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長男1回目 6

私の異変

小5になっても学校に行けない日が多々あった長男と、主人とのいざこざは続いていた。
学校に行けなくなった原因である例の担任がいなくなったにも関わらず登校できない、また薬を飲み始めたにも関わらず起立性調節障害の病態(※)がなかなか治まらない状態の長男のことは、昭和の人間に理解することは困難だったのだろうと、理論上今はわかる(気持ちはわからないけど)。
また、長男は学校に行けたとしても自力で歩いて行けるほどの体力もなくなっていたので、登校できそうな時は私が車で連れて行った。
また、私はできるだけ長男と主人が二人だけにないようにした。
毎日が必死過ぎて、頭の芯が常に煮えたぎっているような、冷え切っているような、全く落ち着かない。
(※)病態:起立性調節障害はいわゆる病気ではなく、自律神経のバランス不良であるので「症状」というよりは「病態」と言います、と後に出会う小児科の先生に教えていただいた。

唯一の救いは次男。彼は家の中が嵐であっても、いつも明るかった。
小学校1年生になった次男は、長男のいない登校班に1人で行き、他の近所の子供達と一緒に登校した。学校を休むことなく、学童保育も延長時間いっぱい最後まで残る生活であっても、彼は私にいつも「楽しい!」と言ってくれていた。しかしそのことが、後に次男の急変に繋がっていくとは、その時はまだ気付いていなかった。

次男はおにいちゃんのことが大好き。これは昔からずっと。
長男が次男のことを可愛がり過ぎて、幼稚園から帰宅してもまっすぐ赤ちゃんだった弟のところに走っていき、常に「かわいいかわいい」を連発していた。ちょっと大きくなって弟が無茶をしてきても、いまだ一度も手を上げたことはない。「可愛すぎて、腹立っても叩けない」と悔し泣きをしていた。
男兄弟には珍しく、兄弟が相思相愛。(母としてはそれが最大の自慢だ)
次男は元気のない長男には笑顔になって欲しくて、変顔をしたり、くっついてみたり、健気にいつも長男に寄り添っていた。
長男が元気だと誰よりも喜んでいたのが次男で、そんな次男を一番可愛がっていたのが長男なのだ。

ある時、家族で出掛ける車中で疲れていた私はすぐ眠ってしまっていた。その時、主人が私に何かを話しかけてきたようだが、寝ていて起きない私に大声で呼びかけてきた。
その瞬間、ビックリして飛び起きたのはいいが、動悸があまりにも激しくなり、涙がどんどん出てきて、過呼吸になってしまった。毎朝のように主人の怒鳴り声を聞き続けていた私は、その「大声」がトリガーとなり、突然タガが外れた。
次男が、必死の形相で背中をさすってくれていたことだけは覚えている。過呼吸は、後にも先にもこれ1回。
さすがにこれではいけないと思った。この状況で私まで倒れてしまったら、誰が子供を守るのだろう。

カウンセリング

私の友人に臨床心理士の資格を持つ人がいた。学生時代のアルバイトで仲良くなった彼女。
私が結婚後すぐ引越したこともあり、久しく会っていなかったが、連絡を取ったらすぐに時間を作ってくれた。
彼女はゆっくり私の話を聞いてくれた。長男と自分の状況を話しているとポロポロ涙が出てきた。

「ひとりで頑張ってきたんだね。でもね、そういう時に第三者、専門家を頼っていいのよ?」
彼女は言った。
彼女自身は私のことをよく知りすぎていることもあり、少し専門が違っていたため、「思春期外来」があるクリニックを教えてくれた。
そこは子供だけでく、その親も両方カウンセリングをしてくれるという。
私はすぐにその病院に予約を取った。

正直なところ、全く抵抗がなかったのかと言われると嘘になる。今ほどメンタル疾患について世の中で明るみになっていなかったし、今ほど街中に心療内科がたくさんあるわけでもなかった。今でもやはり抵抗感がある方もいるのではないだろうか。でも、ただもうその時は必死だった。

どうにかして状況を打破しないと、自分もこのまま壊れてしまう気がした。また、長男に学校や家以外の場所を作りたいとも思った。
その頃の我が家は、長男にとって安心できる場所ではないと気付き始めていた私は、長男が気持ちを吐き出せる大人を、専門家に求めた。
長男小5の夏。
もっと早くカウンセリングに通う決断をしていたら、もっと早く第三者に助けを求めていたら、長男の傷はもう少し浅かったのかもしれない。




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