土井晩翠 星落秋風五丈原

星落秋風五丈原    土井晩翠「天地有情」収録


 祁山(きざん)悲秋の風更けて
 陣雲暗し五丈原
 零露(れいろ)の文(あや)は繁くして
 草枯れ馬は肥ゆれども
 蜀軍の旗光無く
 鼓角(こかく)の音も今しづか。
 *****
 丞相病篤かりき。

 清渭(せいい)の流れ水やせて
 むせぶ非情の秋の聲
 夜は關山(かんざん)の風泣いて
 暗に迷ふかかりがねは
 令風(れいふう)霜の威もすごく
 守るとりでの垣の外。
 *****
 丞相病あつかりき。

 帳中眠りかすかにて
 短檠(たんけい)光薄ければ
 こゝにも見ゆる秋の色  
 銀甲(ぎんこう)堅くよろへども
 見よや待衞の面影に
 無限の愁(うれい)溢るゝを。
 *****
 丞相病あつかりき。

 風塵遠し三尺の
 劔(つるぎ)は光曇らねど
 秋に傷めば松栢(しょうはく)の
 色もおのづとうつろふを
 漢騎十萬今さらに
 見るや故郷の夢いかに。
 *****
 丞相病あつかりき。

 夢寐(むび)に忘れぬ君王の
 いまはの御(み)こと畏みて
 心を焦がし身をつくす
 暴露のつとめ幾とせか
 今落葉(らくよう)の雨の音
 大樹ひとたび倒れなば
 漢室の運はたいかに。
 ***** 
 丞相病あつかりき。

 四海の波瀾收まらで
 民は苦み天は泣き
 いつかは見なん太平の
 心のどけき春の夢
 群雄立てことごとく
 中原鹿(しか)を爭ふも
 たれか王者の師を學ぶ。
 *****
 丞相病篤かりき。

 末は黄河の水濁る
 三代の源(げん)遠くして
 伊周(いしゅう)の跡は今いづこ、
 道は衰へ文(ふみ)弊れ
 管仲去りて九百年
 樂毅滅びて四百年
 誰か王者の治を思ふ。
 *****
 丞相病篤かりき。


 嗚呼南陽の舊草廬(きゅうそうろ) 
 二十餘年のいにしえの
 夢はたいかに安かりし
 光を包み香をかくし
 隴畝(ろうほ)に民と交はれば
 王佐の才に富める身も
 たゞ一曲の梁父吟。

 閑雲(かんうん)野鶴(やかく)空濶(ひろ)く
 風に嘯(うそぶ)く身はひとり
 月を湖上に碎(くだ)きては
 ゆくへ波間の舟ひと葉
 ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に誘はれて
 訪(と)ふは山寺(さんじ)の松の風。

 江山(こうざん)さむるあけぼのゝ
 雪に驢(ろ)を驅(か)る道の上
 寒梅痩せて春早み
 幽林蔭を穿(うが)つとき
 伴(とも)は野鳥の暮の歌
 紫雲たなびく 洞(ほら)の中
 誰そや棊局(ききょく)の友の身は。

 其隆中の別天地 
 空のあなたを眺むれば
 大盜(たいとう)競(き)ほひはびこりて
 あらびて榮華さながらに
 風の枯葉(こよう)を掃(はら)ふごと
 治亂興亡おもほへば
 世は一局の棊(き)なりけり。

 其世を治め世を救ふ
 經綸(けいりん)胸に溢るれど
 榮利を俗に求めねば
 岡も臥龍(がりょう)の名を負ひつ、
 亂れし世にも花は咲き
 花また散りて春秋(しゅんじゅう)の
 遷(うつ)りはこゝに二十七。

 高眠遂に永からず
 信義四海に溢れたる
 君が三たびの音づれを
 背きはてめや知己の恩
 羽扇綸巾(かんきん)風輕(かろ)き
 姿は替へで立ちいづる 
 草廬あしたのぬしやたれ。

 古琴の友よさらばいざ、
 曉さむる西窓(せいそう)の
 殘月の影よさらばいざ、
 白鶴歸れ嶺の松
 蒼猿眠れ谷の橋
 岡も替へよや臥龍の名、
 草廬あしたはぬしもなし。

 成算胸に藏(おさま)りて
 乾坤こゝに一局棋
 たゞ掌上に指すがごと、
 三分の計はや成れば
 見よ九天の雲は垂れ
 四海の水は皆立て
 蛟龍飛びぬ淵の外。


 英才雲と群がれる
 世も千仭の鳳(ほう)高く
 翔くる雲井の伴や誰そ 
 東新野の夏の草
 南瀘水の秋の波 
 戎馬關山(かんざん)いくとせか
 風塵暗きただなかに
 たてしいさをの數いかに。

