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「人生の手綱を握る」感覚が掴めるまで

「人生の手綱を握る」って
よく聞く言葉だけど、
"この感覚が掴めた!"と心から感じられるようになったのは、実は最近のこと。

念願の保育士として働いた時も、起業して、色んな出会いや経験を積み重ねてきた時も、喜びもがきながら、夢中になって本気になって楽しんできた。
でも、「人生の手綱を自分で握っている」感覚は、掴めていたようで、実際は掴めていなかったことに最近気づいた。

というのも、起業してから色んな仕事を経験し、その節々では「これは、やりたいからやる。これは、違うから、断る。」
自分の意志で決断して歩んできた。

でも、振り返ってみると、色んなことをしてきた自分は、一体何がしたかったんだろう…
自分で自分のことがよく分からなくなり、軸がなくて、迷走しているように感じていた。ブレブレ。

だからこそ、人の手を借りながら、講座やセッションなどを受けながら、自分と向き合うことを続けた。
続けながら、去年、スペイン人パートナーの故郷であるスペインに1ヶ月弱滞在した。

その間、継続クライアントさんのセッションは行ったが、その前から新規のお申込みは停止。
仕事をする時間よりも、パートナーの家族やスペインを満喫する時間の比率を圧倒的に多くした。

海の近くに実家のあるパートナーの家に滞在し、毎日のように海を見に行った。


色んなルートで散歩をして、彼の通っていた小学校、よく遊んでいた公園、夏になると行列ができる大好きだというアイスクリーム屋さん、、、。
私の知らなかった子ども時代のパートナーと出会った時間でもあった。

彼のご両親やお姉さんたち家族、姪っ子や甥っ子たち、、、
日本にいる時はテレビ電話でしか見えなかったスペインの家族と、やっと会えた感動のハグをして、肌で感じるぬくもりに触れた。こんなにも溢れる愛に囲まれて育って、今の彼がいることを日々リアルに体感した。
彼が生まれてから、大人になるまでのストーリーを、まるで読み始めた小説に惹き込まれて寝食忘れたみたいに、体感して味わった。

そして、なんだか彼のことが、彼の人生すべて含めて存在自体が、より愛おしく感じるようになった。

帰国してから、半年後。

パートナーと映画を観に行った。
「これ観ようと思うけど、一緒に観たい?」
正直興味がなかったけど、なんとなく観た方がいい気がして、一緒に行った。

映画を観ている時に、ふと降りてきた感覚がある。

「私の人生って、映画みたいじゃん。」

映画と私の人生は、全く関係なかった。
でも、その映画にたいして興味がなかったからこそ、おそらく俯瞰した目で見ることができたのだと思う。

「私の人生って、映画みたいじゃん。」

とは言え、人生はよく映画に例えられるので、何の珍しさも新鮮さのカケラもない気づきだった。

それでも。

それでも、うれしかった。
思わずスキップしたくなるくらい、軽やかな気持ちになった。見えないけれど確かにあった、重たい荷物を降ろせて、肩の力が抜けて楽になった。

映画を観終わって、パートナーとカフェに行き、私は「自分の人生は映画みたい」と思ったことを話した。彼は、分かるような分からないような顔をしていたが、それは、もはやどっちでも良かった。とにかく、私は晴れ晴れした気持ちになった。

だって、保育士として就職して6年働いた経験も、その後、片づけで起業したことも、片づけからコーチング業に転身したことも。広報、セミナー主催、告知文・画像作成、コンサルティング、、、素敵な人と出会い、色んな仕事を経験させていただけた経験は、そのプロセス自体が熱くて、夢中で、がむしゃらにチャレンジしながら駆け抜けた日々だった。そこには、なんの疑いなく、命を輝かせて、心を震わせながら生きてきたと言える自分がいたことに気づけたのだから。



「点と点が線になる」なんて、よく聞くけれど、人生の点だけ見ると、肯定できない気持ちになることがある。例えば、受験勉強を頑張って入学した大学と、今の仕事は、一見何のつながりも見い出せないように。

でも、人生の点が、その後どのような線になるかなんて、その時には分からないもの。振り返ってみれば、「あ~、あの点は、ここにつながっていたのか。」なんて思えることもある。
もっと早く気づきたいけど、想像はできても、早送りはできない。

「香織さんの人生は、色んなことを経験したから素晴らしい」と周りから何度言われても、自分で腹の底から愛おしく思えるくらい納得できるまでには、1年以上、いやもっとかな?
とにかく年単位の時間がかかった。

でも、

私にはその期間も、
そう言ってくれる周りの人も、
ノートを広げながら自分の人生や価値観と向き合った時間も、
スペインという非日常な場所でパートナーの人生に触れたことも、
興味のない映画を観たことも、
きっと必要だったのだと思う。

でも結局は、自分で掴もうとしたから得られた感覚なことは、間違いない。



「人生の手綱を自分で握る」って、カッコいい言葉。
カッコいい言葉だけど、抽象的で、何がどうなったら、手綱を握れるのか分かりにくい。
公務員という安定した仕事に就くとか、起業して売上が上がるとか、外側が整っていくように思えても、私は本当の意味で、内側からは握れていなかった。

でも、今はむしろ、誇らしく思う。

保育士から起業して、コーチング、広報、コンサルティング、、、色んな仕事に夢中になって、がむしゃらに走ってきた自分の人生を。

自分がやってきた事実は、変わらない。
でも、どの切り口から見て、どんな価値を見出すのかで、情けなく感じることも、愛おしく誇りに感じることもできる。

もし、一人で一生懸命にノートを広げて自己分析をしたり、誰かを頼りながら自分と向き合ったりしても、なかなか人生の手綱を握っている感覚が持てない人がいるとしたら。

あなたの大切な人の人生ストーリーを聞いてみることで、扉が開けることがあるかもしれない。
私がパートナーのことをより愛おしく思えて、のちに自分の人生を愛おしく思えるきっかけにつながったように。

私は、大切な人どころか、どこの誰かもよく知らない人のストーリーを見たり、聞いたりすることも好き。
それはきっと、「どの人の人生も、唯一無二で、美しい」ことを感じるたびに、自分の人生も受け入れ、肯定し、誇りに思うことにつながることを、きっと体感として得ていたからだ。

このnoteも、誰かの、何かの、そんなきっかけになれたらいいな。

そんな想いを込めて、noteで想いを綴ることをスタートします^^

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