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コミュ障人間が30年間も編集者を続けられた理由

編集の仕事に携わって30年になる。そう書いてみて、自分でもその年月の長さにギョッとする。

ただ正直、自分のことを自分で「書籍編集者です」と名乗ってもいいかな? って思えるようになったのは、つい最近のことだ。この30年間、私ってなんてダメなんだー! とくじけそうになることの繰り返しで、よくもまあ続けてきたもんだ、と思う。

なんでこの編集という仕事に携わることになったのか。なんで続けてこられたのか。いつもは人に取材しているけれど、このnoteをはじめるにあたって、初めて自分に問いかけて、自分のことを振り返ってみようと思う。


ギリギリ無職を免れる

そもそも編集の仕事をはじめることになったきっかけは、祖母だった。

時は1994年。大学4年の卒業間際でありながら、就職活動もせずただただボーッとしていた私を心配した祖母が、「あなた、ちっちゃい頃から文章書くの好きだったでしょ」と、たまたまご近所在住だった知り合いのライターさんに紹介してくれたのだ。

いや、当時の自分に「なぜ⁉︎」と問い詰めたい。「就活」という言葉がまだなかった時代とはいえ、いくらなんでもぼんやりしすぎだっただろう!と。

「文章書くのがちょっと好き」くらいの人間を託されたそのライターさんもとんだ迷惑だったと思うのだが、彼女がめちゃめちゃフットワーク軽く、講談社の『FRaU(フラウ)』という女性誌の副編集長Yさんに紹介してくれたおかげで、私は大学卒業後、FRaU編集部に編集見習いとしてもぐり込むことができた。

私がかろうじて拾われたのは、たまたまそのYさんが美容担当で、面接に持ってきなさいと言われて持って行った私の卒論が「化粧についての身体論的考察」というテーマだったからだと思う。文学部の哲学科という非常に浮世離れした場所にいて、学生とはこうあるべし、という常識を持ちあわせないまま就職活動もしていなかった私が、どれだけスレスレの運と縁をつかんだのか、という話だ。

致命的に向いてなかった

ところが、ひと安心したのも束の間、美容ページ担当として働きはじめた私は早々に「やばい、私、向いてないかも……」と冷や汗をかくことになった。

それまで私は、なんとなくこう思っていた。編集者というのは、編集部で黙々と原稿を読んだり書いたりする仕事だと。けれど、それはとんでもない間違いだった。

当時のFRaUは、現在の女性誌が置かれている状況からすると信じられないくらいに毎号、何本もの広告が入っていた。とくに化粧品ブランドのタイアップ出稿が多く、そのページを作るための人員が不足していた。それが私が雇われた背景の1つだったのだと思う。

まずはそのタイアップページを作ることに追われた。最初の半年ほどは先輩編集者について打ち合わせや撮影現場に赴いていたのだが、見習い期間が終わると、タイアップに限らず編集ページも、まるまる1人で担当を任されるようになった。しかしこれがつらかった。

美容ページの制作には、たった2ページを作るのにも、カメラマン、ヘアメイク、スタイリスト、モデル、ライターと、数々の人たちがかかわる。タイアップだとこれに社内の営業担当、化粧品会社のPR、広告代理店も加わる。それぞれの人がそれぞれの主張をし、ときに紛糾するのだが、その収拾をつけて、なんとかページに落とし込むのが編集者の役割だ。その繰り返し。多いときで、1日3社のタイアップの撮影を3日連続で、ということもあった。

そもそも私は、初対面の人と話すのが極端に苦手で、できれば1人で本を読んだり映画を観たりしていたいタイプだった。その私が、日々、初対面の人たちと出会い、ヘアメイクが仕上がるまで、あるいはカメラマンのライティングのセットが終わるまで、スタジオで長時間おしゃべりして場を持たせなければいけない。

女性誌の編集者は、よりによって一番苦手なことに日々直面する仕事だった。「いや、そういうの苦手で」と言っている人間は、編集者になんてなってはいけなかった、と気づいたときには時すでに遅し。

現場の仕切りが悪く、イライラされたり怒られたりしたことはたびたびだった。先輩方はことごとく「大丈夫か、こいつ……」と思っていたに違いない。

よほどあたふたしていたのだろう。見かねたとある大御所カメラマンさんに言われた言葉を今も忘れない。「編集者というのは交通整理係だから」。「なるほど!」と思って、それからずっと肝に銘じている。

辞められなかった理由

FRaUには、じつはその後、契約編集スタッフとして18年間も(!)勤めることになる。私をFRaUに入れてくれたあと、すぐ他部署に異動してしまったYさんに、10年後くらいに社内でバッタリ会ったとき、しみじみ言われたものだ。「正直、最初はとても編集者としてやっていけると思わなかったなあ。すぐ辞めると思ってたよ」と。私もまったく同じ感想だ。

