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【PP】メタフィクション?ドラゴンズドグマ2のストーリー考察

はてさて、ゲームの話をすると、「遊んでないで原稿上げろ!」と言われそうな気もしないでもないのですが、仕事の息抜きに1時間、という感じでちょこちょこやっているうちに「ドラゴンズドグマ2」一週目クリアしてしまいまして、ストーリーが非常に構造的に面白いものだったので、ちょっと整理も含めて考察してみようかなと思います。

ドラゴンズドグマ2をプレイして、ストーリーがいまいちピンとこなかった、という人も、創作などで小説や漫画の構造を考える人にも面白いんじゃないかと思いますので、すさまじいまでのネタバレOKという方は、以下ご覧くださいませ。

また、個人的な解釈なので、本編で見落としてるところとか、のちのち、開発者インタビューやDLCなどで別の情報が明かされるかもしれませんので、そういうとこは後日書き直していこうかなと思います。




※※※以下、クソほどネタバレします!!!※※※


■DD2は、「メタフィクション」

結構ね、このメタフィクションという手法を使う作品は多いと思うんですけど、一番有名で分かりやすいのは映画『マトリックス』だと思うわけですよ。映画のネタバレもしてしまいますが、主人公・ネオ(キアヌ・リーブス)が普段生活している、映画の外の現実世界に似た世界というのは実は仮想現実で、映画内の現実世界は人間との戦争によって決別した機械が支配しており、人間は化学的に繁殖させられ、眠らされたまま生体電気を電源として使われている、というえぐいディストピア。
ただ、もちろん、そんな状態に人間は甘んじていたくはありませんから、目覚めて逃げ出し、人間に残された最後の拠点・ザイオンに引きこもります。そういう、「意志で行動する人間」が増えると機械たちのエネルギープラントが崩壊してしまうので、機械は永続的に電源を得るために「マトリックス」という仮想現実の世界を作って、それをプラントの人間に見せることにしました。

プラントの人間は、人類が最も豊かに暮らしていた90年代をシミュレートした世界を現実だと思っており、自分たちが機械の養分となっている現実世界を知る由もなく、大人しく搾り取られています。さて、ネオはこのマトリックス世界にいる人々を救う救世主となり、現実世界で人類は機械に打ち勝てるのか、というストーリーラインになっておりました。

ドラゴンズドグマ2の構造は、これに近い気がします。

で、今作がどういうメタフィクションなのかというと、ゲーム内のメタ構造が、現実における「ゲーム」そのものと対比されている、ということです。まずはそれを前提にストーリーを振り返ると、今作のストーリー的構造が分かりやすいんじゃないかと思います。

■前作振り返り

前作「ドラゴンズドグマ」は、メタフィクション構造ではなく、表世界と裏世界のレイヤー構造になっている間をループするようになっていました。覚者とドラゴンと界王という三者が倒し倒され、入れ替わり合い、という繰り返しが、ゲーム内世界を構築していたわけです。

ドラゴンズドグマの世界には定期的にドラゴンが襲来するわけですが、それと同時にドラゴンによって覚者が選ばれます。おそらく、こいつはきっと俺を倒すだけの強い意志があるだろう、という人間を選ぶのでしょう。ドラゴンの目的は、覚者との意志比べですから、十分に覚者が成長してから戦います。古典的RPGにおける、「ラスボスが序盤で主人公を殺さない問題」をうまく解消していますね。

覚者はドラゴンを倒し、奪われた心臓を取り返す、という役割を与えられますが、竜に敗れてしまった場合は、ドレイク(ファイター)、ワイバーン(ストライダー)、ウィルム(メイジ)と、元のジョブに応じたドラゴンに変えられ、次の覚者の「生きる意志」を試す存在となります。
覚者がドラゴンを倒すという役割そのものからドロップアウトした場合は竜識者となり、次の覚者をドラゴンの元へ導く役割を与えられます。たぶん、覚者がドラゴンを倒すまでの時間というのにはリミットが設けられているのでしょう。それまでに決戦に挑まなかった場合は、元の覚者は竜を倒して心臓を取り返すという権利を失って不死となり、次の覚者がドラゴンを倒すと心臓を失って消滅する、というポジションになると思われます。

ドラゴンは、最大好感度NPCをいけにえに、こいつと引き換えに元の世界で絶大な権力を与えるけど、どうする? それとも、超強いオレと戦っていけにえを助ける?と、選択を与えます。この辺は漫画『ベルセルク』や初代ドラゴンクエストの影響かオマージュかなと思いましたね。
いけにえを捧げた者は王となり、次の覚者がドラゴンにたどり着くまでの拠点となる「国」という環境を維持する役割を与えられます。

恐怖や誘惑、戦いをすべてのりこえ、自分の生と愛する者の生をつかみ取るべくドラゴンに挑む強い意志の持ち主は、ドラゴンを倒したのちに心臓を返還され、界王の元へと導かれます。

界王は世界を統べる「世界の王(王貞治みたいになってしまったが)」という位置づけですが、物語における役割としてはバックグラウンドプログラムのようなもので、覚者がドラゴンを倒して世界に安寧をもたらす「表の物語」を動かすための世界をセッティング・維持運用をする役割を与えられています。表世界に直接干渉することはできず、覚者がドラゴンを倒す、という物語のエンディングが来るまでは永遠にその作業に従事しなければならないわけで、玉座しかない空間に一緒にいるのは感情のないメインポーンだけ。孤独で退屈、空虚な「永遠」を生き続けなければなりません。

さて、ポーンの導きでエヴァーフォールを突破して世界の深層に到達した覚者は、最後にもう一度、意志を確かめられます。実は、あなたがめっちゃ苦労して倒したドラゴンて、ただのプログラムなんですよ。あんたもそうなんですよ。あんたが世界だと思っている世界は、作られた幻、いわばマトリックス世界なんですよ、という真実を突き付けたのち、その、作られた安寧の中で、ドラゴンを倒した王様としてぬくぬく暮らしていくか、この世界の真実を見るべく前進するか選べ、と言われるわけです。「マトリックス」でも、真実を知りながら、仮想世界での安寧を求めたサイファーというキャラがいましたね。

