ドン底なんて見飽きたなと思うのに毎回新鮮に辛くてすごい

私は告白をされたことがない。
幸い共有し難い罪の告白を受けたことも、相手から好意を伝えられたこともどちらも。

大きな要因として、好きになった相手に好きだと伝えることを躊躇う私のストッパーが人一倍脆弱なことと、四半世紀立派に告白されずに生きてきたこの歴史を守り抜くために、好きじゃない人から告白されないようになんらかの気配を察すると頼むから告白しないで欲しいと全身全霊で伝えてきたことが考えられる。

もっとも、告白という結末を見たことがないので、なんらかの気配がそうだったのかは全くわからない。実際、25年の人生、鼻血が出そうという感覚に襲われたことがなんどもあったが、まだ一度たりとも私の鼻から血が流れたことはない。でも、何故か、鼻血が出そうという気持ちになることがあるから不思議なものだ。

界隈の異性の殆どに告白してはその多く打ち破れてきた男は、最後「もう、〇〇くらいしかいないんだ」ともはや勝ちにいく気持ちの欠片もないような告白を〇〇ちゃんにしていた。
私の記憶違いでないとしたら、まだ私にも告白してないはずなのだけど、のちに彼は「いや、篠原はそういうのじゃないじゃん」と猫背でヘラヘラしていたので記憶違いではないのだろう。

サッカーのフィールドに立ってすらいないのに絶対ここを通すまいと闘志に満ち溢れたゴールキーパーだったのかもしれないけど、オリバー・カーンばりの名キーパーである可能性も同様に否定はできない。ともかく告白されたことがない訳だ。
私が告白されてもいいと思う人が私より先に告白することはラクダが針の穴を通るより難しい(新約聖書マタイ19 章)

それが、一昨日告白される予定だったのだ。そんな過去形はおかしいけれど、とにかくそうだったのだ。
「次に会う時、誕生日プレゼントを持って直接告白したい」というもうほぼ告白にカウントしても自意識過剰ではない完璧な予告を受けて、あとはホームランボールがスタンドに吸い込まれていくのを見守るだけという状態だったのだ。

シンプルに結果を話すならば、好きな気がしたけど、途中で好きじゃないことに気付いたため、イベントの中止が決まったということのようだ。東京マラソンだって一般参加の中止が決まるくらいだ。私への告白が中止されることなど何の驚きもない。
通常の私であれば、相手の頭蓋を杯に変えて三日三晩宴を行わなければ気が晴れないくらい怒れる出来事だが、驚くことに「そいつは仕方ない!」と思える事情があったので怒ってもないし、責めるつもりもない。でも、これはひとえに私の極端な性格ゆえにこの出来事は自らが恋愛対象になり難い人間であることの象徴だと思い込み勝手に悲しんだ。

誕生日プレゼントじゃなくて、普通にお土産をもらった。色んな鳥が描かれている絵はがきのセットと願いを一つだけ叶えてくれて、叶ったら寺に返却するという黄色いお守りをもらった。今、願いなんて浮かびにくいよと思いながら何の願掛けもせずに財布に突っ込んだ。

故意かそうでないかを別にして、多少なり不幸のきっかけを作った人間に対して「幸せになれよ」っていう人間は、「自分の罪悪感を軽減すべく、努力をしてください」という厚かましいにもほどがある頼みごとまで重ねてくるめちゃくちゃ心の強い人間だと思う。

私の容姿コンプレックスの原因になった知人の男はそんな心の強い人間の代表格だった。
私はそいつが惨めなくらいに幸せになって高笑いしてやりたかったのに、幸せになってもなんか癪という地味な呪いを掛けられた。
善人の美味しいところだけを持っていくな。ケーキビュッフェで全てのショートケーキの苺だけを取ってゆくくらいの暴挙だぞ。
実際にケーキビュッフェで同じ暴挙を働いていたのかは知らないが、そいつは最近はちゃめちゃに太った。私は太っていることを醜いとか全く思わないけれど、容姿で人を見下してどんなことでも言っていいという価値観の彼にはきつかろうなと思った。人の不幸を願わないという善性でマウントをとっていきたいのでこのままリングフィット続けてぜひ痩せて欲しいと普通に思っている。

