすれば良いのです。
そして、他者貢献とは、こういったものです。

「他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるもの」

「ちょっと何言っているかわからない」と言う人も多いのではないでしょうか。
私もこの字面だけ見ると、「はてな?」ってなります。

ですが、実はこれ、凄く簡単な言葉で置き換えられます。

「感謝」です。

私も長い間苦悩して、最終的に行き着いたのがこの境地でした。
多分、昔の私の様に盛大に捻くれちゃった人(失礼)ほど、意味不明な反発心を覚える言葉かと。
でも、色々と実践してきて、これほどお手軽かつ効果の高い方法は無いと実感しています。

なんせこちらから一方的に投げつけられるんですから。
そうなんですよ、この感謝って、双方向じゃなくて片道なんですよ。

何か自分に嬉しい事をしてもらったら、ありがとう。これだけです。

「え? 感謝してそれに反応が無かったらどうするの?」って人もいらっしゃるかもですね。

チッチッチ、いけませんね(誰よ
その考え方は、自己受容できていない証拠ですよ。

「あなた」の感謝を受け取るかは、相手次第です。
そこで相手が受け取ってくれたら、「あなた」もハッピー。
よしんば受け取ってくれなくても、「あなた」の感謝の心は疑いようもないものです。
堂々と誇りつつ何度も感謝すればいいのです。
やっていることは「あなた」の中に出てきた感謝を素直に表に出したと言うだけなのですから。
だから一方通行で良いのです。

むしろ、相手に何かを期待してする感謝は、逆効果となります。
何故ならそれは承認欲求によるものだからです。ここでも出てきますよ、承認欲求。凄いね。
承認欲求を元にした行動は、感謝も含め一時的にそれでうまくいっても、最終的には崩壊します。確定事項です。
なので、再三申し上げております通り、承認欲求の扱いには厳重注意なのです。

まぁ、とはいえ、実はこの感謝って、意外と難しいんですよ。

最初は恐らく、意識しないと無理です。ここも価値観の改革が存分に必要なところとなります。
簡単にやり方の指針だけ書いておきますと、まずは、相手に感謝できそうなシチュエーションを予め想定しておくと良いです。
感謝できるタイミングって実は本当に短くて、その瞬間を逃すと一気に難易度が上がります。

だから、もう条件反射で「ありがとう」と口が動くレベルでの練習(?)が必要になります。

そんな事で何か良くなるの? と思った方は、四の五の言わずに実践してみてください。
緩やかではありますが確実に、周りが変化します。

何故なら感謝されて不機嫌になる人は、基本的にいないからです。
仮にそれで何かあっても、それは相手の問題です。あなたのせいじゃないです。
むしろ、感謝されて怒るようなそんな地雷のような人は、早めに自分の周りから撤去してしまった方が、あなたの人生にとって有益と思います。

感謝する事が、あなたが世界に良い影響を与える存在になる一番簡単で近道だったりします。
是非、積極的に感謝して、ご自分の存在を世界に対しても良いモノになるよう押し上げて下さいね。

最後に

さて、このような大長編をここまでお読み頂き、ありがとうございました。

ちょっと情熱があふれた結果、いささか暑苦しいバタついた記事となりましたが、書きたいことの大半を詰め込んだつもりです。
完全に自分本位の記事ではありますが、今、この時、どこかで苦しんでいる「あなた」の助けに少しでもなったのであれば、それは私の他者貢献を存分に満たす結果となります。
むしろ、そうなったのなら、私から「ありがとう」と言いたいくらいです。

そうなった瞬間、この私のズッタボロの人生に新たな意味を「あなた」が与えてくれたことになるのですから。
そして、この一方通行でしかない感謝の連鎖が、アドラーさんの言う幸福になるための方法であることを実感できると思います。ちなみに、気に入ったら投げ銭してくれても良いのよ?(下種

今、自己受容を行い始めた方は、これから色々と悩むと思います。
全然うまくいかずに、落ち込むこともあると思います。

しかし、決意した今の「あなた」は、ちゃんと未来を目指せる「あなた」になっています。
変われない人などいません。というか、日々、人は自覚なしに変わり続けています。
ならば、その方向を少し手も自分が幸せになるように修正すればいいだけなんです。

その方法はシンプルです。
自己受容し、共同体に所属し、感謝を忘れなければいいのです。

肩ひじ張らずに、今の自分を見つめながら、自分だけの道を歩いていきましょう。
その先、もしかしたら私の道と交わる方もいらっしゃるでしょう。

そんな時、笑いながら「いやぁ、苦労したねぇ」と言えるような自分になれれば良いなと思います。

では、まだ続く「あなた」の人生に幸あれと申し上げて、筆をおきたいと思います。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

※この記事の一部文章は、以下の書籍より引用させていただきました。
 
 嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
 岸見 一郎/古賀 史健:著
 ISBN:978-4-478-02581-9

こんにちは! 世界の底辺で、何とか這いつくばって生きているアラフォーのおっさんです。 お金も無いし、健康な体も無いけど、案外楽しく生きてます。 そんなおっさんの戯言を読んでくれてありがとうございます。