おれ、せっかく世界を救ったんだしちやほやされてえわ、と覚者が元の世界に戻っていくと界王の代替わりや敗北覚者がドラゴンになるということが起こらなくなるので円環が途切れてしまうのですが、おそらく、シナリオ的にも設定的にも、覚者がここで戻るということは想定されていないんじゃないかと思います。だから、ゲーム的にはあそこで戻ってしまうとまた元に戻されてやり直しになるのかなと。ドラゴンを倒してここまでくるような覚者は今更戻る選択なんかまずしないので、ストーリー上、その行動は想定外なわけですね。戻るような奴は、エドマンみたいに、竜と対峙した時点で戻るわけですよ。

プレイヤーは表の世界という虚構で自分を待っている人々の幻をぶちのめして前に進み、界王との最終決戦に挑みます。前世代でドラゴンを打倒した元覚者の界王と、どちらの意志が強いのか。あきらめずに生きようという力が強いのはどちらか。でも、これは覚者と界王の対決が繰り返されるほど、覚者が勝つ可能性が高くなるんじゃないかなと思います。

界王のおしごとである世界管理はめたくそ孤独であり、永遠の時間の中を一人で生き、この世界をコントロールし続ける必要があります。普通の感覚の人ならそんな環境には耐えられないので、普通の人より生きる意志がめちゃくちゃ強い人じゃないと務まりません。心臓もってかれたくらいでへこたれず、竜を倒して取り返すくらいの強烈な生への意志が必要になるわけです。

ただ、さすがの界王も、永遠に繰り返す世界をただ管理しているだけでは生への意欲が削られて、意志も弱ってしまうわけで、意志びんびんの覚者の前に屈するわけです。そして、不死の界王を唯一殺せる剣・リディルを主人公に渡し、自分を殺し、界王の座を引き継いでくれるよう頼みます。つまり、永遠とは言いつつも、ある程度定期的にバックグラウンドプログラムの更新がかかるシステムなわけですね。「界王」「覚者」は、「マトリックス」における救世主プログラムみたいな存在で、世界の定期アップデートを行うためにネオはソースコートを目指し、覚者は界王を目指すわけです。マトリックスでは「個人的な愛に生きるかか世界の崩壊を止めるか」という二択を迫られますね。

界王が入れ替われば、世界はいったんリセットされて、新たなドラゴンが「虚無」から供給され、「ドラゴン討伐物語」という物語世界は維持されることになります。

さて、界王となった覚者、もといプレイヤーは界王として生きることになるのですが、半透明のキャラをひたすら動かすだけという目的もなにもないゲームプレイを求められます。まあ、こんなもんやったところで面白いわけないので、意志薄弱なわれわれは3分もやれば飽きてしまい、早々にギブアップすることになります。半永久的にこの状態で過ごさなければならない界王とか、どんだけかわいそうなのかと思います。ということで、界王生活をリタイアすべく、リディルであっさり取り返したばかりの心臓をぶち抜きます。

おそらく、それで、前作「ドラゴンズドグマ」の世界は終わったのです。界王が次の覚者と対峙せずに死んだことで円環は成立しなくなり、繰り返される物語はもう繰り返されることがなくなります。ドラゴンもいないし、勇者たる覚者もいない。不死のポーンもいない。行動を制限するヒュージブルもいない。ただ、物語のために用意された舞台だけが残り、勇者のために武器を売る武器屋、ここは〇〇の町だ!と情報を提供するだけのために町の入り口に立ち続けている人、という、役割を失ったNPCが取り残され、我々がプレイするには面白みの全くない「日常の世界」になるわけですね。日常系ファンタジーなんてやってもゲームとしてはおもんないので、我々プレイヤーはもう、この世界への関与はしなくなります。

これが、世界の終わりであり、作られた物語が消費された、ということになるわけです。

さて、円環はここで終わるのですが、プレイヤー覚者はとてつもなく意志が強いので、(ここのロジックは作中説明されてたかわからないのですが)自分の命をメインポーンに引き継ぐことができます。そうやって覚者の命を引き継いだのがセレナであり、ラスト、プレイヤーのメインポーンが覚者の体を得て、人間となります。

主人公は、自分の生を突き詰め、世界の真理にたどり着いた結果、それがただプログラムされた通りに世界を動かしていただけと知って、おそらくめちゃくちゃ絶望したはずです。あの坂を越えれば海が見える、と、ひたすら坂を登っていったら、向こうには海なんかなかった、ということがわかってしまったわけです。

なので、理を打ち破り、空虚な円環を終わらせるという選択をします。自分の後の覚者にしんどい思いをさせて、全部虚構だぴょん、と告げる役なんてまっぴらごめん、ということだと思いますね。もしくは、何のためかもわからない円環システムに何もわからないまま乗っかるなんていやだ、という反抗心もあるでしょう。
ただ、自死はするわけですけれども、そのあくなき生への意志をメインポーンに託し、物語にもならない、何もない平穏で退屈な世界の中で自分の意志を引き継ぎ、役割を失っても生き抜くことを求めるわけです。

永遠の円環というのは、「もしわれわれに死が訪れなかったら?」「もし、ゲームにエンディングがなくて、永遠に遊び続けられるとしたら?」ということを遠回しに言ってるんだと思うんですよね。

人魚の肉を食って不死になった八百比丘尼の話みたいに、終わりの来ないストーリーや人生は、時とともに価値を失っていくわけです。そもそも、覚者は心臓をドラゴンに取られて不死になったのに、その心臓を取り戻そうとするわけじゃないですか。いずれ、次期覚者がドラゴンを倒した時に消えてしまうとしても、生身で生きることに比べればはるかに長い時間生きることができます。でも、竜識者のような空虚な永遠を生きるより、心臓を拍動させる有限の生こそが生きるということなんだ、というメッセージですね。きっと。

竜識者も、界王も、生きる価値を奪われた存在であり、界王をも上回る意志を持つ覚者たるプレイヤーは、有限の人生をいかに生きるのか、エンディングのあるゲームをいかに楽しむのか、という生の価値をよくわかっています。終わりに向かってまっすぐ進み続け、終わらせることで得るものがあるのであって、それが生きる意志なのだ、ということを体現するわけです。

決して、透明人間操るのクソ暇だから二週目いこー、みたいなことではなく。


……というのが、前作「ドラゴンズドグマ」のストーリーの根幹でした。


■今作メインストーリーは「2」じゃない。


まず、前作をプレイした人は気づいたのではないかと思うのですが、DD2のストーリーって、多少変化はあるものの、ほとんど前作と一緒です。プレイしていて「展開同じじゃねえか」という既視感を延々持っていた人もいるんじゃないでしょうか。僕もそうでした。

火山島の発掘現場で記憶喪失の状態で始まり、ヴェルンワースの城下町クエストをこなし、同じようなことをバタルでもやり(ここは今作で追加されたとこ)、竜と対峙して、好感度最大キャラを人質にとられて、まやかしの王となるか、われと戦うか、という選択を迫られます。


ここまで、前作とほぼ一緒!