 江陵去りて行先は
 武昌夏口の秋の陣
 一葉(いちよう)輕く棹さして
 三寸の舌呉に説けば
 見よ大江の風狂ひ
 焔(ほのお)亂れて姦雄の
 雄圖(ゆうと)碎けぬ波あらく。

 劔閣天にそび入りて
 あらしは叫び雲は散り
 金鼓震ひて十萬の
 雄師は圍(かこ)む成都城
 漢中尋(つい)で陷りて
 三分の基(もと)はや固し。

 定軍山の霧は晴れ
 沔陽(べんよう)の渡り月は澄み
 赤符再び世に出でゝ
 興るべかりし漢の運、
 天か股肱の命盡きて 
 襄陽遂に守りなく
 玉泉山の夕まぐれ
 恨みは長し雲の色。

 中原北に眺むれば
 冕旒(べんりゅう)塵に汚されて
 炎精あはれ色も無し、
 さらば漢家の一宗派(いちそうは)
 わが君王をいただきて
 踏ませまつらむ九五(きゅうご)の位、
 天の暦數こゝにつぐ
 時建安の二十六
 景星(けいせい)照りて錦江(きんこう)の
 流に泛(うか)ぶ花の影。

 花とこしへの春ならじ、
 夏の火峯の雲落ちて
 御林の陣を焚(や)き掃ふ
 四十餘營のあといつこ、
 雲雨荒臺(こうだい)夢ならず
 巫山(ふざん)のかたへ秋寒く 
 名も白帝の城のうち
 龍駕駐(とどま)るいつまでか。
 
 その三峽の道遠き
 永安宮の夜の雨
 泣いて聞きけむ龍榻に、
 君がいまはのみことのり
 忍べば遠きいにしへの
 三顧の知遇またこゝに
 重ねて篤き君の恩、
 諸王に父と拜されし
 思やいかに其(その)宵の。

 邊塞(へんさい)遠く雲分けて 
 瘴烟(しょうえん)蠻雨ものすごき
 不毛の郷に攻め入れば
 暗し瀘水(ろすい)の夜半の月、
 妙算世にも比(たぐい)なき
 智仁を兼ぬるほこさきに
 南夷いくたび驚きて
 君を崇(あが)めし「神なり」と。


 南方すでに定(さだま)りて
 兵は精(くわ)しく糧(かて)は足る、
 君王の志うけつぎて 
 姦を攘(はら)はん時は今、
 江漢常武いにしへの
 ためしを今にこゝに見る
 建興五年あけの空、
 日は暖かに大旗(おおはた)の
 龍蛇(りょうだ)も動く春の雲、
 馬は嘶(いなな)き人勇む
 三軍の師を隨へて
 中原北に上りけり。

 六たび祁山の嶺の上
 風雲動き旗かへり
 天地もよどむ漢の軍、
 徧師節度を誤れる
 街亭の敗何かある、
 鯨鯢(げいげい)吼えて波怒り
 あらし狂ふて草は伏す
 王師十萬秋高く
 武都(ぶと)陰平(いんぺい)を平げて
 立てり渭南の岸の上。
 
 拒ぐはたそや敵の軍、
 かれ中原の一奇才
 韜略(とうりゃく)深く密ながら
 君に向はんすべぞなき、
 納めも受けむ贈られし
 素衣巾幗(そいきんかく)のあなどりも、
 陣を堅うし手を束(つか)ね
 魏軍守りて出(いで)ざりき。

 鴻業果(はた)し收むべき
 その時天は貸さずして
 出師なかばに君病みぬ、
 三顧の遠きむかしより
 夢寐に忘れぬ君の恩
 答て盡すまごゝろを
 示すか吐ける紅血(くれなゐ)は、
 建興の十三秋なかば
 丞相病篤かりき。


 魏軍の營も音絶て
 夜は靜かなり五丈原、
 たゝずと思ふ今のまも
 丹心(たんしん)國を忘られず、
 病を扶け身を起し
 臥帳(がちょう)掲げて立ちいづる
 夜半の大空雲もなし。
 
 刁斗(ちょうと)聲無く露落ちて
 旌旗(せいき)は寒し風清し、
 三軍ひとしく聲呑みて
 つゝしみ迎ふ大軍師、
 羽扇綸巾(うせんかんきん)膚(はだ)寒み
 おもわやつれし病める身を
 知るや非情の小夜あらし。

 諸壘あまねく經(へ)廻(めぐ)りて
 輪車(りんしゃ)靜かにきしり行く、
 星斗(せいと)は開く天の陣
 山河はつらぬ地の營所、
 つるぎは光り影冴て
 結ぶに似たり夜半の霜。