なぜ当初の大方の予想を覆して、こんなにも長く編集を続けられたのか。それは、出会う人たちがことごとく、とんでもなく面白かったからだ。

撮影スタッフとしてお願いするカメラマンやヘアメイクさんといったアーティストたちや、インタビューで出会うそれぞれの業界で活躍する人たち。彼らの発想や、人の心を動かす表現への情熱は刺激的で、ハッとする驚きに満ちていた。

そりゃあ、最初のうちは「もう辞めるか?」という思いが何度か脳裏をよぎったけれど、辞めるにはもったいなさすぎた。彼らの言葉に触れたり、彼らと一緒にページを作り上げたりするドキドキワクワクのほうが、苦手なことを克服するつらさをはるかに上回っていたのだ。

転機

そうこうするうちに迎えた30代半ば。FRaUの特集が女子のランニングブームの火つけ役になったことが転換期となった。小学校の運動会以来走ったことなく、「体育会系の人間は頭の中まで筋肉でできている」という偏見に凝り固まって、なるべく運動とかかわりあわないよう生きていた私が、ランニング特集ページ担当に駆り出されるようになってしまったのだ。

もちろん最初は、イヤイヤ渋々だった。けれど、マラソンコーチやフィジカルトレーナーに取材して聞く最新のスポーツ科学理論が、思っていた以上に目からウロコで新鮮な発見の連続だった(そして彼らに心の中で「頭の中まで筋肉」と思っててスミマセン!と謝る)。

その感動で勢い余って、取材したコーチやトレーナーの教え通りに走ってみたところ、フルマラソンで市民ランナー憧れのサブ4を達成してしまったのだ。小学校の運動会ではいつもビリ、しかもそれを見ていた父が途中で帰ってしまう、という悲しい過去を持つ私がまさかの!と、自分がいちばん驚きだった。

調子に乗って、国内外各地のマラソン大会取材に赴いたり、アクティブな女子たちと知り合ったりすることが増えたことで、もともと超インドア人間だったはずがいつの間にか、読者を連れての富士登山ツアーや屋久島縄文杉ツアーを企画し、誌上でアウトドア特集を担当するまでになっていたのだった。ここらへんで、FRaUに入ったときとはだいぶん別の人間ができあがっていた。

石垣島でマラソン走ったり、富士登山でご来光仰いだり
話を聞きたい人に会いに行って、インタビューしたり

さらに転機

40代に入り、今のご時世では考えられないが、美容ページやらランニングページやらを会社で徹夜しながら作っていたある日。講談社の書籍を編集する関連会社・講談社エディトリアルというところにいるMさんから「うちに来ない?」というお誘いを受けた。Mさんは、かつてFRaUにいて講談社エディトリアルに出向している大先輩だった。

私としては、雑誌の仕事にやりがいを感じまくっていた頃だったし、書籍編集の経験はないし、正直かなり迷った。一方で、なんとなく「このままここにいて大丈夫かな?」という不安を感じていたところでもあった。女性誌の広告出稿と販売部数に翳りが出てきていた時だったからだ。迷った挙句「えいっ!」と2012年、その書籍編集部に働く場所を移すことにした。

実際、この6年後、FRaUは月刊誌から随時刊行誌に変わり、編集部も解散となってしまったので、契約の編集スタッフの居場所はなくなってしまうことになる。

暗黒時代

さて、女性誌で美容、旅、料理、ダイエットなど数々のテーマのページを作ってきた私に期待されたのは、そうしたテーマの女性向け実用書を作る即戦力だった。そして、すでに20年近くそんなページを作る経験を積んできた自負もあった私は、若干の不安がありつつも、ある程度は期待に応えられると思っていた。新しいチャレンジに、ワクワクさえしていたと思う。

ーーところが、そのワクワクはあっという間に打ち砕かれた。とにかく、企画が通らない。出す企画、出す企画、会議で「これは、雑誌向けの企画だね」「8ページにしかならないね」と一刀両断されてしまう。いま思い返しても、当時自分が出していた企画はどう考えても書籍にはならなかったな、と思う。申し訳ありません。

とくに、それまで作っていたような美容ページは、カメラマン、ヘアメイク、スタイリスト、モデル、ライターなど多くの人の手によって成り立っていたので、広告費が入らない書籍ではとても作れない内容だった。予算をかけずに内容の濃いものを作る、というスキルが、女性誌育ちの当時の私にはゼロだった。

40代にしてたちまち、大学卒業したてでFRaUに入った時のような「これは、やばい……」という状態に戻っていたのだった。連れてきてくれたMさんが「書籍になる企画とは」を私にイチからレクチャーするための緊急ミーティングを開いてくれたくらいだった。

ようやく命拾い

その後、まあなんとか企画が通って本を出せても初版止まり、せいぜい1回重版するかな、という暗い時期が続いた。

そこに光が差し込んだきっかけは、FRaUのランニング企画を通して知り合っていたスポーツブランドの女性が、そのブランドが契約しているフィットネストレーナー女子を紹介してくれたことだ。彼女のメソッドはかなりハードなのだが結果が出る、と、人気モデルや女優たちにも評判になりはじめていた頃だった。

