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武蔵野市住民投票条例否決の「意味」ー読売・産経報道とヘイト

 武蔵野市住民投票条例案の否決から一夜明けた22日。読売新聞は「『外国人住民投票』否決」、産経新聞は「外国人投票権を否決」とそれぞれ一面で報じた。産経においては一面トップである。
 どちらも共通するのは「住民投票条例(案)」の否決ではなく、「外国人」の投票(権)についてを見出しにしているところである。

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 そして、両紙はそれぞれ「外国人投票否決 対立と混乱招いた責任は重い」(読売)、「外国人条例を否決 武蔵野市議会の判断重い」(産経)とする社説を出した。やはりいずれも、焦点は「外国人」。外国人の投票権が否決された、ということが前提にされた内容である。
 産経については「外国人条例」ともはや意味不明のタイトルである。投票権者に外国人が含まれるだけで、大多数の投票権者は日本人であるにもかかわらず、住民投票条例を「外国人条例」と出すことに、どんな意図があるのか、考えさせられる。
 さて、社説の内容は読売も産経も似たり寄ったりで、相当部分が被るため、より影響力の多い読売新聞の社説について、全文を1段落~2段落毎に検討・考察していく。なお、グレーの部分は社説の引用である。

1. 読売新聞社説「外国人投票否決 対立と混乱招いた責任は重い」

1.1. 分断・混乱の責任は市長の責任か

 自治体の住民投票に外国人の参加を認めるかどうかを巡り、地域社会が分断され、混乱した。制度の導入を推し進めた市長の責任は重い。

 「地域社会が分断され、混乱した」のは、市長の責任なのだろうか。市の長であることからすれば、市政一般につき責任は生じうるが、その限度でのみの話である。例えば、この条例案の提出時期が異なってたら、市報でもう一度出してから上程されたら、今回のヘイトスピーチや排外主義運動がなかったのか。答えはNoである。少なくとも、本条例案上程を地域社会の分断、混乱に結び付けるのは早計、あるいは自己都合の解釈である。
 分断を招き、混乱させたのは、「外国籍住民の投票権付与」に強硬に反対しようとする勢力ではなかったか。市議会という枠組みを大きく越えて、長島昭久衆院議員(東京18区落選・比例)の荒唐無稽な主張、それに便乗した悪辣なツイートや演説、そしてヘイトスピーチが穏やかな武蔵野市の日常を蹂躙した。

1.2. 「外国籍住民の投票権」の否決か

 東京都武蔵野市の市議会本会議で、住民投票条例案が反対多数で否決された。条例案は、日本人と外国人を区別せず、市内に3か月以上住んでいる18歳以上に投票権を認める内容だった。
 投票資格者の4分の1以上の署名があれば、市政の重要事項について住民投票が行われ、留学生や技能実習生といった外国人も投票権を得ることになっていた。採決は、反対14、賛成11だった。

 条例案は、たしかに「市内に3か月以上住んでいる18歳以上に投票権を認める内容」も含まれるが、そのことをもって否決が決定付けられたわけではない。
 採決のキャスティングボートを握っていた会派「ワクワクはたらく」の本多夏帆議員は、外国籍住民の投票権付与について反対しているわけではない。読売新聞の別頁にあるように、読売は採決後に本多議員に直接取材しているようであり、採決のその場にいたはずであるが、「武蔵野市の条例の結論を見て、外国人の部分だけを取り上げて争点にしないでください」というメディアへの「お願い」は、簡単にないものとされた。
 ただ、こうして報じられることは想像に難くなかったのも事実である。

1.3. 外国人参政権と判例

 憲法は、参政権が日本国民固有の権利だと明記している。最高裁は1995年、国政だけでなく、地方選挙でも外国人に選挙権は保障されていないと判断した。

 何度も何度も言ってきたが、最高裁の1995年の判断は、外国人の「選挙の権利を保障したものとはいえないが」、特に地方自治においては、住民自治など規定する憲法第8章(92条以下)から、(地方)参政権を付与することも「憲法上禁止されているものではない」としている。したがって、そもそも最高裁は外国人の「参政権でさえ」禁止していないとしている。
 日本において、安全保障や外交は国の専管事項であり、それらに決定権のない地方自治体の特徴、住民自治・団体自治を原則とする地方自治の考え方を踏まえたものである。

