ノスタルジーに浸れる時代が無いなら、どうすればいいんだろう。

(思考のメモ書きなので、まとまった記事ではないです)

1980年代生まれの自分にとって、ノスタルジーに浸れる時代はあったのだろうかと、時々考える。
バブルが崩壊した1990年代?リーマンショックが起きた2000年代?最早、経済的衰退と国際的地位低下が誤魔化せなくなってきた2010年代?
物心ついてから今まで、いつだって楽しい時代はなかった。失われた◯◯年という不景気の象徴的フレーズは、自分の人生の歩みの隣を、常に影のように寄り添っていた。失うことに慣れすぎて、最早何が失われているのかすら分からない。失われた◯◯年を取り戻したとして、果たしてそれらに現実感を感じるのだろうか。

楽しい時代がなかった代わりに、好きなオタクコンテンツは豊富にある。そのせいだろうか。僕は、現実の時代よりもフィクションを通したシチュエーションにノスタルジーを感じてしまう。
「麦わら帽子に白ワンピースの少女」やら、「幼馴染みの女の子と、夏祭りに行く」やら、そういった感傷マゾ的なガジェットは、オタクコンテンツ(主に田舎が舞台のエロゲー)を大量摂取した時に浮かび上がる集合的無意識のようなノスタルジーの産物だ。少なくとも、90年代の街中の風景をyoutubeで観るよりも、僕にとってはこれらのフィクションこそノスタルジーの対象だ。

「昭和レトロのように、現実の時代(高度経済成長期とか)を元にノスタルジーに浸るのは、もう難しいのではないか。現実よりも架空のものにノスタルジーを感じる方が、よほど実感が湧く」という問題意識があったので、架空のノスタルジーというテーマで本を作った(感傷マゾvol.03 架空のノスタルジー特集号)。
寄稿者の方々をはじめ、同じ感覚を持っている人が結構いると知れただけでも、収穫だったと思う。
最近、考えているのは、「架空のノスタルジー を抱えた人は、どこに帰ればいいのか?」ということだ。元々、ノスタルジアという言葉は、スイス人傭兵の極度のホームシック状態を表す病名だった。戦場でノスタルジアを抱えたスイス人傭兵は、戦争が終われば故郷に戻ってノスタルジアを満たすことができる。
けれども、現実の場所ではなく架空のノスタルジーを抱えた者にとって、戻るべき場所は存在しない。かつて在ったものが失われたのではなく、架空だからこそ最初から存在しない。

大学卒業後、十年以上会社で働いて、会社と駅と自宅とスーパーマーケットを行き来する下手くそなループSFみたいな日常生活を送っていると、「このままでいいんだろうか」という漠然とした焦燥感に襲われる。
僕は独身者だからそう感じるのだけど、多分、家庭持ちの人より独身者の方が、そういう感覚が強いと思う。独身生活は、自分と向き合わざるを得ないつまらない時間が長すぎる。
「このままでいいんだろうか」という、何かピースが収まるべき場所に収まっていない感覚は、架空のノスタルジーの帰るべき場所がない感覚と結構近い。
本来、ノスタルジーは、故郷なり青春なりの既にあるものが、遠くに離れるなり失われるなりして、自分の手が届かなくなった時に感じるものだ。その点において、最初から存在しない架空のノスタルジーは本質的に異なっている。戻るべき場所も時代もないから戻れないのに、ピースが収まるべき場所に収まっていない感覚が続いている。
偽物の故郷の記憶を植え付けられた渡り鳥が、帰巣本能に基づいて存在しない故郷を目指して飛び続けているような焦燥感だ。

それなら、架空のノスタルジーを満たすものを作るしかないんじゃないか。かつて在ったのに失われたものを再現すると、偽物になる。けれども、最初から存在しないものを架空のノスタルジーに基づいて作り上げたとしたら、それは偽物ではないだろう。
例えば、VRで架空のノスタルジーを満たすためのワールドを作り上げたら、どうなるのだろうか?私達は、それで本当に帰巣本能を満たせるのだろうか?それとも…。

というメモ書きにしたら長くなったけど、次の感傷マゾ本『VRと感傷特集号』で、何となく考えていることをつらつら書いてみた。

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