今日のアウトテイク#15「社会関係資本とコワーキング 他」【メンバーシップ特典】(2023-12-03)

<アウトテイク>
・SNSに投稿する前の推敲(もしくは配慮)なしのメモ
・投稿せずに、いや、やっぱりやめておこう、と思った殴り書き
・ブログ記事として仕上げる前の思索の断片、または下書き
・一部、筆が乗ってきて文字数多いのもあり〼

※noteメンバーシップ「Beyond the Coworking 〜移働の時代〜」に参加いただくと有料記事も全文読めます。

※読んで面白かったらぜひシェアくださいまし。


#今日のBGM

#AIと言葉

これまで、インターネットの主役は検索だった。
キーワードを入れれば答えが返ってきた。
けれども、これからはAIとの対話だ。
キーボードを打たずに音声で伝えればよくなる。
いずれにしても言葉が重要なことに変わりはない。

#コワーキングマネージャー養成講座@オンライン(告知)

「コワーキングマネージャー養成講座@オンライン+オプショナル現地オフライン補講」、第5期受講者募集中。

週一回のオンライン講義にオプションとして現地コワーキングでのリアル補講をミックスしたハイブリッド方式。

オフライン補講は現在4ヶ所で開催予定で自由参加、かつ、オンライン講座を受講していなくても参加できます。

なお、一部の自治体ではこの種の講座の受講料を補助する制度があり、過去には福島県の補助金を活用して受講された方もおられますので、一度、地元自治体の問い合わせてみてください。

早割もあるので、関心ある方は早めにこちらまで。

#Facebook広告

その「コワーキングマネージャー養成講座@オンライン」のFacebook広告の経過報告が興味深い。
どの層に届いているのかについて、全体の男女比はほぼ均等だけれど、25〜34歳では男性が多くて全体の16.9%である一方、45〜54歳では女性の方が多くて全体の20.5%を占める。

これはただ「届いている」だけで必ずしも「関心がある」とは限らないかもしれないが、なんとなくの肌感として「45〜54歳の女性」層というのは「あー、やっぱり」という感じがする。

この層がこれからのコワーキングで重要なポジションを占める気がする。
なんとなくの肌感だけど。

#コワーキングに競合という概念はない

コワーキングに競合という概念はない。もしあるとしたら、それはコワーキングではない。

個性やコンセプトを持って押し出すことは、何も競合対策のためにするのではない。そのコワーキングの世界観、価値観、あるいは課題感を共有できる者で、ひとつのコミュニティを作るためだ。

と同時に、他と連携したときに、他にないものを補完するためでもある。←ここ重要。

そこで、肝心なのが「共感」。

#社会関係資本とコワーキング

今日はこの記事に尽きる。

我々、人間は、なぜ、どうやって群れるのか、言葉の前に「共感」があったからではないか、それを人類学の視点から説かれているのだけど、コワーキングという「人間が構成する一種の共同体」に関わる、あるいは携わる我々にとって学ぶところ大。

まずは、一読いただきたい。

以下、少しだけ引用する。最初にハッとしたのがここ。

「10人から15人」という、ゴリラと同じ集団サイズとはいったい何なんだろうかというと、スポーツの集団です。ラグビーが15人、サッカーが11人、バレーが6人から9人でしょう。これ以上のスポーツの集団ってほとんどない。これは、言葉がなくても身体を共鳴させて、1つの動きを作れる集団なんですね。

これは感覚ですぐに判る。確かに言葉がなくても共感できるし、動ける。

コワーキングにおいても、コラボしかり、プロジェクトしかり、コミュニティ内コミュニテイとしてのこのボリューム感が大事。イベントでも、これぐらいの人数が相互に理解し合えていい空気を醸し出す。その空気がつながりを作る。