1.4. 参政権と住民投票権

 住民投票の投票資格を外国人に付与することは、広い意味で参政権を認めることになりかねない。条例案の否決は当然の結論だ。

 参政権とは何か。さまざま定義はあるが、学術的には「狭義の参政権」と「広義の参政権」という二つの次元の参政権をさす。「狭義の参政権」とはいわゆる選挙権をさす。憲法15条における公務員(=議員や首長)の選定罷免権のことである。そして、「広義の参政権」とは、公務就任権、平たくいえば「(議員などではなく役所に勤める一般的な)公務員になる権利」である。これも一応憲法15条に根拠を求めることもできるとされる(が、実質的には職業選択の自由(憲法22条1項)とする説も成り立つ)(芦部,270頁)。
 いずれの「参政権」も判例からは、少なくとも地方自治においては、制約することが直ちに違憲とはならないものの、制約を外すことで違憲となるものでもない。
 これに対し、その内容や拘束力などから憲法15条に根拠を求めることがおおよそ困難な住民投票権をこれらと同列に考えることは難しい。この論でいけば、政治的に影響力があれば相当広範囲の政治的活動を「広い意味での参政権」に含ませ、例えばデモ活動や請願権は「広い意味での参政権」になるだろう。

1.5. 排斥運動に加担したのは誰か

 条例案を巡っては、賛成派と反対派の市民らが鋭く対立した。100人規模のデモが起き、外国人の排斥を呼びかけるような発言も飛び交っていた。
 分断を招いた要因は、市民の十分な合意がないまま条例案の提出を急いだ市の姿勢にあるのではないか。市長は条例案の修正を検討するというが、拙速な判断で再び混乱させる事態は許されない。

 そうなのだろうか。
 そもそも、市長などが自ら排外主義やヘイトスピーチなどをしていたなら別だが、排外主義・ヘイトスピーチについてむしろ繰り返し注意喚起を促していた市(長)にこれらの責任を求めるのは筋違いではないか。先にも述べたが、仮に市報でもう一度出していたとしても、ヘイトスピーチ等については変わらなかっただろう。
 たしかに、注意喚起でおさまらないそれらに対して、法的な制約を課すことが困難であるという現状に問題はある。しかし、それは武蔵野市単独の問題でもない。都や国の問題でもある。(なお、憎悪表現の規制についても、広く捉えると「表現の自由」を脅かしかねず、狭く捉えると機能しないという非常に難しい問題である。)
 排外主義・ヘイトスピーチは、それを主張する者、スピーチする者、あるいはそれを煽動する政治家やメディアなどがあったならば、それらが「悪い」のである。
 読売新聞も、自身が排外主義に加担していなかったか、改めて考えてほしい。

 また、自治基本条例(既に全会一致で可決され、施行済み)において住民投票条例を前提としている以上、もちろん拙速であってはならないが、早期の住民投票条例成立が求められる。

1.6. なぜ国籍にこだわるのか

 地域に暮らす外国人の意向を行政サービスに生かすことは重要である。ただ、そうした意向は、外国人を含む住民アンケートなどで確認し、行政措置に反映させるのが筋だ。市がなぜ住民投票にこだわるのか理解に苦しむ。

 住民投票である。住民投票に、住民が投票できないことの方がおかしいと思わないのだろうか
 外国籍であれば、住民基本台帳に3月以上記録されても、住民税が課されても、あるいは地域で暮らし、地域で働き、自治会や商店会等に参加し、子どもが自治体の学校に通ってPTA活動などしていても、それでもなお「住民」ではない、というのであろうか。
 住民投票は、「外国人の意向を行政サービスに生かすこと」を目的としていない。同じ言葉を使うならば、「住民の意向を行政サービスに生かすこと」である。アンケートなども既に実施しているし、外国籍住民のためのサービスについても「それはそれ」である。
 住民投票において、読売新聞がなぜ国籍にこだわるのか理解に苦しむ。