ただ、これはストーリー作るのがめんどくさくて焼き直しをしたわけではないと思います。ここまでは、実はDD2ではなく、前作の世界と同じ世界なわけです。事前の開発者インタビューや宣伝などでは、DD2は前作の並行世界のようなもの、という説明があったのですが、パラレルワールドというよりは、前作の世界の別バージョン、という感じがします。
冒頭、グリフォンの背に乗りながら表示されるタイトルは、「DORAGON‘S DOGMA」であり、「Ⅱ」とはなっていませんので、ここはあくまで前作と同じ位置づけの世界ということですね。

ここで大事になってくるのが、2における「観る者」と、「導き手」の存在です。ゲーム内世界に、ゲーム内メタ世界がある、というのが、今作の大きなミソになります。なので、「ドラゴンズドグマ」というタイトルで語られるのは、「作中作」のパートで、これは、勇者が竜を倒すというベッタベタファンタジー世界です。ですが、その「作中作」世界を作っている側の作中メタ世界があるということです。

前作の界王はバックグラウンドプログラムであり、あくまでゲーム内の制御プログラムで、界王の世界は作中作の中の別レイヤーの世界であったのですが、今作の作中メタ世界はそれとは異なります。作品内の次元からは観測できない外の世界の人間がいて、DD世界を観察しています。
「導き手」は、そういった開発側(大いなる意志)がプログラムをうまく動かすために導入した調整ツールのような存在で、おそらくは、「大いなる意志」ともコネクションがあり、外の意志にしたがってDD世界をシナリオ通りに導く機能があります。『FF7 REMAKE』の「フィーラー」的なものですかね。導き手が目指すのは、作中作を成立させ、それが繰り返す円環を作り上げることです。

それはなぜか? 理由は明確ではありませんが、この世界を「観る者」たちのためだろうと思われます。「観る者」は高次の存在なのでゲーム内からは認知できませんが、おそらくは、我々のような、ゲームのプレイヤー、物語の閲覧者、傍観者なのでしょう。そういった人たちにとって、価値ある物語を提供するために、「導き手」は活動します。

ほかの世界、つまり、ほかのゲームなどのコンテンツは、物語としての機能が不十分になると、「観る者」たちからの注目を受けなくなり、やがて「虚無」によって消されていきます。この概念は、メタ構造のお手本的な映画『ネバーエンディングストーリー』からの拝借じゃないですかね。あれは、ファンタジー世界は人間の想像力が作ったもので、夢や希望を人間が失ったから、そういう想像の世界が無に侵食されて崩壊する、という話でしたので、結構そのまんまな設定である気もします。

メタ的に言うと、ゲームの開発中止とか、リリースしたゲームが賞味期限切れで遊ばれなくなること、オンゲーの同接数減少によるサービス終了、みたいなことを暗喩しているのかなと思います。

そういう、コンテンツの消費が無数に行われる世界の中で、物語一回で消されんのとかやじゃね? この世界をもっと維持したくない? という「意志」が生まれます。ゲームに置き換えると「アイデア」なのかもしれません。この意志をおもしろいじゃんそれ、と思った「大いなる意志」は、その「意志」を「ドラゴン」「覚者」という対の存在として実装し、「界王」というバックグラウンドプログラムを機能させて、「永遠に終わらない物語」という仕組みを作るわけです。これが、前作「ドラゴンズドグマ」という物語の作中世界です。

ですが、前作のエンディングで円環は止まり、物語としては完結してしまったわけで、残された世界は無価値な日常シミュレータみたいなものになってしまいました。ただ、それだといずれ世界は虚無によって消され、なかったことにされてしまうわけです。せっかく、前作で「永遠に終わらない物語」という円環構造を作ったのに、それが虚無に消されていくのはもったいない、と、前作をもう一度リブートさせた世界が、今作の世界、ということになるんじゃないかなと思います。つまり、今作は「ドラゴンズドグマ2」ではなく、前作の世界を上書きした、「ドラゴンズドグマ」としてスタートするわけです。この辺も、救世主プログラムによってアップデートするマトリックスの設定とよく似ています。
ただ、前作と今作が一般的な「並行世界」だとすると、前作の遺構がのこっているという点や、海辺の老人の存在が説明しにくくなって、かといって、縦の歴史でつながっていると考えると、マップも大きく変わっており、前作の何百年後の世界、みたいなものでもなさそうです。

なので、高次の世界の「大いなる意志」は、完結してしまった前作の世界を「上書きして作り直した」んじゃないか?というのが個人的な仮説。

新しい世界には始まりがあって、ただ、現実世界のようにビッグバンから宇宙が生まれ、みたいな進化の歴史をたどってきたわけではなく、虚無に囲まれた箱庭フィールドが用意され、そこに役割を与えられたNPCたちが配置され、さあ物語をスタートするぞ、という段階まで作られた状態で、最初の覚者と最初のドラゴンが実装されるのだと思います。が、その一発目なのか数代経たのかはわからないですが、リブート後にドラゴンプログラムが生成した覚者プログラムがクッソ問題児でした。それが、狂王ロセイエスです。

ロセイエスは覚者としてドラゴンを倒し、ヴェルンワース建国の祖となりますので、たぶん新世界においては初めてドラゴンを倒した覚者なんだと思います。その後、ロセイエスは「建国後に界王になった」といい、海辺の老人は「界王になった後、降臨してヴェルンワースの王になった」という説明をしますが、ここの経緯がちょっとわからなかったですね。界王決定戦やってないじゃん?みたいな。ただ、真エンド前の導き手の言葉からすると、表世界の覚者が界王になるのは今作ではイレギュラー事象のようで、新世界はロセイエスのせいでしょっぱなから運用に難を抱えてしまったことになります。
もしかすると、導き手は世界が安定的に繰り返すまで積極的に干渉するプログラムで、前作の世界でも、超初期段階では導き手が活動していたのかもしれません。前作では、三位一体の円環構造がしっかり動いていたので、出番がなかっただけかもしれないですね。

