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仏教心理入門 #2「生き抜く」

本日は「生き抜く」ということをテーマにお話ししていこうと思います。

音声で聞きたい方はこちらから↓


あなたは「生き抜く」という言葉からどんなことを連想しますか?

「生きる」ではなく「生き抜く」なんて聞くと
朝から晩まで必死になって緊張して
全身の力を振り絞って生きているようなイメージもありますが
始終そうやっていては誰だって 疲れてしまいます。

人間は一面、ゴムの紐と同じようなものであって、
ゴムをずっと引っ張って伸ばし続けるとそのうち伸び切ったままになるのと同じように、人もあまり長く緊張し続けると のびてしまいますよね。

「人の生き方」の三つの型

若い時はかなり気性が激しかったのに
老後になって ぽかんとしてしまうという話はよく聞きます。

そうかと思うと40までは特別に存在も認められなかった人が、
40過ぎからそろそろ活動を始めてみようかと動き出し、歳を重ねるごとに冴えて来たという人の話を聞くこともあります。

それからまた、若い時から忙しい生活をし続け、一生それを押し通してますます精力的に動き回るという人もあります。

おおよそ人の生き方というのはこの三つの型に分かれるように思います。

この違いはどうして生まれるのでしょうかと考えてみた時に、ひとつは気迫とか精神力と呼ばれるものの違いや、体質の違いもあるでしょうし、一概に言えませんが、内部にある「 生き抜く力」というものを、信仰とか信念とかで掴んだ人が活動が続くようです。

ここでいう「信仰」とは宗教にどっぷり浸かるという意味合いではなく、対象が神や仏でももちろん構いませんが、何かぶれずに信じられる対象に対して実際に信じ続けること、という意味合いだということをご承知おきください。
あるいは信念と同じ意味合いと思って解釈いただいても構いません。

あるお医者様のお話

ある名医が話してくれたことですが
「上手な医者ほど、自分の力では病気を治そうとせず、自然の力で癒すことを考える。
人間の身体にはもともと病気を癒す力が備わっているから、それを手助けすることが医者の役目である。
下手な医者ほど自分の力を信じて無暗に治療をすることで、本来備わっている回復力を殺してしまう」と。

確かに胃腸が悪くなった時、医者で貰う薬は、ただ痛みを止めたり、胃腸の中の残留物を除いたり、あるいはその腐敗を止める防腐剤などであって、特に胃腸そのものを良くす るという薬は入っていません。

そうやって、胃腸を害する原因を防ぎながら、胃腸は元々持っている回復力で元の健康状態に盛り返して来ます。これが治るの本来の姿です。

風邪を治すのも、症状を抑える薬を飲みますが、それは風邪そのものを退治する薬ではないということです。

そうやって薬は身体を回復させる手伝いはしますが回復そのものではなく、最終的には身体自身に備わっている機能が盛り返して来て、 病気を弾ねのけます。

「人間には持ち前の体質の違いがあるから、そこを見分けて手当も変えて行くのが医者の仕事」
そうお医者様は語っておられました。

「生きる力」のしくみ

人間の生きる力というものも、同じしくみがあるようです。

自分ひとりで生み出す力には、限度がありま す。
いくら眠らずに働こうとしても三、四晩以上の徹夜は不可能です。
もしそんな生活をしている人がいたら、今すぐにやめなさいと言いたいところです。

いくら自分を励ましても、つい何か食べ物をつまんでみたくなったり、外に出かけたくなったり、動画を見たくなったりと、よそ見をしたくなるのが当たり前の人間の動きです。それゆえに人は可愛いものなのです。

自 分の生きる力に鞭打って無理なことをやり通そうとするのは、先ほどもお伝えしたように、ゴムの紐を最大限に伸ばし続けながら、いつまでも伸び切らない、いつまでも使い続けられると思い込むことと全く同じですよね。
その思い込みについてどう思われますか? 
無理な話だと普通なら思いますよね。
でも私たちは、それを思い込んでいるようなところがあります。

改めて想像してみると・・・私みたいな凡人は、そんなことをしていたらいつかのび切ってしまって、元に戻らなくなるだろうなと、元に戻らなくなったら、そして切れてしまったら、どうなるのだろう? と怖くなります。

私たちは子供の頃から、がんばり続けることこそが素晴らしいことだと教わり続けてきましたけれど、実は「自分の力 を最後まで使い切らない」ということも、人生には大事なことなんですよね。


例えば宇宙にも自身の内部にも「力」というものは存在することに気づいて、それに対する信念みたいなものを得て、その力を自分の力と一緒にしていくことで、自分でも驚くほどの事をできるんじゃないかと思います。

例えば、最近、神田伯山さんの活躍で人気上昇中の講談などでもよく語られる話で、「仏神に誓いを立てて、自分以上の力を得て仇討をまっとうした」という話などは、それに当てはまるような話です。

私たちはその話を聴きながら、どこか胸をうたれて涙さえ流すことがあります。
きっと、こういった話の中には、生きる力の秘密が囁かれているんでしょうね。

ここで改めて「生き抜く力」というところに戻っていきます。
生き抜く力は、人間にひとりでに備わっている力です。
それは先ほどのお医者様の例にもあったように、病気を癒す力が患者にひとりでに備わっていると同じです。

でも私たちは普段、そんなことを気にしていません。
それは患者が自分の体の回復力を知らずにいるのと同じです。
その回復力を医者が取出して、それをうまく使って病気を癒してくれます。

でも私たちの普段の生活の中では、誰も、私たちの生き抜く力を取り出してくれませんよね。
ということはそれは自分で取り出さないといけないということです。

どうやって取り出せばいいのかな、、、と考えると、自分自身の信念(今はよくビリーフと呼ばれていますが)その信念によって近くまで引き寄せるのが良さそうですね。

生き抜く力を取り出すのは井戸掘りと同じようなものです。
ちょっと井戸掘りを想像してみてください。
いくら「生き抜く力」が豊富にあっても、そのまま放っておくというのは、地下の深いところに溜まっている地下水のようなものです。
あることだけは知っていても、それを取出す方法を考えないと、なんの役にも立ちません。
井戸を掘り、汲み上げてこそ、その地下水は私たちの役に立ってくれます。

井戸掘りと同じように、私たちも、信念によって自分を掘り下げていくことで、はじめて私たちの本当の「生き抜く力」が現れるのです。

それでは、最後の問いです。生き抜く力とはどんな力でしょうか。

それが最初から判っているくらいなら、悩まないものですよね。
判らないからこそ、信念によってそれを迎えます。

福沢諭吉の話・・・超人間的な力の存在

福沢諭吉は、維新後の日本に物質文明が必要であることを見抜いて、その知識を輸入て普 及に力を入れた方です。
でも当時は人々から俗学者だとか、拝金主義だとかさんざん叩かれたそうですよ。

ところが、物質文化もひとまずできあがり、 世の中のみんなが物質文化を謳歌する様子が見えてくると、次に諭吉さんは、超人間的な力の存在を、その著書で力説し始められました。

「世の中には人間以上の力の存在が必ずある。人々はこれに気付き、高尚敬虔(こうしょうけいけん)な情操(じょうそう)を養わねばならぬ」と説きました。

世の中の変遷を見守って来た人たちというのは、数々の経験の末に、どうしてもこの諭吉さんと同じような結論にぶつかるら しいのです。
それらの方々は、生き抜く力には人間以上の力があることにに気づかれています。

信念を得るということ

最初の方で話しましたが、人の生き方の三つの型の中でも「歳を重ねるごとに精力的に動き回る人」には、必ず何らかの一貫した信念を持っている人が多いように思います。

それから40過ぎになって活動を開始したという人は、それまでは自分の力だけで、自分の工夫だけであくせくしていたところで、ある時に何らかの信念を見つけその手に握ったことをきっかけに、活動を始めたという方が多いように思います。

いずれにしても、信念を得た人の活動力、生き抜く力は強いものです。
ただ生き抜くではなく「飽くまで生き抜く」という力を得ているようにも見えます。

飽くまで生き抜く力を得た人は、その大きな力の中へ、自分の力も、工夫や努力もみ〜んな込めてしまうので、実はどこまでが信念から仰いだ力であり、どこまでが自分の普通の力なのかの区別がつ かなくなりますが、その時点でその人の心はそんなことを区別したがるようなことをするほどの小さな心ではないので、さらにさまざまな力を得て、生きることを助けてもらえるようにもなっていくのです。

そこまで到達すると本当に飽きるまで生きるぞという力がみなぎってくるということですね。
私自身もこんなふうに語っていますが、まだまだそこまで到達していませんから、到達していけるよう、日々精進してまいりたいと、改めて思っております。

ということで、本日は「生き抜く」ということでお話しいたしました。

この言葉が誰かのお役に立てれば 嬉しいです。

礼拝。


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