1.7. 住民投票条例と市の権限

 市側はこれまで「外国人は地域社会の一員で、日本人と区別する合理性はない」と主張しているが、住民投票のテーマは安全保障やエネルギー政策などの国益に関わる問題に及ぶことがある。
 他の自治体では、米軍基地の移設や原子力発電所の誘致が住民投票の対象になったこともある。

 武蔵野市自治基本条例は、住民投票の対象を「市政に関する重要事項」(自治基本条例19条)としている。そして、住民投票条例案で、「武蔵野市の権限に属さない事項」はそれに含まれず、例外として「住民全体の意思を明確にする場合」にできるにとどまる(住民投票条例案4条2項)。安全保障やほとんどのエネルギー政策は市の権限に属さない。国の専管事項である。そのため、仮に住民投票を実施したところで、それは「意思を明確にする」以上の効力はもたず、市が何らかの形で採択したとしても、他に違法があるなど特別な場合を除き、国の行うことに対抗できるわけでもない。
 米軍基地に関して、沖縄で辺野古埋立反対の県民投票(住民投票)が成立したが、国に拘束力はないとして国が強行していることからよくわかる。なお、国の方針と結果が対立した沖縄県民投票では、外国籍住民に投票権はない。
 さらに、住民投票が実施されたとして、外国籍住民の影響は大きくない。武蔵野市でいえば、外国籍住民は約2%。全国、特に都市部では外国人も増えると思われるが、それでも日本人を上回ることはない。また、そもそも住民投票は、法的拘束力をもたないため、「国益」を損なう事項についての住民投票が仮に行われたとしても、(そもそもそれが成立すること自体ほぼ不能だが)市はそれに従う義務もない。杞憂というより、言いがかりに近い。

1.8. 尊重義務と外国人住民の影響

 投票結果に法的拘束力はないとはいえ、武蔵野市の条例案には市が結果を尊重する旨の規定があった。外国人の住民が一定数に上り、行政に影響を与えるようになってきた地域もある。条例案の制定を安易に考えるべきではない。

 住民投票について尊重義務があることを明記することは珍しくない。また、そもそも住民投票で決したことに合理的理由もなく否定したら、次の選挙で勝てないだろうから、尊重義務というかは別として、明文不文問わず、結果を尊重する・慎重かつ丁寧に扱うのは当然である。また、外国籍住民が一定数に上るとはどの程度か不明だが、少なくとも日本に半数を越える自治体はない。
 10万人を越える自治体で外国籍住民が10%を越えるのも新宿区と豊島区(いずれもH31年現在)だけである。新大久保を擁する新宿区や、日本人学校などが多く集まる豊島区といういずれも(副)都心である。なお、これらの自治体において、外国籍住民の数が一定数に上ったことで、「行政に影響を与えた」として、日本人は何か不利益を被ったのであろうか。両区とも多文化共生を進め、排斥しようという動きもないのが事実である。

1.9. 外国人住民投票権否定の先例なのか

 全国的には、外国人も投票できる住民投票条例がある自治体は40を超える。そうした自治体は、何を住民投票のテーマとするのか、よく考えるべきだ。今後、条例制定を検討する自治体に熟慮が必要なことは言うまでもない。

 読売新聞が武蔵野市住民投票条例案否決で得た見解は、施行済みの(制限付の自治体を含め)外国人にも住民投票権を付与する自治体に対し「よく考えるべき」ということのようだ。読売新聞は、武蔵野市住民投票条例案否決を、自らの主張する外国籍住民の住民投票権付与を否定する先例としたのである。そこに、議員ら(特に中立派議員)の意思など考慮されることはなかった。
 ヘイトや排外主義的な主張を正当化することに、住民投票条例案否決の結果を結び付けたのである。

2. 社説と否決

2.1. 「否決」のメッセージ性

 社説とは、会社の見解である。
 と同時に、全国に発信される報道のひとつでもある。

 武蔵野市住民投票条例の否決は、「外国人住民投票権が否決された」というメッセージを発するのではないか、と懸念していたが、読売や産経はまさにそれを増強した。結果だけをみれば、「ヘイトスピーチ・排外主義の勝利」である。理由をみれば違う、というのは議会をみたものならばわかっている。しかし、理由を知る人がどれだけいるだろうか。理由を知らない人など無視すればよい、というわけにもいかない。