ロセイエスは(なぜか)界王となったことで、表の世界のすべてを知り、自分が知る歴史とは違う「前時代の遺構」がまだ世界に残存していたことも把握します。で、この世界は連綿と歴史が続いているのではなく、誰かが介入して作ったものだ、ということに気づくわけです。宣伝で語られた「並行世界」というのは、前作とどうつながっているのかを詳しく話してしまうとネタバレになるので、ストーリーの直接的なつながりはない、ということを便宜的に並行世界と表現しただけかもしれないですね。

ロセイエスは界王になりながらも表世界に干渉し続け、ヴェルンワース王として「観る者」を探し出して駆逐するためにNPCの殺戮に明け暮れたわけで、前作の「裏方にいるけど、物理的に表の世界に干渉できない」という界王の設定とは違う存在な気がします。ここの理屈もちょっとまだわかってませんが。

界王は覚者に敗れると権限を委譲する、というシステムは生きていたのか、導き手はドラゴンに勝った覚者を刺客としてロセイエスに送り込むのですが、ロセイエスが強すぎて、送れども送れども返り討ちにあいます。これでは、円環の物語が始まらない。そこで、ロセイエスを殺害することは諦めて、海底神殿に封印することにします。ここも、封印てどういうことやねん、と思いましたが、おそらくは、導き手によって一時的に覚者にチート能力が付与されたんじゃないかと思いますね。

もう一つ考えられるのは、ロセイエスは想定をはるかに超える動きをしたので、これはもう、界王システム自体を凍結しよう、と「大いなる意志」側が判断して、ロセイエスをシステム的に隔離して今作のDD世界に関与しないようにしたのではと思います。界王をリディルで殺さなければ交代は起こりませんので、今作の世界に界王は誕生しないことになります。
ただ、不死のままで居られても困るので、何らかの形でエネルギーを弱め、自然消滅に導くことにしたのでしょう。今作の終盤で、ロセイエスは力尽きます。

界王に任せていた「世界の王」の役割は廃止、円環はドラゴンと覚者の間で構築し、導き手にバックグラウンドの整備という役割を任せたのではないかと思います。

本作の海底神殿は、上書きされた前作のデータの残り、旧領都グランソレンの廃墟です。おそらく、ドラゴンズドグマの世界の「上書き」は、前作の世界の上に新しい世界を文字通り上書きしたものじゃないかと思います。なんとなくですが、今作のマップは前作のマップを時計回りに90度回転させて拡張したもののように見えますね。

そう考えると、前作の領都グランソレンの位置にヴェルンワースがあり、始まりの村・カザディスの位置にハーヴ村があります。主人公がハーヴ村で出会う「海辺の老人」は、前作から生き残り続けている不死NPCで、消去されずに残ってしまったバグなのではないか?と思います。今作の世界が前作の並行世界説だとすると、老人が「ヒュージブルのいない海」を経験するには、すでに今作クリア後の異界に行く必要がありますが、だとすると、老人はポーンである必要があります。もし元ポーンであれば、覚者である主人公に対しては従属する態度をとるはずですので、たぶん異界に行けるキャラではないはずです。

老人はハーヴ村には溶け込まずに一人で住んでおり、近くの洞窟はグランソレンへの入口になっています。また。近くに戻りの礎があり、老人がロセイエスの話を覚者にしたことがきっかけで海底神殿が浮上するので、このキャラクターが特別な存在であることは間違いありません。
海辺の老人がロセイエスの情報を覚者に伝え、「忘れられていた」ロセイエスが覚者に知覚され、海底に沈めていた前作のデータが今作の世界のフォアグラウンドに浮上してきた、ということなのかなと思います。

この老人はどうも加護なき世界も経験している節もあり、謎が多いなと思います。前作と今作の橋渡しをするような存在ですし、二週目でもうちょい注目すべきですね。

もしかすると、前作の前にもDD世界は幾度となくアップデートされていて、上書きというやり方が常態化していたのかもしれません。HDDのデータを初期化する際は、ラベル情報だけ消去され、データセクタに別データが上書きされるときのみデータが入れ替えられます。空き領域には実際にはデータが残り続けますので、DD世界のリニューアルもそういうもんなのかなと。

蒼月塔に関しては、竜との最終決戦場として、今作でも流用されることになったのかなあと思います。今作では、竜に乗ってしか到達できない絶海の孤島みたいになってるよね?
あれ、竜を倒した後、どうやって戻ってきてんだろう。

作中、海や川といった水場でヒュージブルが発生するのは、ゲーム内キャラクターたちに、「この世界にはマップ端という果てがある」「フィールドによって上書きされていないデータは水没させている」ということを知られて、「この世界って実は現実じゃないんじゃないか」ということに気づかれ、そこから逸脱しようとする「意志」を目覚めさせないために水中探索や航海が制限される仕様になっているのだろうと思います。「オープンワールドゲーで海の果てに見えない壁が存在する」というある種のお約束を逆手にとって、うまく物語世界に落とし込んだロジックだったと思いますね。

ちなみに、「導き手」が真エンド前に、「この世界の王になりたかったのですか?」と主人公に聞く場面があり、「そういう方法もあった」みたいな話をしますが、これはロセイエスのやり方で界王になることもできたかも、ということを示唆していたのでしょうか。

ここも考察ですが、おそらく、前作で本来生き続けなければならない界王が自死し、円環が崩壊してしまったので、「大いなる意志」は、新バージョンではそうはならないよう、より生存に対する本能が強いゲーム内住人を実装することになったんじゃないかと思います。それが、おそらく今作における「獣人族」かなと。

獣人族は、従来の人間族のように理性が強く働くのではなく、生物的本能がより強く働くNPCが多いようです。バタルでいきなり覚者に突っかかってきたり、世界崩壊後はケンカ三昧になったりします(理性的な獣人もいますが)。そのおかげで、いろいろあれこれ考えて自殺する、みたいな人間族出身のナイーブな界王のドロップアウトを防ぎ、円環をより強固にしようとしたのではないでしょうか。そのため、当初は物語の中心地ヴェルンワースは獣人族の国になります。

