2022年12月11日

信田さよ子、シャナ・キャンベル、上岡陽江『被害と加害をとらえなおす:虐待について語るということ』を読んだ。
前に坂上香監督の映画『プリズン・サークル』を見たときにも思った、被害と加害の連続性について考えている。

暴力は、振るわれた人を毀損する。
振るわれた暴力そのものだけでなく、それによって歪められて壊されて「本来そうではなかったはずの状態」で「その後」を生きなければならなくなることまで含めて、被害だ。

私の遠いけど遠くない(?)特殊な関係性の知人に、幼少期からたくさんの暴力を振るわれてきた人がいる。
その話を聞いてから、同情する気持ちがずっとある。
でも同時に、その暴力によって生じたその人の、他人を信じられない傾向や様々な難しい性質があって、近くにいると度々すごく傷付けられる。
私はそれに憤慨して、縁を切りたいと思う。
やってられない、あなたが被害を受けたことと私が加害されることは別だよ、そんなんじゃ人が離れるのも当然だよと、「正当性」の範疇を気を付けて守りながら、攻撃したくなる。

でもそれをすると何倍にもなって返ってくるし、私も自分自身の攻撃性を嫌だと思っているから、距離を取る。
付き合うことが、出来ない。

その人が帯びさせられてしまった「厄介さ」は被害の結果(あるいは被害そのもの)なのだと、私はよく理解していると思う。
でも、その人のストーリーに寄り添うことが出来ない。
その人が今はそのようにしか世界を見られなくて、そのストーリーしか語れないこと、たぶん何度も何度もくり返し語ることを必要としていることは分かる。
でもそれに付き合って聞こうとすると、こちらの体が傷んでしまう。
その人の語りは、私との相互性が無視された語りだからだ。
その人と私の関わりの範囲で、私には世界がまったく違った様相に見えている。

普通に接すると怒りが出てきてしまうので、心のスイッチを切って演技をするという形でしか、顔を合わせることが出来ない。
もう、その人との関係に関しては線を引いて、期待することをやめてしまった。

でもそういう風にすると、罪悪感がある。
自分は相手をまともな人間扱いしていない、と思うからだ。

私では聞くことが出来ない。
でも誰か聞いてくれる存在がいることで、現在形のまま残り続けている被害の経験が言葉になって、過去になっていくことが必要なんだろうと思う。

決定的に心の防火扉を下ろすに至る一件までは、私は話を聞こうとしていた。
でも今思うと、聞こうとしていたときでも、私では本当に話を聞くことは出来なかったのかもしれない。
私のスタンスは、「あなたが話したいなら聞くよ」であって、その人の話をわが事として聞くことが出来る素地がなかった。
だけど、私にとっては聞き続けることでこちらの体が傷んでしまう語りでも、もしかしたら語られる経験がどこかに共感的に響く人にとっては、聞くことがその人自身の言葉を獲得することであり、自分の回復につながるもの、切実に求めるものになるのかもしれない。
そしてそういう風に聞かれることでやっと、語る側の言葉もまた、表現されることが可能になっていくのかもしれない。

と、自助グループにおける関係の築かれ方、言葉の聞かれ/話される関係を読んで、思った。

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