 議員一人一人の判断は尊重すべきである。
 それが民主主義である。

 しかし、今回の条例案は、メディアなどの取り上げられ方などからしても、ただの条例案以上の意味を有していた。「ヘイトスピーチ・排外主義に屈しない」という意思があるならば、「反対票」を投じるという判断は、仮にその理由が正論であったとしても、後にも述べるが正しかったとは思えない。ヘイトスピーチ・排外主義を主張する者が求めていたものは、「否決」という結果である。それ以上でもそれ以下でもない。また、この間ヘイトスピーチ・排外主義の主張で苦しんできた当事者などにとっても、「否決」という結果=ヘイトスピーカーらの主張が通ったというメッセージしかほとんど届かないのである。 

 また、気になる点は、中立派などはヘイトスピーチ・排外主義運動がなかったとしても「反対」したのかという点である。仮に、そこに絶対の自信がないならば、「反対しなかった可能性がある」のであれば、それはヘイトスピーチ・排外主義の思惑通りであろう。ヘイトスピーカーを含めて、議論されるなかで条例案の問題に気づかされた、といえば聞こえがいいかもしれない。が、少なくとも世間的にはヘイトスピーチが、排外主義が勝利したのである。

2.2. リスクマネジメント

 リスクマネジメント。

 中立派の本多議員は反対理由でこれを唱えた。
 リスクマネジメントとは、損失の回避・低減はかる行為をいう。
 今回の否決という結果は、武蔵野市だけでなく、外国人の住民投票付与に反対する=ヘイトスピーカーの主張通りの結果となったという社会に強烈なメッセージを与えた。これは間違いなく、武蔵野市のみならず日本社会にとっての「損失」である。先にもいったが、理由ではなく、結果がどうみられ、どう報じられるかは予測可能だったはずだ。いくら「お願い」してもそれが聞き入れられないのも少し考えればわかったのではないか。  
 それに対して、条例案が賛成する=可決されることのリスクはこれより大きかったのであろうか。ヘイトよりも、民主主義を破壊するような大きな問題があったのであろうか。仮に問題があったとして、後に修正したりすることで治癒することはできなかったのか。
 外国人の住民投票権付与に賛同するならば、ヘイトに、排外主義に、デマに反対するならば、今回の中立派のリスクマネジメントは、失敗だったのではないかと思わざるを得ない。

 反対した議員みながヘイトやレイシズムやデマや排外主義でないことは知っている知っているが、知っているだけにその真意が伝わらないどころか真逆に受け止められる方法を選んだのは、悔しい
 当たり前だが、このような結果を作ったのは中立派だけの問題ではない。そして一番悪いのは、ヘイトや排外主義を撒き散らしていた人々、それを煽動した国会議員たちである。
 また、二元代表制の議会において、議会が行政に厳しい目を向けるべきは当然である。議会一般論として、武蔵野市議会が健全な議会であることは確認できた。
 同時に、一地方自治体の判断であっても、一議員の一票が発する影響力の大きさにも気づかされたのではないか。

3. これから

 読売や産経の報道、社説にとどまらず、SNS上、あるいは多くの住民の間でも今回の結果を賛否を問わず「外国人の住民投票権を否決した」「ヘイトや排外主義に屈した」とみられている。これからは、こうした誤ったメッセージを正すことが必要である。それは、SNS等での発信ではとても足りない。 
 市内外やSNS上の武蔵野市に関するヘイトや排外主義的主張は、次第におさまるであろう。しかし、それで傷ついた人の心は癒されまい。
 ヘイトや排外主義の主張していたことに徹底して対抗しなければならない。外国人の住民投票権を付与する住民投票条例を制定するしかない。それしかないのである。

 ヘイトスピーチや排外主義との「闘い」は、これからである。

武蔵野市住民投票条例についての拙稿


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