ですが、獣人族出身の界王ロセイエスは、本能的で、強烈な支配欲・権勢欲を持ってしまい、その地位を確固たるものとすべく、マトリックス内でいうエージェントを探し出して殺そうと殺戮の限りを尽くして暴れまくり、「狂王」と呼ばれるまでになります。残念ながら、「観る者」が高次の存在であると理解するところまでは至らなかったわけですが、物語のヒーローである覚者が王となった後に暴君となる、という展開は本来の、苦労して竜を倒した覚者が王となり、善政を布いて安寧を招く、という予定したストーリーにはそぐわず、円環もぶっ壊れてしまうので困るわけです。

なので、「大いなる意志」は、元の人間族を実装しなおし、同時に、覚者プログラムに情報を与えてストーリーを円滑に進めるための「導き手」プログラムを運用します。ヴェルンワースは人間族の国にするべく、ロセイエスを何とか封印して、ようやくヴェルンワースに人間族の覚者王を誕生させます。以降、再び円環構造を作るべく、「決められたドラゴン」と「決められた覚者」が、お互いに生まれ変わり、何度も何度も戦うという円環構造を作ります。前作の三位一体の構造とは変わっているわkですね。

なので、導き手は、今作主人公に対しても、うまいことドラゴンを倒して王になってね!と、いろいろ手助けをするわけです。


前作主人公は自ら死を選び、無限の円環を絶ったわけですけれども、そこからしばらく、世界は「理のない世界」となったんじゃないかと思います。これはすなわち、「観る者」が観るべき物語が明確に存在しない世界であり、「虚無」によるコントロールを受けていない、真の意味での「オープンワールド」です。
次世代ドラゴンズドグマの世界を構築するまでの間、ゲーム内時間ではかなりの長期間、この自由で何も起きない時期が続いたのではないでしょうか。今作で海辺の老人が言っていた、水に入ってもヒュージブルが存在しない世界、船で海にこぎ出していける世界というのは、おそらくは、「大いなる意志」が、この次期ドラゴンズドグマ開発期間中だったのではないかと思います。
それも、並行世界ではなく、上書き世界のほうがしっくりくる理由ですね。

■ドラゴンズドグマ2の世界


世界をリブートした後、新環境初期ではごたごたもありますが、狂王ロセイエスを封じ、人間族のヴェルンワース、獣人族のバタルというゾーニングもうまくいき、導き手の導きにより覚者とドラゴンによる円環構造もようやく機能し始め、ヴェルンワースは代々覚者が王となり、空白期間に摂政公を置く、というシステムが出来上がります。このまま円環が続けばよかったのですが、ロセイエスの存在の痕跡により、この世界が円環であること、それが空虚な繰り返しでしかないことに気づく存在も出てきます。円環に気づいたキャラクターは、そこから脱却しようという意志を持つようになります。

まず一人(?)めは、今作冒頭、主人公を黒焦げにして覚者にする、あのレッドドラゴンです。たぶん、ドラゴンとプレイヤー覚者はゲーム開始までに何回も戦っているんだと思われます。ロセイエス封印以降の世界は、界王を含む三位一体構造ではなく、覚者とドラゴンという対の存在によるループになるからです。

プレイヤーである覚者は、王になるたびに束の間の安寧はあるものの、結局はなんかかしかの妨害を受けてその座を追われるか、生を全うして生まれ変わるかして、一兵卒となって竜にまる焦げにされた挙句、心臓をえぐり取られるという運命を繰り返していると思います。これは、通常エンド時の竜の最期の言葉が示唆しているように思います。

ドラゴンの側は記憶が消えることもなく、おそらくは、ヴェルンワースが長らく摂政公によって治められ、覚者王の誕生を待ちわびていたというところからも、かなりの回数覚者と戦って、そのたびに勝ち残っているのだと思います。毎回同じ奴が生まれ変わって挑んでくるので円環構造にも気づいており、いい加減、もうこのくだらない茶番の繰り返しはやめねえかね覚者君?と思っています。なので、冒頭、記憶を失って同じことを繰り返そうとする覚者に「憐れ」とため息をつき、ハッパをかけて、自分の「意志」で円環を抜けろ、とさんざん言うわけです。

もう一人、世界の理に触れているのはバタルの魔術師「ファズス」です。
この人は、この世界の理を研究しているうちに、「神凪の声」にたどり着きます。ロセイエスは「神凪の声」は覚者の魂だと明言していますので、おそらくは、覚者プログラムに付与されているポーンを使役するための権限とかコードの類なんだと思います。今作に合わせて錬成(コンパイル?)することで、覚者ではないNPCでもポーンを使役するというデータ改変が可能になります。

ものしり竜識者が青い欠片については「知識にない」というので、アップデート後の今作のDD世界には本来存在しない設定のものなんでしょうね。ここのロジックはわかりませんが、「ロセイエスに殺された覚者の魂」がDD世界で物質となったもののようなので、海の底の、本来行くことができない現行DD世界とは違う理の旧世界にアクセスすることによって生成されてしまうものなのかもしれません。ここの理屈の説明は作中あったかなあ。
ただ、ロセイエスは自ら撃退した覚者にも敬意を払っていたように思いますね。で、ロセイエスに撃退された覚者が、ドレイクやらになっているんじゃないかと思います。余談でした。

そういった、「本来この世界に存在しえないもの」を研究するうちに、ファズスもロセイエスと同じようにゲーム内世界の範囲を飛び越えた知識を得るようになり、世界がドラゴンによって繰り返されていると理解します。有能ですね。
そして、神凪の声を使い、竜を従えることで覚者とのつながりを絶って理を打ち砕き、この世界が竜と覚者による円環ではなく、DD世界に住まう自分たちが主導する世界とすべきだ、と考え、世界を取り戻そうと考えます。ファズスの「意志の力」はドラゴンや覚者ほどの強さではありませんでしたが、彼ももまた円環を抜けんとする意志の一つであり、主人公にそういう概念を与えることになるわけです。ロセイエスにはくそみそに言われていたけれど。

で、ロセイエスも、もちろんこの世界の構造に気づいている存在の一人です。でも、ロセイエスの場合は円環構造とかうんぬんより、自分の世界を外から見てくる奴らがいるのムカつく!が一番で、とにかく、「観る者」からDD世界を引きはがそうとするわけです。名実ともに、「自分の世界」にしたかったわけですね。なので、自分のところに覚者を刺客として送ってくる導き手とは対立関係になります。
主人公はロセイエスを討つという案内は導き手から受けていませんので、ロセイエスはプログラム凍結し、自然消滅を待つ、ということで最終決定されたのでしょう。ですが、あろうことかグランソレン跡が浮上し、覚者とロセイエスがコンタクトを取ってしまいます。