そして、ここ。「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」について、

じゃあ「150人」というダンバー数は、いったい何を表しているのか。これは「社会関係資本」だと私は思っています。(略)社会関係資本とはいったい何だろうかといったら、英語で言えば「ソーシャルキャピタル」です。

何かトラブルや悩みを抱えた時に、疑いもせずに相談できる相手の数の上限です。上限ですから、ふだんは150人も持っていません。これも実は言葉を原則としているわけではなくて、過去に喜怒哀楽を共にした、身体を共鳴させたことのある仲間の数の上限です。

身体を共鳴させるとはどういうことかといったら、スポーツをしたとか、音楽を一緒に歌ったとか、あるいはボランティアワークを一緒にした、という経験です。それがこの社会関係資本を作る。だから、それ以上大きくならないわけですね。

ダンバー数というのは、イギリスの人類学者のロビン・ダンバーが説いた、「生身の人間がつながりを維持できるのは150人が限度」という数のこと。数十年前の理論だから、インターネットのある現代では少々疑わしいという説もあるが、それこそ生身の人間としては今でも妥当な数字だとぼくは思う。

ポイントは「何かトラブルや悩みを抱えた時に、疑いもせずに相談できる相手」というところ。

コワーキングは仲間を作ってともにカツドウ(仕事にせよ勉学にせよ社会活動にせよ育児にせよ)するための仕組みだから、「疑いもせずに相談できる相手」を作るに最もふさわしい。独りでもくもく仕事するのもときにはありだが、他者との関わりを大事にしたい。それがあなたを助けてくれるし、あなたも誰かを助けることができる。

そして、2001年のユネスコ総会の際の「文化的多様性に関する世界宣言」についてのくだり、

そして第7条は「創造は、文化的伝統の上に成し遂げられるものであるが、同時に他の複数の文化との接触により、開花するものである」。文化は個性的で多様でなければいけないけれども、それが互いに接触しなければ未来は開けない、創造性は生まれないって言ってるわけです。これはとても重要な指摘だと思います。

はい、これ、とても重要な指摘です。

先にも書いたが、独りで「孤ワーキング」するより、個性を持つ者同士、他者と複数の接触機会を持つこと、それによって双方の可能性が開かれる。「互いに接触しなければ未来は開けない、創造性は生まれない」という言葉は真理だと思う。

そして、今、世界で起こりつつあることは文化の無国籍化だ、というここの一節。

それは信用社会、つまり社会関係資本から契約社会への移行によってもたらされた。そこには信用というものがあるわけではなくて、制度やシステムと人々が契約を結ぶ社会があるだけです。そっちのほうにどんどんシフトしてるんですね。みなさんがたくさん持っているカードは、この契約の証です。

契約社会は制度とシステムがあるだけで、その先に人間はいないんです。制度やシステムが壊れれば、それで終わりです。

鋭い指摘。確かに制度とシステムがすべてを支配しつつある。しかし、それで終わってはいけない。

でも信用社会は、たとえ自分の身近な人がいなくなったとしても、身近な人が持っているネットワークがまた我々の近くにやってきてくれるわけでしょう。だからこれはレジリエントなんです。契約社会とは違います。

契約社会がなぜできたかというと、これまで人と人とをつなぎとめてきた3つの縁、「地縁」「血縁」「社縁」が喪失したからです。でも、人々は縁がなくては生きられません。だから一時的な縁を求めて、いろんなイベントにみんなが殺到するという事態が起こっている。

ここにも、コワーキングを考えるときに重要なファクターがあるように思う。「人々は縁がなくては生きられません。だから一時的な縁を求めて、いろんなイベントにみんなが殺到するという事態が起こっている」というのは、確かにそう。

どころか、そのイベントを企画・催行する立場にある。それはしかし、失った「縁」というものをリカバリする意味もあるはず。それをコワーキングでのカツドウの中で再生するのもコワーキングの目的でもある。つまり、作業場ではなくて「再生場」。

最後に、とても大事なここをあげて終わる。

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