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【小説】さようなら、稲荷山先輩(結)

「俺は長生きするって、占いに出ているんだ」
 口癖のようにそう言っていた稲荷山先輩だったが、しだいに肉体が不健康に蝕まれ、呑み込まれてゆくのは、誰の目にも明らかであった。元々高血圧、高血糖、高脂血症の3Kの上に、極端に偏った食生活と運動不足(というより先輩の場合は運動絶無だろう)により太り続けた。ズボンの前のフックやボタンがかからずいつも開けっぱなし、脚が体重を支え切れずに悲鳴を上げ、内側へと歪曲してくる。近いうちに歩けなくなり、そうなるとすぐに立てなくなるのではと不安になる。

 そういえば、子どもの頃観たアニメ銀河鉄道999に、ある惑星の住民達が労働を機械任せにして一切動かなくなり、どんどん肥満して遂には家を突き破ってしまうというエピソードがあった。稲荷山先輩は、そこの住民に似ているのだ。今「銀河鉄道999 デブの回」で検索をかけると『なまけものの鏡』と出てくる。付け加えておくと第59話で、オンデマンドで視聴できる。

 それはともかく、心配するぼくに向かって、先輩はこう言い放った。
「あれ? なんか最近腹が出てきたんじゃね? ジム行った方が良くない?」
 いや、お前が先に行ってこいや!
「この地球上で、その言葉を一番言われたくないのが、先輩です」
 ガハハハと笑って取り合わない。

「マジで食生活を改善し、運動しないとヤバいですよ」
「いや、タバコの方がよっぽど不健康だと思うね」そう言って、ニヤリと笑う。
 このとき先輩から初めてまともな言葉を聞いた気がして虚を突かれたぼくは、禁煙を決意し、成し遂げたのだった。だって、先輩がぼくより長生きしたら、悔しくて仕方がないもの。

 禁煙によりぼくの体調がどんどん良くなる一方で(やはり先輩は恩人である)、先輩の方は体中で満遍なく糖化が進み、顔色がホットケーキのようにこんがり焼き上がって、50手前で髪は完全に白髪に枯れてしまった。しかし、案外しぶとく、成人病の総合デパートみたいな人が予想に反してコロナ禍をなんなく生き延びた。だからといって、ゆっくりとだが、やがて確実にやって来るカタストロフを前にしては、もはや手の施しようがない。

 それから、ぼくはさらに高みを目指して転職し、稲荷山先輩とは別の道を行くこととなった。

 ここで冒頭に戻る。
「とうとうクビになっちゃった」
 真っ昼間(夜勤明けのぼくにとって深夜に等しい時間帯)におよそ半年ぶりに電話をかけてきた稲荷山先輩は、前置きなしに切り出したものだった。
「クビ? え、それってどういうことですか? そんな簡単に馘首できるものなんですか?」

 とうとうその時が来た、待ちに待った時が来た、ざまあみろである。いかなる忠告もアドバイスにも一切耳を傾けなかったのだから、それこそ自業自得だ、もはや年貢の納め時だ。

「実は入院してた、絶対安静で」
 あれほど病院を嫌っていた先輩が入院とは、余程のことなのだろう。
「病名はなんですか? 例の流行り病ですか?」
「そうじゃなくて、体調不良で……」
「だから、病名は?」
「いや、言ってもわからないと思うよ……長くて複雑で暗記できないしさ」
 暗記できないのは先輩なのか(まさか自分の病名を知らない?)、それともぼくがなのか、相変わらず要領を得なくてイライラする。
「脳ですか、それとも心臓ですか? はたまた前立腺?」
「骨折したんだ」
「転んだ? まさかバイク事故?」先輩の体重でタイヤが凹んで、地面にめり込みそうになり、シートの位置がずいぶんと低くなった赤いスクーターが目に浮かぶ。「だからバイク通勤はダメだと言ったじゃないですか」
「事故じゃないよ。コツショショーショーになっちゃって、ケイ骨を折っちゃって」
 長くて複雑で暗記できないって、まさか骨粗鬆症のことではないよな、ちゃんと言えてないけど。
「クビの骨を折ったのですか? そりゃ大変だ、もしかしてクビになったってそういう意味ですか」
「何言ってんだよ、ケイ骨だよ、ケイ骨」
「脚?」
「脚」
 頸骨(頸椎)ではなく、脛骨ね。紛らわしい。最初から、スネの骨と言えば良いんじゃないか。
「骨粗鬆症で?」
「ショショーショーで」
 体重を支えきれず内側へと歪曲したあのあまりにも華奢なO脚、とうとうヒビ割れ、ミシミシと折れてしまったのか。
「あと腰骨も。今はコルセットしてる」
 きっと特注のコルセットなんだろう。
「まさに満身創痍ではないですか。それでクビ? 病気って、解雇の正当な事由になるのでしたっけ」
「マサニマンシンショーじゃ」
「いや、解雇の理由は何かって訊いてるんでけど。無断欠勤ですか?」
「ショショーショーでマンシンショー」
「もしもし、もしもし、ちょっと何言ってるんすか? 聞こえてますか?」

 だから、あれほど言ったじゃないですか、もう何度も何度も繰り返し忠告したじゃないですか。カップ麺は止めろ、と。運動しろ、バイク通勤は止めて歩け、と。塩分と糖質を控えて、野菜を食べろ、と。タンパク質も摂取しろ、と。交通費をちょろまかするな、と。デスクの上に仕事に関係ないモノは置くな、と。人妻で子持ちの上司を追いかけ回すな、と。無理なローンまで組んでボロマンションなんて購入するな、と。占いなんて信じるな、お守りなんて気休めに過ぎない、と。喉元まで出かかった言葉を、ぼくはぐっと呑み込んだ。今更なにを言っても無駄である、人間粗大ゴミはもう人間廃棄物同然になってしまった。

 こんな日がいつか来ることはわかっていた。もし来なければ、神を呪っていただろうけど、かと言って満足という感情とは程遠かった。愚かしさと認知の歪みが悲惨な結末をもたらしたかと思うが、それは本人にも他人にもどうしようもないことであって、別に人の不幸に蜜の味を感じるというわけではない。ぼくにとって耐えがたい人であったが、何の恨みもないのである。

「それでさ……あのさ……ちょっと言いにくいんだけど、お金を……」

 すぐさま通話を終了し、先輩の番号を着信拒否にした。

 さようなら、稲荷山先輩。

(了)

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