ロセイエスは本能的に主人公の意志の強さを見抜き、界王御用達のリディルをプレゼントします。「自分の魂そのもの」と言ってますが、たぶん、前作の遺物なんでしょう。前作の界王が命を絶ち、機能を失っていたリディルを、ロセイエスは過去データの中から引っ張り起こし、竜の血をもって錬成する(新バージョンのDD世界に対応するよう、旧作の言語から新作の言語コンパイルする?)ことで、今作でも使えるようにしたわけですね。竜の血(竜血晶)は、武器を竜覚醒させたり、スキルのスタミナ消費量を減らしたり、今作のDD世界における物理法則を超越させる働きがあるのかなと思います。

さて、こういった連中の「意志」もあって、主人公は円環を抜け出す術を遂に理解します。それは、リディルを使うこと。

リディルはおそらく、DD世界におけるAdministrator権限とか、プロテクト解除コードみたいなもんなんだと思います。多分、本来なら何か条件をそろえないと開かない扉を強制的に開く(バタルの封印を解く)とか、エレベーターみたいなファンタジー世界には本来ないはずの機能を起動する、といった力があって、不死プログラム(界王)を強制削除する、という権限も持ちます。

真エンド前、ドラゴンを倒すまでは不死である覚者がリディルで自らの胸を刺すことで、覚者の心臓を取り込んでいるドラゴンを間接的に攻撃し、「戦わずして殺す」という、本来できない裏技でドラゴンを撃破(削除)してしまいます。こんなやり方は本来想定されていないため、新DD世界のプログラムはフリーズしてしまいます。ドラゴンも覚者も海に落ちていきます。この世界のドラゴンは、ここで死に、終わったのだと思います。ドラゴン的には、ようやく希望がかない、虚無に戻れたんでしょう。

高所から海に落ち、一気に深海に達しようという覚者は、導き手プログラムが常駐する開発者領域に引き込まれます。虚無、ヒュージブルを生成しているのはおそらくこの場所。
で、水没ロストしたポーンも、ここを通過していったん虚無に戻され、再び覚者によって引っ張り出せるようになるのかなと思います。
でも、覚者は通常、ヒュージブルがフォアグラウンドに押し戻すので、この領域に到達することはまずなく、緊急的な対応だったんじゃないかなと思います。

たぶん、アップデート後の世界では、ドラゴンといいファズスといい、導き手の意図にそぐわない、円環を壊そうという「意志」がやたらでてきて、そりゃあもうイライラしっ放しだったのではと思います。主人公覚者もまた、元の世界に戻ろうとせず、この世の真理を求めます。

激おこの導き手は、前作で界王が担い、今作でロセイエスが放棄したので導き手が代わりに担っている「世界を維持する機能」を停止してしまいます。
つまり、朝が来て夜が来る、という時間の制御、天候の制御、命をはぐくみ、かつNPCをDD世界に閉じ込めおくための水の生成、食料の鮮度維持、などがあるかなと思います。
この機能の停止は、おそらくですが、DD世界の消去の一環なのだと思います。この消去プログラムが稼働した状態が「加護なき世界」。
以降、DD世界の外縁から虚無の化身であるヒュージブルが侵食していきます。消去しなければならないプログラムが集中している町や城などには、ヒュージブルの集合体みたいなモンスターが降臨して、破壊という形で重点的にデータ消去をする、ということになります。

ここに至ってようやく「大いなる意志」と導き手が延命していた前作「ドラゴンズドグマ」の世界は完全崩壊し、「DORAGON`S DOGMA Ⅱ」のタイトルが出るわけですね。ここはちょっと鳥肌立ったな。

たぶん、導き手は、円環からすぐ逃れようとする「意志」に辟易して、じゃあ、こっちが円環を用意してあげないとこうなるんですけど!?いいの!?っていうのを見せつけ、主人公が、すいません、円環に戻るっす、と言うように仕向けようとしたのではないでしょうか。何回か、その脅しが成功したことがあるのかもしれません。その時に加護無き世界を体験しているのが、海辺の老人かもしれないですね。壁画とかで経緯みたいなの残ってないかな。

たぶん、導き手は覚者プログラムを直接編集する権限はなくて、プログラム自身が持った「意志」を変えてしまうことはできないんでしょうね。情報を与えて、意志を曲げさせることしかできない。なので、こういった形でしか覚者を円環に戻すことができなかったのでしょう。

これまでの覚者は、世界規模の大災害を前に人々が死んでいくという状況に耐えられず、意志を曲げ、元の世界に戻ることを条件に削除プログラムを停止してもらっていたのでしょうか。
が、今作の主人公はロセイエスの支援を受けられましたので、この世界から人々を救う、という選択肢が生まれたわけですね。

■加護無き世界の顛末と竜憑き考察

さて、崩壊一直線の「加護なき世界」ですが、界王としてのロセイエスの機能が動いたおかげで、海底神殿、つまり旧・領都グランソレン周辺は削除を食い止められており、主人公はかかわりのあった人々をここに避難させます。本来、この場所はフォアグラウンドに出てくる領域じゃなかったので、プログラム上、削除対象外だったのかもしれません。

覚者はまた、(最大)四か所に仕掛けられた「虚無を具現化させたモンスター」を倒し(一個はヒュージブル生成マシーンだったけど)、世界の消去を食い止めます。リディルをかざすと戦闘になるのは、たぶん、モンスターが消去を開始するタイムスケジュールを変更して、即時実行させているのでしょう。

生き延びたファズスもまた、理から抜け出した世界を崩壊から守ろうとしており、主人公のメインポーンが覚者の生命力を得て不死になっていることから、もしや停止したタロスの動力源になりうるのではないか?と考えたのかなと。で、動力を失ったタロスにメインポーンを強制的に組み込むことで覚者の生命力をタロスに注ぎ込んで再起動、虚無モンスターを食い止めることに成功。この世界の一端を守り抜きます。

