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行間を読む 2万Hz 魂のきしむ音

noteで「さらけ出す」ことの是非は色々な形で考察されてる。
       ※澁澤玲さんの「剪定のセンス」で触れられているあの記事
        マリナ油森さんの「心のパンツは脱がないで」
        2016年には note の CEO加藤貞顕さんも「さすが」な記事
        タイトル「さらけ出すとかしたくないよ」

私自身も、「さらけ出し」については、大いに悩みつつ、たまにアカウントごと消そうかと思ったりする、煩悩まみれのにんげん・・

言い出すときりはないのだが
■我が子について思うことを書く場合
 コレばらしていいのかな、とか。
 大きくなってもし読み返したらどう思うんだろう、とか。
■経験した出来事について書く場合
 いつか、もし知り合いに読まれたとして
 個人が特定されるようなことを書くのはさすがになぁ、とか。

「写真はSNSに投稿しないでください」
とは、学校行事のたびにリマインドされる

■昔の話ではあっても、知人や家族のエピソードなど、
 他人が絡む話。
そして、
■自分自身の闇。
(これにも意外に他人が絡んでいたりする)

みんな、どこかで折り合いを付けながら書いているのだと思う。
そして、出せば出すほど自分の中で何かは変わるだろうが
「どこまで出すか」については
ひとりひとりに美学があるかもしれない。

しかし、これだけは、「読み手」の意見として
言っておきたい。


あなたが、そうやってためらいながら
どこまで書くか、どこまで掘ったのか、
この先どこまで行けるのか

ためらいキズ、試行錯誤、すべって転んで
色々苦しみながら向き合っていること

それは、私にも、きっと他の読み手にも
伝わっているよ


言い換えれば、誰もが
「これは墓場まで持っていく」
「でも誰かに聞いてもらいたい」
のはざまで、揺れ動きながら生きてるものなのかもしれない。

だからこそ!
苦しみながら、恥を捨てて時にエイやっと書いたもの、

真摯に向き合って書かれた文章からは、
そこには書かれてなくても、傷跡や、葛藤したり模索した経験値が
書いてる文章の端々から伝わってくる
と思うコトさえある。

読んで得られる、魂のカタルシス。


誰もが、何かを抱えてるし、何かに向けて・何かから逃れようともがいている。
その「何か」を明示されなくとも

あぁ、ここにも苦しんでもがいて、でも逃げずに立ち向かってる人はいるんだなぁ

別にそれで私の何かが変わるわけじゃないけど・・



さぁて、
私も、立ち止まるわけにはいかないから前を向いてぼちぼち歩いて行こう

と、思える。

いま、お遍路さんの「同行二人」という言葉と
キリスト教の「人生を共に歩んでくれる神」コチラの詩が浮かびました。
「一人じゃない」は、信仰にも通ずる、心の支えかもしれません
                     → 別記事に書いてみました


数か月前に仲高宏さんが提案されたnoteのお題で、
(人間の耳には聞こえないけど
例えば犬には聞こえていると言われる)「2万Hz」以上の音を
どうやって文章で表現するか、というチャレンジがありました。
仲さんによるまとめはコチラ

バタコ自身は、その当時、投稿にまで至らなかったのですが
「文中に登場しなくても、
思考や経験の深さ・重みが行間からたちのぼってくる」ありさま
それを、2万Hzと呼びたい、と思いました。

ヒントになったのは、
CD以前のアナログ音源(レコードなど)では、人間の耳には聞こえない2万Hz以上の音も収録されていたのに、CDにするときはデータが膨大になるために、聞こえない音は削ってある、
という(私は知らなかった)新知識。
この音域が入っていないために、オーケストラのコンサートやライブ会場で体験できる音とは全く別物で、味がない、というヒトも居るんだそうです。

「気づくヒトは気づく、わかる人にはわかる。言語化できなくても、実は誰もが感じ取っているかもしれない『差』」


それが聞こえてくる気がする方の文章は
もっともっと読みたい、と思うし
一見、何気ない話を書いていても、ぐさりと刺さったりします。


2万Hzの気配すら感じられない場合は・・
(出す気が全くない?あまりにもスマートに隠せている?)
そっとブラウザを閉じることも・・ 
  
    ※エッセイや小説、そして主にnoteでお見かけする文章において、
    という意味です。論文や新聞記事などは、また別でしょう。


「さらけ出し」方が、自分の周波数と会わない、
という場合もあるでしょうね。
バタコは HSS 型 HSPの気があり
恐いもの見たさと、一種の繊細さが同居しているので
「受け付けない」ものもあって
これは相性だから、仕方ない。
                ※知覧特攻平和会館にはもう行けない


何か苦しかったことや克服できていないモノ
自分の中のくらい深淵、魔物と闘っている姿は
読むだけでカタルシスにつながる。


だって、多分、誰にも「出せない話」はあるから。
自分でブレーキをかけてる場合もあれば
抑制してることにすら気付いてないケースも。

だからこそ
悪戦苦闘するその姿をみるだけでも
救われる人がきっとどこかに居るのだ。

全てをさらけ出したときが「あがり」で
その成果物だけが人の心を打つわけじゃない。
迷い苦しみながら生きているその姿が
誠実な、あるいはカッコつけた!?文章から
どこかでほの見えて
そのことに涙するヒトもどこかに居るんだ。


私はやっぱり、2万Hzが聞こえるような文章を、読みたい。
















最後に:千鶴さんのnote記事を拝読して、考えたことを書きました。


最後まで読んでいただいてありがとうございます!