 嗚呼陣頭にあらはれて
 敵とまた見ん時やいつ、
 祁山の嶺(みね)に長驅(ちょうく)して
 心は勇む風の前、
 王師たゞちに北をさし
 馬に河洛に飲まさむと
 願ひしそれもあだなりや、
 胸裏(きょうり)百萬兵はあり
 帳下三千將足るも
 彼れはた時をいかにせむ。

 成敗遂に天の命
 事あらかじめ圖(はか)られず、
 舊都(きゅうと)再び駕(が)を迎へ
 麟臺(りんだい)永く名を傳ふ
 春玉樓(ぎょくろう)の花の色
 いさほし成りて南陽に
 琴書をまたも友とせむ
 望みは遂に空(むな)しきか。
 
 君恩酬(むく)ふ身の一死
 今更我を惜まねど
 行末いかに漢の運、
 過ぎしを忍び後(のち)しのぶ
 無限の思無限の情、
 南成都の空いづこ
 玉壘(ぎょくるい)今は秋更けて
 錦江の水痩せぬべく、
 鐵馬(てつば)あらしに嘶きて
 劔關の雲睡ふるべく。

 明主の知遇身に受けて
 三顧の恩にゆくりなく
 立ちも出でけむ舊草廬、
 嗚呼鳳(ほう)遂に衰へて
 今に楚狂の歌もあれ
 人生意氣に感じては
 成否をたれかあげつらふ。

 成否を誰れかあげつらふ
 一死盡く尽くしし身の誠、
 仰げば銀河影冴えて
 無數の星斗光濃し、
 照すやいなや英雄の
 苦心孤忠の胸ひとつ
 其壯烈に感じては
 鬼神も哭かむ秋の風。


 鬼神も哭かむ秋の風、
 行(ゆき)て渭水の岸の上
 夫の殘柳の恨(うらみ)訪(と)へ、
 劫初(ごうしょ)このかた絶えまなき
 無限のあらし吹(ふき)過ぎて
 野は一叢(いっそう)の露深く
 世は北邱(ほくぼう)の墓高く。

 蘭は碎けぬ露のもと
 桂は折れぬ霜の前
 霞に包む花の色
 蜂蝶(ほうちょう)睡(ねむ)る草の蔭
 色もにほひも消(きえ)去りて
 有情(うじょう)も同じ世々の秋。

 群雄次第に凋落し
 雄圖(ゆうと)は鴻(こう)の去るに似て
 山河幾とせ秋の色
 榮華盛衰ことごとく
 むなしき空に消え行けば
 世は一場の春の夢。

 撃たるゝものも撃つものも
 今更こゝに見かへれば
 共に夕の嶺の雲
 風に亂れて散るがごと、
 蠻觸(ばんしょく)二邦角の上
 蝸牛の譬おもほへば
 世ゝの姿はこれなりき。

 金棺灰を葬りて
 魚水の契り君王も
 今泉臺(せんだい)の夜の客、
 中原北を眺むれば
 銅雀臺の春の月
 今は雲間のよその影、
 大江(たいこう)の南建業の
 花の盛りもいつまでか。

 五虎の將軍今いづこ、
 神機きほひし江南の
 かれも英才いまいづこ、
 北の渭水の岸守る
 仲達かれもいつまでか、
 感極まりて氣も遙か
 聞けば魏軍の夜半の陣
 一曲遠し悲笳(ひか)の聲。

 更に碧りの空の上
 靜かにてらす星の色
 かすけき光眺むれば
 神祕は深し無象の世、
 あはれ無限の大うみに、
 溶くるうたかた其はては
 いかなる岸に泛(うか)ぶらむ、
 千仭暗しわだつみの
 底の白玉誰か得む
 幽渺境(さかひ)窮(きわ)みなし
 鬼神のあとを誰か見む。

 嗚呼五丈原秋の夜半
 あらしは叫び露は泣き
 銀漢(ぎんかん)清く星高く
 神祕の色につゝまれて
 天地微かに光るとき
 無量の思齎(もた)らして
 「無限の淵」に立てる見よ、
 功名いづれ夢のあと
 消えざるものはたゞ誠、
 心を盡し身を致し
 成否を天に委ねては
 魂遠く離れゆく
 高き、尊き、たぐいなき 
 「悲運」を君よ天に謝せ、
 青史の照らし見るところ
 管仲樂毅たそや彼、
 伊呂の伯仲、眺むれば
 「萬古の霄(そら)の一羽毛」
 千仭翔(かく)る鳳(ほう)の影、
 草廬にありて龍と臥し
 四海に出でゝ龍と飛ぶ
 千載の末今も尚
 名はかんばしき諸葛亮。

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