「加護無き世界」を見せた導き手の想像以上に覚者の力、すなわち生への意志は強く、覚者は虚無モンスターを次々倒して世界の崩壊を食い止め、住人たちを守り抜きます。が、ロセイエスの力が消えた世界のど真ん中の海底神殿に最後の消去プログラムが仕掛けられます。

ここは、集まった人に離れろ、っていってから呼び寄せたほうがよかったんじゃないの覚者君、となりますが、リディルによって空から呼び寄せられたのは、いちばんでっかいドラゴンでございます。

このドラゴン、たぶん、前作のドラゴンのデザインなんですよね。
今作のドラゴンは目が黄色いんですが、最後のどでかい赤竜は目が赤い。前作のドラゴンも目が赤い。サイズ感も多分前作のドラゴンに近いけどなあ。
あんま関係ないのかな。

で、ドラゴン登場と同時に、赤い雲がすべて晴れ、青空が広がります。
これはたぶん、「虚無」の総動員、加護無き世界という世界消去プログラムの最終段階、ということでしょう。
物語の円環が取り返しのつかないくらい崩壊したときの最後の責任を取るのはおそらく「導き手」であって、あのドラゴンは導き手が残りの虚無を総動員してドラゴン化した姿じゃないかな?と思います。ドラゴンの死後、どうやら導き手も死ぬ?消える?ようなナレーションを入れますので。

本当は、ドラゴンは覚者など捨て置いて、きれいさっぱりこの世界を消去するはずだったのだと思いますが、竜化を発動させたメインポーンの活躍で、覚者はドラゴンのもとに向かいます。

この竜憑きによるメインポーンの竜化発動なんですが、たぶん、最終兵器ドラゴンとともにこの世界のすべてを消去するため、本質が虚無であるポーンたちを一斉に覚醒させて竜化し、ドラゴンと一緒に全世界を破壊する殺戮マシーンにする、というのが、導き手による、この世界の最終消去プログラムであったのではないかと思うのです。

要するに、基本的にポーンは「大いなる意志」側が任意で操作できるBOTのようなプログラムが実装されており、通常は覚者が使役してメインストーリー維持に資する存在なわけですが、覚者が円環を脱し、ストーリーが崩壊してしまった際は最終兵器ドラゴンに操作権が移り、竜化発動して、地ならしを発動する、みたいなことかなと。漫画「進撃の巨人」の、ユミルの民みたいな感じですね。
トリガーは竜との接触であり、まれに、ドレイクなどとの戦いでも時限スイッチが入ってしまい、それが竜憑きに発展するのかなと。

加護無き世界に入ると、世界の消去のタイムテーブルが決まっており、世界の維持プログラムの停止からゲーム内時間で一か月後に消去プログラムが稼働し、稼働から四日目以降、少しずつ周辺から消去が行われながら、最後はど真ん中に虚無を全集中して、ドラゴンと竜化ポーンによるゼロライトが行われるということになるのが全容なんだろうと思います。
加護無き世界に入った段階でポーンたちは10日後に竜化が発動するように設定されていますが、主人公がリディルでプログラム開始時期を早めた場合は、最終ドラゴンとの接触によって即時竜化発動するようになっていたのでしょう。

なので、加護無き世界に到達した異界からきた破壊プログラムのカウントダウンが開始されたポーンから、異世界のポーンが竜化発動シグナルを受け取ってしまう(感染する)と、まだ発動すべきでないほかのプレイヤーの世界でポーンが殺戮モードに入ってしまい、NPCを皆殺しにしてしまうという事象が発生するんじゃないかという。

エンディングの場面では、メインポーンは予定通り竜化し、一度はドラゴンを追って飛び立ちます。でも、そこから戻ってきて、覚者を乗せようとします。長い間覚者と旅をし続けたことで、メインポーンには覚者の意志の一部が移り、操られる存在ではなく、「自分の思い描く世界にしたい」という意志の力で行動をするという力を手に入れたからですね。

また、メイポが覚者にぞっこん状態だと、これが、愛の力という描き方になって、自分のすべてをマスターにささげたい、という意志が、竜化のプログラムをはねのけ、自由意志による行動をとるようになる、という演出になるようです(まだ実際には見てない)。

メインポーンの活躍で最終兵器ドラゴンの急所を露出させ、覚者はそこにリディルを突き立て、虚無の集合体であるドラゴンを破壊し、世界を消去するプログラムを停止させます。その代償に覚者は吹き出した血が急速に結晶化したものによって体を貫かれ、絶命します。あれが砕けて散らばったやつが竜血晶なんだろな。

覚者の生命力によって維持されていたメインポーンも、おそらくは消えてしまうのでしょう。

ドラゴンが破壊されれば、同化していた導き手も消去されることになります。導き手は、最後に「口惜しい」と言います。

虚無とは何か、ということですが、これは、物語を成立させるために、本来は広大な世界を、ゲームのマップ程度の広さに制限するための「限界」なんだと思います。ドラゴンズドグマにおいては、水中探索を阻止するヒュージブルが世界の果ての存在を隠しています。水がなくなった加護無き世界では、世界の果てに行くとヒュージブルが行く手を邪魔します。
つまり、虚無がない世界というのは、おそらく我々がプレイしてきたドラゴンズドグマよりもはるかに広い世界となるんだと思います。ただ、その世界で、「大いなる意志」が意図的に「勇者がドラゴンを倒す物語」を紡ぐのは難しく、だからこそ、虚無によって範囲を決めることで、世界が成立していたのでしょう。

虚無のなくなった世界では、「大いなる意志」がコントロールする物語は作れないのですが、おそらくは、NPCたちが役割から解放されます。覚者とかかわった人々は、メインポーンと同じように覚者の意志を身に宿し、それぞれの道を選ぶのでしょう。新体制になったヴェルンワースや、生き残った人たちそれぞれの物語、海にこぎ出した海辺の老人の物語と、覚者だけではない、NPCや生きとし生けるものすべてのそれぞれの物語が始まるわけです。

その中には、「観る者」が心震わせる、観るべき物語が自然と生まれてくるかもしれません。でも、自身の役割が失われ、新しい物語をもはや観ることができないことに、導き手は嘆き、「口惜しい」と言ったのでしょう。それは、覚者がもたらした新世界に対する期待や希望であるようにも思います。「導き手」は、物語を愛する存在なのでしょう。