意味はわからないことだけれど、それを見ているうちに何故か私はなだらかに拒食をするようになってしまった。
幸いまだ病名のつくようなものではないと思う。毎日三食美味しくご飯を食べる日も十分あるし、過食や吐くこともしなければ、運動を始めたとかジャングルに行ったとかで痩せた部分もある。
先祖代々ぽっちゃり気味のキュートな家系でBMI22前後をうろうろしていた私には適さない体重で、私にとってはひどい痩せ方をしてしまいつつある。
痩せていることでそいつのフィールドで勝者ヅラしたかったのか、お前の安易な言動は人を不幸にしたと可視化してやりたかったのか分からないけれど、そんな自分がすごく情けなくなった。理性はそんなの馬鹿らしいと自分に物を食べさせることに必死だけれど、勝手にハンガーストライキをしてしまう自分がいてせめぎ合っている。

自分が人を傷つけたことを敏感に察知して傷付く人がハナから人を傷つけることは少ない。多分、もう謝ったのにしつこいくらいに思っている。それかきっとケーキの苺とか食べてる。
そんな奴が「幸せになれよ」って言ったから幸せになる訳ない。
私は全てのものと無関係に幸せであるべきだから幸せになるだけなのだ。
もし、私の容姿コンプレックスが二度と姿を表さないくらい消化された時、仮にそいつの罪悪感がなくなったって私の幸せにケチがつく訳じゃない。多分そいつの辞書に載っている罪悪感なんてガムのおまけ程度のものだから今更気にすることじゃないし。

私が好きな映画のキャラクターは「傷付いてたら負けだぞ」と鼓舞してくれる。一理ある。

こんなこと私が極端で繊細で粘着質だからで終わる話なのかもしれない。
それでも、私の辛さは私の辛さだ。こうやってよくどん底で何も考えたくないし、時には生きていたくないって気持ちになることもある。
今もきっと色んなことでどん底の気持ちの人がいるだろう。人間関係の悩みとか仕事とか病気とか不幸のバリエーションは人の数に対して多すぎる。
振られたとか大学受験に失敗したとか人から見たら大したことないよって言われるかもしれない。
でも、自分が辛いと思うなら大泣きしていい。どん底だって絶望していい。
私は望まずにか細くなってゆく身体とそれに至った自分の精神の情けなさ、恋愛対象になり難い人間として生まれ落ちたのかもしれないという損した気持ちが混ぜこぜになって昨日はなんだかどん底だった。
でも、ただでさえ最悪な気持ちになってしまったのに、他のものまで手放してたまるかって意地になって朝から夕方まで実験にいって仕事の連絡も全てバッチリ返せた。今までの私じゃできなかったと思う。もちろん全て手放して休むのも同じくらいえらいことは覚えておいてほしい。
そうして無心に過ごしているうちに、信じ難いような仕事が舞い込んできた。

出世とか成功とかのために生きている訳じゃないから、それ自体が私を幸せにする訳じゃないのだけれど、「こんないい事あるなら、死んだらもったいなかったじゃん」って泣けてきた。笑える気持ちで泣いた。

今日のドン底で死にたいと思っていた訳じゃないんだけど、不登校で自分には何もできないと思っていた時とか、生まれ持った容姿だけでこんな嫌な言動を受けるのかと絶望していた時とか、何度となくしてきた絶望を、全部その瞬間だけ手放して、今日まで生き延びてよかったと思った。単純だから最高に面白い映画を見たって同じ気持ちになるのだけど。

私には、止まない雨はないとか明けない夜はないとか無責任に自然現象と重ねて断言することはできないし、私にいいことがあったって、ただの※個人の感想だ。

そんなこと言わせてもらえば、止まない雨がないように降らない雨もないし、更けない朝もない。
間違いなく、これから先も生きている限り嬉しかった事全部なかったことにして絶望する日がまたくる。ドン底だと思った日に最高の仕事がきた経験は初めてじゃないのに、それから懲りずに何度も絶望して、また同じように安易に希望を持った。
また絶望しても、たった1日耐えれば、めちゃくちゃいいことがあるかもしれない。あくまでかもしれないだけど。
でも、私はその可能性にいつでも賭けていたいと思う。
何かしらのご褒美のために生きるようであまりに陳腐だと思う人もいるだろう。
でも、絶望を抱えている時じゃ、選べないことが多すぎる。
絶望に人生の手綱を握られないために。

今、私の願いが叶うならば、ドン底だと感じている人の耐えがたい一日に少しでも寄り添うものを作りたいと思う。どこかの誰かがあと少しだけ待ってみようと思うものが書きたいと思う。もしくは、うっかり一瞬気を取られて読んでしまうようなものを。それを一生続けて生きたいと思う。
財布の中の黄色いお守りにはそんなことを願ってみた。
いつ返せるのか分からないけど、いつか返すつもりでいる。

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