本人と話してみると、世の中で売れているラクして痩せるダイエット本とは、言っていることが真逆だった。体重に一喜一憂するダイエットは意味はない。追い込んで筋肉をつけてこそカラダは変わる。世の流れに媚びないその言葉の強さに、これはこれまでのエクササイズ本とは違う本ができる!とワクワクした。

さっそく彼女のトレーニングメソッド本の企画を提案した。ところが社内会議では「筋トレ? 女子が買うの?」という反応。かろうじて初版5000部で通ったものの、発売ギリギリまで「こんなハードな筋トレ本、女子に売れないよ」と、めった斬りにされ続けたのだった。それが、その後「情熱大陸」でも取り上げられるなどして大ブレイクするAYAさん初の著書だった。

蓋を開けてみると、予約殺到で発売前重版。時は2016年。ちょうど「#腹筋女子」というハッシュタグがInstagramに生まれたタイミングと重なり、女子の筋トレブームに火をつけられたのだった。このAYAトレ本はその後、シリーズ累計15万部を突破することになる。

再び絶望

おかげでなんとか「私、書籍編集者やってていいのかな?」と思えるようになった。社内でもようやく居場所ができたかな、とひと息つけた。ーーのだが、めでたしめでたし、とならないのがつらいところ。さらにヒットを連発、とは簡単にいかない。

その後も、企画が通って本を出すも、重版がかからない、ということが続いた。他社では何十万部ものヒットを出している著者さんの本を出しても、うちでは重版がスンともかからない。時には著者さんに「なんで重版かからないのよ!」と、港区の路上で罵倒されたこともあった。呆然。

ほんと、なんでなんだろう? 私に売れる本を作るなんて無理なんじゃない? せっかく信頼して編集を任せてくれたのに売れる本にできなくて、著者さんに申し訳ない。ーーと、ほとんど絶望の崖っぷちに立たされたような状態だった。

出会い

2020年の夏のことだった。コロナ第一波の真っ只中で、世の中には重苦しいトーンが立ち込めていて、私自身の仕事も、ほぼリモートの日々。

何気なくTwitter(当時)画面をスクロールしていて、誰かがリツイートしている投稿が目に飛び込んできた。

何これ⁉︎ 瞬時にドキドキが止まらなくなった。

どういうこと? 葉っぱに切り絵。写真に一緒に売っている手の指から見ると、たぶん手のひらサイズの小さな葉っぱ。そこに大きな物語が詰まっている。投稿しているのは「リト@葉っぱ切り絵」さん。

DMを送り、会う約束を取り付けた。正直、ほとんど誰も知らないクリエイター(当時フォロワーが8000人ほどだった)の「葉っぱ切り絵」の技法書の企画が通るはずもないし、読者がいるとも思えない。ただ、会って話をしてみたい!と思ったのだ。

熱を込めてなぜ葉っぱ切り絵を始めたのかを語る彼の話を聞きながら思った。小さな葉っぱの上に無限に広がる大きな物語。そしてリトさん自身が怒られっぱなしの会社員時代に苦しんでようやくアートの道に辿り着いたという物語。これらの物語を伝える、これまでどこにもなかった本にしよう!と。

もちろん社内では「アート本? 写真集? 売れるわけない」「どこの売り場に置いてもらうの? アートコーナー? クラフトコーナー? 売れないんじゃない?」という声もあった。これもAYAさんの時と同じく、かろうじて初版4000部なら、と通った企画だった。

この葉っぱ切り絵の本は、2024年現在、累計25万部を突破するヒットシリーズとなっている(ここまでのヒットシリーズに育てるのは、私1人の力では到底無理だった。その長い話はまた別の機会に)。

結局、編集を続けてる理由

30年間を振り返ってみて初めて分かったのだけれど、結局私は、出会った人の思いもしなかった言葉によって、目の前にパーッと知らなかった世界が広がっていく感覚がたまらなく好きなのだと思う。それが原動力になって、編集の仕事を続けてこられたのだ。

これから先もまた、なんてダメなんだー!と、自信をなくすことはあると思う。けれど、この新しい世界と出会う驚きや喜びがある限り私は、くじけずに編集を続けていくのだと思う。

初対面の人と話すのが苦手なくせに、新しいドキドキワクワクに抗えず、いろんな人の話を聞きにいってきた。その多くが書籍という形になってきたのだけれど、そこからこぼれ落ちた言葉も、もちろんたくさんある。

そのこぼれ落ちた言葉こそ、めちゃめちゃ面白かったり、心の支えになっていたりするのだ。なにしろこれまでこの仕事を通して、心底すごいなー!って思う人たちに、たくさん出会ってきた。本にはならなかった彼らの言葉と物語を、このnoteに書きとめていこうと思っている(気が向いた時たまに)。






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