その後の覚者の話がDLCなどで語られるかはわかりませんが、ドラゴンズドグマ2の世界は竜の理を外れ、「観る者」の手も離れ、新しい世界へと移行します。なので、今回もまた、円環からの脱出ということで、繰り返される物語はエンディングを迎えたのだと思います。


■メタ的な話と邪推


さて、ここからは完全に僕の邪推なんで、ほんとにゲスい話と読み流してほしいんですけれども。

今作ドラゴンズドグマ2は、実際の「ゲーム」というものがメタ化されており、いろいろな対比があるんじゃないかと思います。

「大いなる意志」は、カプコン上層部で、「観る者」はプレイヤー、「導き手」はゲーム開発者を表していたんじゃないかな?と思います。「虚無」は、開発費の限界みたいなのを表していて、この枠内でしか物語を作れない、という現状を皮肉っていたようにも思います。
で、今回のゲーム内メタ世界の話は、前作ドラゴンズドグマリリース以降の開発者側のいろんな思いが入ってるんじゃないかなtと。

前作「ドラゴンズドグマ」は、生きる意志というものがテーマになっていましたが、「有限の価値」ということもメッセージとして込められていたと思います。昨今はエンドコンテンツとかうるさいゲーマーがいますけど、物語というのは完結する、クリアして終わりが来るから面白いのであって、同じことをダラダラ続けるゲームなんて面白い? みたいな開発側の思いがあったんじゃないかな?と思います。
で、ドラゴンズドグマ2作を作り上げたのは伊津野さんというディレクターさんですが、このディレクターさんの哲学みたいなものが込められているのかなと。

前作リリースの後、カプコンがリリースしたのは「ドラゴンズドグマオンライン」であり、キャッチコピーは、「永久に語り継がれる冒険を、“オンライン”から」でありました。円環、繰り返し、終わらない物語、を想起させるものになっています。オンゲーっていうのは、まあそういうものですね。拡張し続けながら、長く遊んでもらい、長く課金してもらうためのゲームです。

ただ、オンラインには伊津野さんはかかわっておられないわけです。

そもそも、前作の世界観からすると、この作品をオンゲー化するというのは、まったくもって趣旨に反するものなんじゃないかと思うのですよ。
DDONは未プレイなのであんまり決めつけては言えないですが、伊津野さんが作り上げたドラゴンズドグマの世界、メッセージとは違う作品になってしまったんじゃないかと。

また、ドラゴンズドグマ2発売までに13年という時間がかかるわけですが、なんで初作でスマッシュヒットしたのにすぐ2の企画が立ち上がらなかったのかというと、伊津野さんがデビルメイクライシリーズにかかわっていたこともあるでしょうが、似たようなコンセプトの『DEEP DOWN』に開発リソースが突っ込まれていたからなんじゃないか?と思うわけです。

先行発表されていた映像からするに、世界観としてはメインのアクションパートはドラゴンズドグマっぽくもあり、かつ、ソウルライクなイメージがあります。設定的には、アサシンクリードシリーズみたいなメタ構成が取られており、自動生成ダンジョンによるローグライクで、終わりのないエンドレスなゲーム、という、あらゆるゲームの要素を全部突っ込んだ作品になる予定だったように見えます。

ゲームというのは物語であり、物語というのはしっかり完結させるべきだ、というのがおそらく伊津野さんのポリシーなんだろうと思うのですが、ドラゴンズドグマオンラインも、DEEP DOWNも、そのポリシーに反するゲームシステムなように思えます。

「DEEP DOWN」も略称は『DD』であり、開発はドラゴンズドグマのリリース翌年でしたから、ドラゴンズドグマ的なプレイのできる、永遠に終わらないゲームを作ろう、っていうコンセプトだったんじゃないかと。もうほんとのほんとのの邪推ですけど、ドラゴンズドグマのコンセプトは『DEEP DOWN』に引き継いで、ドラゴンズドグマはもう続編を作らない、という方針にしたんじゃないかと。なんでかと言えば、「終わらないゲーム」のほうが、コンテンツとしての寿命が長く、課金などによる利益を生むからです。ドラゴンズドグマの、結末に至る前の要素が、上層部としては金もうけに最適な設定のように感じたのではないでしょうか。

なので「大いなる意志」カプコン上層部は、「ゲームが消費されてしまうのが悲しい」という意志を面白いと判断して、ドラゴンと覚者が円環を作り、永遠に終わることのないゲームの開発をしようとします。

そのために、「きっちり終わるゲーム」であったドラゴンズドグマのコンセプトを伊津野さんから取り上げ、ほかの人に任せて、「永遠に終わらない円環」というアイデアだけを流用した「ドラゴンズドグマオンライン」と、「DEEP DOWN」を企画したんじゃないかと。

もちろん事情は分からないですが、DEEP DOWNは開発がとん挫し、開発リーダーはカプコンを離れます。そこでやっと、ドラゴンズドグマ2の開発のお鉢が伊津野さんに回ってきたんじゃないかな?と思うんですよね。

なので、物語は円環じゃダメなんだよ、しっかり完結させないと!という恨み節みたいなのが今回の作中暗示されていて、「大いなる意志」やら「観る者」の変な圧力を跳ね返し、自分たちの作りたいゲームを作るんだ!という強い意志を持ってできた作品が、今作、みたいなことなんじゃないか、と、めちゃくちゃ勝手に想像しました。


いや、事実であるかはもう全く根拠ないのでね。
ただ、裏のストーリーみたいなのを妄想しちゃうのは、モノカキの職業病みたいなものなわけでしてね。
たぶん、こんなことないですよ。うん。




ただ……ね? 今作冒頭で主人公が覚者になるシーンって、「DEEP DOWN」のトレーラーで一番印象的だった、重装のファイターが盾でドラゴンのブレスに耐えながら前進していくシーンとめちゃくちゃ似てるんですよね……。

で、ドラゴンズドグマ2では、そのシーンで覚者はあっさり盾をぶっ飛ばされ、丸焦げにされるんですよ。なんかこう、ね。邪推したくなる要素があるというか。


だいぶゲスったので、こういう考察はほどほどに。


ということで、ゲームとしては賛否あったものですが、物語の構造としては非常に練られていて、おもしろいなあと思いながらクリアしました。
二週目やりたいけど、お仕事もせねばならぬので、当面凍結かな。
DLCが出たらやれるように頑張ってお仕事終わらせようと思います。




小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp