今日のアウトテイク#86「「ぼく」という自我とコワーキング ほか」【メンバーシップ特典】(2024-02-12)

<アウトテイク>
・SNSに投稿する前の推敲(もしくは配慮)なしのメモ
・投稿せずに、いや、やっぱりやめておこう、と思った殴り書き
・ブログ記事として仕上げる前の思索の断片、または下書き
・一部、筆が乗ってきて文字数多いのもあり〼
・たまに過去に書いたネタを展開する場合も
・要するに「伊藤の現在地点」

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今日も祝日らしいので無料版に。

#今日のBGM

#今日のコトバ

"問題を解決する時間が1時間あったら、問題を考えるのに55分、解決策を考えるのに5分費やしたい。"
(アルバート・アインシュタイン)

#あなたはいつあなたになるのか

意識してやってるうちはホンモノにはなれない。
意識せずにやってしまって「おー」と言われればホンモノ。
その時、あなたは何が「おー」なのかは判らない。
でも、無意識下の行動がホンモノのあなたを露出させる。
だから、思いついたら躊躇せずやってしまうこと。
その中から、ホンモノのあなたが現れる。
「おー」の瞬間を、お楽しみに。

#ボイスメモ

歩きながら、ふと思いついたことをスマホにメモするのってめんどくさい。
ぼくはだいたい、Facebookのメッセンジャーでメモを自分にメッセージで送る。
この「今日のアウトテイク」に書いてるネタも、見つけたり、思いついたりしたらすぐにメッセンジャーする。
ただ、ポケットに入れて持ち歩きたいから、iPhoneSEなので画面もそんなに広くない。
老眼だから画面も見にくい。
そこに指をあてて文字を書くのがだんだん面倒くさくなってきた。
で、そういえばと思って音声でメモ(録音)して自分に自分で送ると簡単、便利。
これをチームでコワーキングを運営するときにも、情報共有に使ったらどうかと、以前、書いたが、一度、試してみられるといいと思う。

と、書いてて。。

#noteは有料部分は検索してくれない?

今、気づいたが、noteの自分の過去記事を検索する機能が便利で使ってるのだけれども、記事の有料部分にある単語は検索対象になっていないのではないかしらね?

上の章でリンクを張った過去記事は、「ボイスメモ」で検索しても出てこなかった。でも、実際にその記事はある。よく見たら(自分で設定したんだが)有料部分にのみ「ボイスメモ」の記述があった。それが原因?

で、それって、もしかして、自分の過去記事に限らず、note全体で検索かけるときもそうなんだろうか?

それで、いいのかな?

#よみかけライブラリー〜「ぼく」という自我とコワーキング

日本最古の書「古事記」には、すでに「僕」という言葉が使われていたらしい。最初に「僕」と言って「古事記」に登場するのは、あのスサノオノミコト。

僕は妣の国根之堅洲国に罷らむと欲ふ

が、その部分で、「ぼくは亡き母のいる国根の堅洲国に行きたい」という意。「古事記」の編纂は和銅5年(712年)だから日本最古の「僕」だ。しかも「古事記」には「僕」と称する人が24人出てくるらしい。

ということを、この本で今読んでる。まだ、途中だが、もう、めちゃくちゃ面白い。

日本語に自分のことを表す言葉はやたらと多い。「僕」「俺」「私」がその代表だが、他に「わし」「うち」「あたい」・・・と続き、そのうち「小生」「拙者」「某」「吾輩」「我」なんかも混ざってくる。英語では、I(アイ)はI(アイ)に決まってる。こういう曖昧な、いや、なんでもOKなところが日本らしいところでもあるが、不思議ではある。

「僕」は共通の学問を背景にした「対等な男子どうしの絆」表す自称詞だったらしいが、時代が下るに従ってどんどん普及してくる。この本では、話が幕末から明治維新に及び、現代人の「僕」まで論考が続く。

現代人といえば、そうそう、三田誠広も村上春樹も出てくる。特に村上の自称詞の使い分けについての分析には唸った。

村上の章に、こうある。

彼らの多くが自称詞<僕>を使い、国家や企業・大学などの組織に属さない自由な立場で、社会的な束縛や伝統から切り離された感性を表現していた。彼らが表現したのはあくまでも個人としての物の見方・感じ方であり、権威の後ろ盾もなかった。それだけに小さな世界ではあったが、その小ささこそが輝いて見えた時代であった。
(略)
村上らの「僕」は、社会に属することを示す<私>とは異なり、社会から切り離された自由な自己を表す自称詞と感じられていた。

ぼくは「私」をほとんど使わない。いい歳してるのは承知しているが、話すときも書くときも、よっぽど失礼にならない限り、あるいは決まり文句でここは仕方ないというのでない限り、意識して使わない。

「私」には自分を感じることができない。自我の存在感が乏しい。どこか相手に阿ていて、違う自分が自分を語ってるような、操っているような、芝居をしてるような気分になる。自意識過剰かもしれない。

たぶん、さっきの引用にもあるように「組織への従属感」が居心地悪いのだろう。虚勢を張るつもりはないが、小さくても自分でありたいという欲求がそうさせるのだろう(と、この本を読んでて気づいた)。

いやもちろん、何らかの組織、団体には属している。一応、この社会の一員だし、小さいながらも協同組合も創設して加盟しているし、というか、コワーキングという共同体を自ら運営して、かつ、自分もその構成員だ。おまけに日本中のコワーキングとのつながりもある。

一言で「属する」と言っても、会社に属するのとコワーキングに属する、というか参加するのとでは、やや意味が異なる。コワーキングは共同体、もしくはコミュニテイではあるけれど、各人が自我を持って加わることが大前提だ。そこの色に染まることは必ずしも強要されない。個々の価値観、世界観に則って、気に入れば使えばいいだけの話。まず、個がある。

言ってしまえば、それは、社員になれば給与を支給してくれる会社と、その仕組みを利用して自ら成果を得るコワーキングとの差だ。

だから、コワーキングでの「ぼく」は会社での「私」とは、同じ自称詞であっても、まったく違う「自分」を表現していると思う。みんな同じの「私」か、それぞれが自分という別人格の「ぼく」か。それぐらいの違いがある。

ところで、ぼくは書くときは平仮名の「ぼく」を使う。昔は「僕」だった。字というのは面白いもので、同じ読みの「ぼく」でも、漢字と平仮名とカタカナで、それを使う人柄が微妙に違うニュアンスで伝わる。

こういうことはアルファベットにはないだろう、どうだ参ったか、と何も威張ることはないが、そういう豊かな感受性を持って我々は生きているということを実感する。

ちなみに、関西の一部地域では「自分」という言葉を「あなた」の意味で使うこともある。「自分、そんなん、あかんで」は「君、それは、ダメだよ」の意。他所から来た人はまったく「?」だろう。ただし、目上の者には使わない。まあ、それほど言葉って多様ということですね。

これ、オススメしておきます。

ということで、今日はこのへんで。

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