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仏教心理入門 #1「涙の価値」

こちらはStand FMで配信している
「Buddha therapy」の内容を文字起こししたものです。
音声でお聞きになりたい方は、こちら↓↓↓

以下は書き起こした文章です。
文章で読みやすいように一部表現を変えております。

なぜ苦しく、なぜ涙が出るの?

本日は
「涙の価値」というテーマでお届けしていこうと思うのですが、
みなさんは最近、涙を流した、あるいは苦しい経験をしたことはありますか?
あるいは現在進行形だったりしますでしょうか。
普段、人は表では笑顔でいることが多いですが、ふとした時に涙が出たりすることもあるでしょう。

「人はなぜ苦しく、なぜ涙が出てしまうのか?」
私の大先輩である
仏教研究家の岡本かの子さんが仏教人生読本でこんなこと言っています。

「物事をいい加減に考えていれば涙はなく苦しくない。」

いい加減に考えると、矛盾も矛盾には見えないので、より良いものが目につかない。だから苦しくもならず、涙も出ないということですね。
今の状態でもお茶がにごせる。だから苦しくない。

反対に、真面目に物事を考えてまっすぐに向かうと
どうしても矛盾が目に付きます。
より良いもの、より良い生き方を望むようになります。
なので今の状態ににひどい不満を感じてくる、だから苦しく涙も出る。

不満と言っても、単純に「誰かに対して」とか「世の中に対して」とかに抱く
不平不満とは違います。
今の生の状態、生きている状態が、自分の思い描く理想と違うという不満ですね。

そのようなことで苦しむ人間において
何が一番深刻な矛盾なのか?
そしていつがより良いものを望むのに適した時か?

これは仏教においては私たちの内部の菩提心(ぼだいしん)
(菩提心というのは自分を良くし人も良くしようと願う心です。)
その菩提心が自分の中で蠢(うごめ)く時がより良いものを望むべき時であると言っています。

この上もない知恵を自分で開いて、素晴らしい人格に到達して 、
さらには他の人も同じく幸福になってほしいと願う心ですね。

とても遠い望みのように思えますが
でも本当にそういうものを望んで、
今日、この今という時に
この苦しみ、この涙があるのかと
不思議がられる方があるかもしれません。

けれども、あるのです。

事情や形はさまざまに変わっても
苦しみや涙が真面目なものである限り
そこには菩提心が蠢いています。
なので決して苦や涙は、悪いことではないのですよ。

「良心」と「菩提心」について

一方で、心には「良心」というものがあります。
良い心、と書く良心ですね。
良い心、良心っていうものは時代によって変わってきます。

例えば昔でしたら、女性は外ではなくて
ご主人様にただひたすら尽くして
お家の中のことを一生懸命やるというのが
みんなにとっての良心だったと思いますが、今は違いますよね。
外に出て働くことも、ひとつの良心ですよね。
そうやって時代によって変わってくるのが良心というものです。

しかし菩提心は時代によって変わるものではありません。
人間がある限り、その中にあってその発展の方向を示して
それを浄化して、進んでいく。
そうやって生きることにおける羅針盤のようなものでもあります。
人体で例えるとすると、白血球のようなものです。
白血球っていうのは血液の中に待ち受けていて
悪いばい菌が入ってくると、それを食い殺す役目をしているわけですね。
白血球は「肉体の保護者」という言葉で表されたりもします。
しかし私たちは普段、白血球があるというのを常に実感するようなことはないまま
でも自然に血液は浄化されていますね。

それと同じで 私たちは自分の中に菩提心があるとは知らずに
心の清純をいつの間にか保たされているんです

もしね
良心が時代時代において変わらない普遍的なものとなっていくとしたならば、
その良心をそうさせたのは その根底にある菩提心であると言うんです。

人生の急カーブでブレーキをかける

例えば
自動車が走っているときに曲がり道の急カーブに出会うと、運転手さんは急にブレーキをかけますよね。
あの強い反動とブレーキの大きい音は、今までスピードを楽しんでいた乗客には、急に止まって不快だと思うんですが、でもそのために乗客の命は助かるわけです。

私たち人を自動車に例えるとしたら、
人生の道を気ままに走っている時に間違った方向へ曲がろうとすると、菩提心は急に制御するように働きます。
その時に体に感じる強い反動が「苦しみ」なんですよ。
そして、ブレーキの音が「涙」だと思ってください。

それで その「苦しみ」と「涙」のおかげで、心の命は救われるんです。

ですから苦しみも涙も悪いことじゃない。
命を救ってくれるものなんです。

私たちを苦しみや涙が誘うときにそれを放っておかない。
その原因を深く辿って行くと、必ずその心の出発点に出会うと思います。

そしてその時の心の指図によって、新しく正しい人生の方向が見つかってきます。
方向転換はそんなに簡単なものではなく 辛くはありますけれども、それを越すと何かまっすぐなものに沿って、自分が自然と行く気がして、心は軽くなります。
そこから自分自身のことが確かになっていきます。

涙は反省の機会です。 反省というと何かしゅんとしないといけないように思うかもしれませんが、「自分を省みる」という意味での反省の機会です。
そして人生の方向を検査してくれてるその基準になるわけです。

その尊い価値を使わないということはしなくていいです。
使うべきなんですよ。

新しい芽が出る時には「疵」がつく

また生の苦しみということがありますね。
生きる苦しみ、生む苦しみと言うべきでしょうか。
古い生から新しい生を生み出す時には必ず苦悩があります。涙もあります。

さてここでちょっとしたクイズです。
例えば木の新芽が芽吹く時、まず最初に現われるものは何でしょうか?

まず疵(きず)がついて現れます。疵とは苦悩です。
次に樹脂が出てきます。木の涙です。
そして小さな新緑の芽が生えてくるわけです。
これは自然にできる疵ですが
わざわざ疵をつけてさえ、価値を取り出す必要がある時もありますね。
例えばゴムの木なんか、そうですよね。
疵をつけないとゴムの樹液は出てこないのです。
ゴムはゴムの木が幹に疵をつけられて、苦しさのあまりにじみ出てくる「木の涙」なんです

涙であるがゆえに
ゴムは柔らかいしかも粘り強い辛抱強い。

人の涙も一緒です。
涙を流した後に柔らかく粘り強く辛抱強くなるんです。

仏教では その涙の価値を払って人生の意義を求める道理を人格化したものに
「常啼菩薩 (じょうたいぼさつ)」というものがあります

常啼菩薩 というのは
七日七晩泣き続け そして悟りを開いた菩薩です。
今でも人々の苦しみを見ては、ずっと泣いてくださっていると言われる菩薩です。

私達もまた、真面目に生きてれば生きているほど、この常啼菩薩 菩薩の状態なんだと、岡本かの子さんは そのように涙について語っています。

涙というのは決して悪いものではありません。
流したい時には流していい。
その流れた涙の源泉を、自分で辿っていくことが大事なんじゃないでしょうか。

ということで、本日は涙の価値ということで書き綴らせていただきました。

この言葉が誰かのお役に立てれば 嬉しいです。

礼拝。



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